三章、彼の背を追って 【エクステンデット処理済み】
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ローハンの平原を渡り、アンドゥイン川を遡ったネルファンディアは、どの遥か遠くの頂きもエレボールに見えて仕方がなかった。実際何度か山を越えるのでここから見えるはずはないのに、彼女はいつも自室から見える懐かしいあの場所を探していた。いや本当のところ、そもそも自室から見えるあの頂きさえ、違う気さえしていた。振り向くと、遥か遠くに確証を持ってこれだと断言出来る山が見えた。そう、命を持つものが最も恐れ、存在さえ出来ないのではないかと疑うモルドールの滅びの山だ。煌々と燃え盛る火口を目を凝らして見れば、あのバラド・ドゥアの塔がはっきりと浮かび上がるようだまた奴────サウロンの目と向かい合うような感覚に陥った彼女は恐怖と嫌悪から目をそらし、旅路を急いだ。
裂け谷は相変わらずの美しさと平和を保っており、迎え出たエルロンドの召使いも60年前から何一つ変わっていない。ネルファンディアが着くことを予め予見していたかのように現れたエルロンド卿は、ガラドリエルとサルマン、そしてガンダルフの分が空いた会議席に着くと、彼女にサルマンの席に着くように促した。それがこの世界には既に自分の知っている父が存在しないことを残酷にもはっきり示しているような気がして、チクリと彼女の胸が痛んだ。
「ガンダルフは我が父に捕えられました。彼は私に今起きている恐ろしいことの一部始終を伝えて下さりました。これら全てが真なら、中つ国の自由存亡の危機ではないですか」
ネルファンディアは出来るだけ冷静に努めたが、それでも事の重大さと焦り、そして不安が彼女の口調を心なしか早めた。エルロンドは察してため息をつくと、彼女の心を落ち着けるために飲み物を渡した。
「……これでも飲みなさい。」
「ありがとうございます」
しばらくして平静の彼女に戻ったと見た彼は、部屋に迷い込んできた木の葉を手に取り、眺めながら人事のように呟いた。
「サルマンの裏切りは、白の軍勢──引いては中つ国の民にとって大きな痛手だ。だが、力の指輪を壊すことが出来れば、全てが終わる。」
「それがやつの手に渡ればまた然り、ですね」
エルロンドは60年前とは違って物事を見据える力がついたネルファンディアに驚いた。そして、この大人びた表情の代償として、彼女が愛する人を失ったことも思い出した。彼は限りある命の残酷さに身震いすると、彼女に腰掛けるように促した。
「既に会議の招集は始まっている。人間、エルフ、ドワーフ…すべての代表者が集う。」
「ドワーフ………エレボールの者も、来るのですか?」
「ああ。グローインの息子、ギムリがやって来る」
グローイン。ネルファンディアは目を閉じて彼のことを思い出した。レゴラスに醜いと揶揄されても黙っていたあの家族思いのグローインだ。彼女は旅の仲間の子孫が生きていることを知り、心から喜んだ。そして、ふと気になった。
「……トーリンなら、私にこの件にどうやって関われと言うでしょうか?」
エルロンドはトーリンと聞いて哀愁の念を感じずにはいられず、ネルファンディアから背を向けて返事をした。
「ああ……そうだな。彼なら、自分が正しいと思う道を行けと言うだろうな」
彼女はその言葉を聞いて、エレボールの方角に目を向けた。
───トーリン、私は……
ネルファンディアはあのときのようには決定できなかった。あのときは、本当に自分は若かった。今も若いと言われればそれまでだが、もうすべてのことに内心疲れていた。
彼女はあの時と同じ部屋に通されると、裂け谷の変わらぬ風景を懐かしんだ。だが、以前に増して枯れ葉が増えている。
「……中つ国の、終焉………か」
エルフの力が弱まっている証である変化に、ネルファンディアは相変わらず自由の民の無力さを感じた。あのときと同じ無力感にさいなまれた彼女は、それに耐えきれず部屋を出た。あの時と同じように外へ出た彼女は、そこでもトーリンとの思い出に蝕まれている自分を見つけた。
……美しい服だな。召使いにしては
「……本当に、あなたは失礼だったわね」
彼女はトーリンの指輪を取り出すと、それを眺めながらぽつりと呟いた。今から思えばどれもこれも愛情の裏返しだったのだと気づくことが、余計に悲しくて耐えがたかった。
───私、ドワーフが好きになりました!
いいえ、本当はあの時嘘をつきました。ドワーフではなく王子様、あなたを好きになりました。私は、どうしようもなくあなたをお慕いしていました。
思い起こせば考える以上に幸せな出来事も多かったことに気づいたネルファンディアは、いつのまにか心地よい懐慕の念に浸っていた。だが、それを壊す“動”が裂け谷にもたらされた。
「誰か!助けて!この小さき人が死んでしまうわ」
エルフ語ではあったものの、その声に聞き覚えがあった彼女は、騒ぎのする方向へ向かった。すると、そこにはエルロンドの娘、アルウェンが居た。2700歳であり、エルフにしてはそこそこの年長者だ。彼女はネルファンディアに気づくと、血相を抱えて駆け寄ってきた。
「ネルファンディア!!ネルファンディア!私のメルロン(友)。どうか助けてください。」
「アルウェン………一体どうしたのですか?」
「この者……フロドが、モルグルの剣を受けました」
彼女はすぐにフロドと呼ばれたホビットの傷を見た。思った以上に深い刺し傷に、ネルファンディアはキーリが受けた矢を思い出した。あのときは、弓矢だったのでアセラスを用いてタウリエルが簡単に救ったが、今回はナズグル直々の剣なので訳が違う。彼女が険しそうな表情をすると、アルウェンはより不安そうな顔を向けてくる。彼女は出来るかわからないがと断りを入れた上で、この小さき人を救うために自室へと運び込むのを指示するのだった。
フロドが目覚めたのは、ネルファンディアの借りる部屋のベッドの上だった。隣にはガンダルフが居り、彼はひどく安心した。
「ガンダルフ!どうして来なかったの?」
「色々あってな。話せば長い。それより、老いぼれの話を聞くよりもそなたには礼を言わねばならぬ相手がおる。月の間に行け」
彼はそう言われ、裂け谷の外れにある月の間へ向かった。そこは息を飲むほど美しい月光がこうこうと照っており、その光が奥にある水晶の台座に反射している。その台の目の前に立つ人こそが、自分が礼を言わねばならぬ相手だと直感的に気づいたフロドは、話しかけるのもためらわれる雰囲気の中、一歩近づいた。
「………傷は、治りましたか?」
「ええ、なんとか。ありがとうございます」
「気にしないで。それより、ビルボの養子なんですって?」
彼はその言葉に驚いてしまった。ビルボという言葉を知っている者がここにも居るとは。しかも年若そうな女性が。彼の表情を見て、ネルファンディアはすぐに年の割にはよくその名前を知っているなと驚いているのかと悟った。そこで彼女はフロドに微笑みかけると、一言こう言った。
「イスタリ。イスタリのネルファンディアよ。クルーニアの娘、ネルファンディアと言うの」
「女性のイスタリが居るなんて、初めて知りました」
「でしょうね。エルフとの混血なの。」
そして、ドワーフの妻。何とも不思議な肩書きに、彼女自身も心の中で笑ってしまった。フロドは知的で不可思議な微笑にわずかな恐怖心を抱いた。
「……あの、何故そんな顔を?」
「私が?ああ……そうね、疲れすぎた、とだけ言っておくわ」
またもや謎が深まった彼はそれ以上尋ねるのをやめた。ただ、イスタリはやはり少し気難しいという印象は変わらず、彼は普遍的なものを見いだすことができて少し安心するのだった。
ある日、ネルファンディアがエルロンドとドワーフたちの宴が行われたバルコニーに出てみると、なんとそこにはビルボの姿があった。年老いてはいるが、彼女は遠目から服装だけですぐに彼と気づいた。
「ビルボ!ビルボ・バキンズね!」
「………ネルファンディア…?そうなのか……ネルファンディアなのか………!」
二人は抱き合うと、長年の溝を埋め始めた。トーリンとの思出話も、彼となら楽しさに花が咲く。
「それで、私は居ないと思われてあのゴブリン洞窟前に置いていかれそうになったんですよね?」
「ええ。今から聞けば全く酷い話だわ!」
「あなたとトーリンが両想いになるのを皆が賭けていたのはご存じで?」
「えっ?そうだったの?」
ネルファンディアが初めて聞く話も多く、その度に楽しかった日々を思い出しては目頭が熱くなるのを感じていた。ふと、ビルボは思い出したように一冊の本を持ち出してきた。
「これをあなたに読んでほしい。以前言っていた私たちの冒険を書いたものです。あなたは私に登場させるなと仰ったから出ていませんが……」
「まぁ……出来たのね。その方がいいわ。トーリンに浮わついた話なんて、似合わないもの」
『行きて帰りし物語』と書かれた表紙をめくると、美しい文字で旅の全てが記されていた。ネルファンディアはじっくりと読み進めた。自分のいない旅はどこか滑稽で、けれど心安らいだ。ふと、彼女はエレボールの鍵の挿し絵に目を留めた。
「懐かしいな………鍵穴がなくて二人で探しましたよね、私たち。」
「そうね。やはりホビットは賢いわ」
でも開けるべきではなかったと言おうとして、彼は慌てて口をつぐんだ。そんなことには気づいていないネルファンディアは、再び本に目を通し始めた。トーリンという名前が出てくる度に、その字面を追う度に、呪いのようにむせかえる想いを封じながら、彼女は本を読み終えた。
「……良かったわ、とても。きっと、トーリンは世界中の人たちに歌として、詩として、そして物語として語られることでしょう。」
「それで満足なんですか?あなたは」
本を返してきびすを返したネルファンディアは、その言葉に歩みを止めた。そして、悲しいくらいに優しい笑顔で答えた。
「ええ、当然じゃない。あの人は私だけのトーリンではいわ。みんなの山の下の王、トーリン・オーケンシールドなんだもの。」
釈然としないまま、ネルファンディアの背中をビルボは見送った。その姿がどうしても悲しそうで、彼は一生忘れられない複雑な哀愁を感じながら、新たにペンをインクにつけるのだった。
ビルボに懐かしさを掻き立てられたネルファンディアが、トーリンの指輪を眺めてバルコニーに腰かけていると、不意に誰かの気配を感じた。顔をあげてみると、そこには口をぽかんと開けている人間の男がいた。なんとなく、フィーリに似ている。
彼は目を泳がせながら近づいてくると、息を吸って尋ねてきた。
「あの……道に迷ったみたいで……」
「なるほど」
昔に聞いた言い訳と似ているなと思いながらも、ネルファンディアは丁寧に男を案内し始めた。その間もずっと、彼の視線はこの美しい賢者の娘に向けられていた。腰に下げている剣の柄を見るだけで男がゴンドールの者だとわかるので、ネルファンディアは隣に目を向けることなく言った。
「あなたは、ゴンドールの方ですね?」
「すごいな。何でわかったんだ?」
「何となく、です」
「へぇ……あんた、誰なんだ?」
ネルファンディアは一瞬戸惑った。というのも今まで使っていた名乗り方が使えないからだ。だがあれが一番わかりやすい。彼女は開き直っていつも通りに答えた。
「……白の賢者サルマンと、ロスロリエンの奥方様の妹の子です」
ボロミアはしばらく言葉を失っていたが、何か言い出す前にネルファンディアが案内を終えた。
「あとは奥に行かれるといいでしょう。エルロンド卿にお会いしてください。では」
「あ、ああ……礼を言う。ありがとう」
挨拶をしてから背を向けたネルファンディアは、少し考えると気まぐれに振り返った。そして男の背に先程の種明かしを投げた。
「剣です」
「え?」
「お持ちの剣が、ゴンドールのものだと思ったからです」
では、と付け足してネルファンディアは去っていった。その優美な髪と背中を眺めながら、ゴンドール人──デネソールの息子ボロミアは不思議な気分に浸るのだった。
会議のメンバーが招集されている中にギムリを見つけたネルファンディアは、周りの目が刺さるのも気にせずにこのドワーフに駆け寄った。
「あなたがグローインの息子、ギムリね?」
「そうですが。もしやあなたが、父の言っていたネルファンディア様ですか?」
彼女は一瞬どきりとした。一体グローインは彼になんと言っているのか。恐る恐る彼女は尋ねた。
「……あの、彼は何と?」
「気位高く、美しい方だが誰よりも慈悲深い姫君だとか。ドワーフに格別の信頼を寄せてくださっているとも聞いておりますが、それだけでございます」
それを聞いて彼女はほっとした。トーリンとのことを知っていれば、どういう返事をすればよいのか戸惑ってしまうからだ。
早々に会話を切り上げたものの、いくつかわかったことがある。エレボールはダインの元で再建され、元の美しさを取り戻したこと。そして、デールとエスガロスの湖の町は以前より繁栄していると。トーリンが居なくても、世界は彼を思い出や伝説にして確かに生きている。それが無性に嬉しかった。ネルファンディアは少しだけ軽くなった気持ちを胸に、会議への廊下を早歩きした。
会議にはレゴラスも来ており、ネルファンディアは目を合わせると軽く会釈を返した。彼女は席につかず、ずっと流れる水を眺めていた。会議は紛糾を極め、雑音のような声が濁流のように押し寄せてくる。彼女は堪りかねてこう叫んだ。
「アッシュ ナズグ ドゥルバトゥルーク、 アッシュ ナズグ ギムバトゥル、 アッシュ ナズグ スラカトゥルーク、 アグ ブルズム=イシ クリムパトゥル !」
「ネルファンディア!その言葉をここで口にするな」
エルロンドの制止も聞かず、彼女は啖呵を切った。
「ここで済むだけましだと思ってください!そなたたちが言い争っている間に、いつかこの中つ国全土でこの言葉を聞くだろう!そなたたちの決断は遅い!いつも遅い!それで何人の死を見た?もうたくさんだ。私はもうたくさん!」
いつの間にか、彼女の両目からは涙が溢れていた。その脳裏に巡るのは、本当に大切なものに気づくのが遅かった愚かでもあり、一番大切だった婚約者のことだった。何を意図して話しているのかを理解しているガンダルフは、空を仰いで目を閉じている。他の者は揉めるなと諭されたのかと思っている程度で、再び喧騒に戻ろうとしている。すると、フロドが飛び出してこう叫んだ。
「僕がいきます!僕がこの指輪を捨てに行きます」
「フロド………」
誰もが行きたがらない旅に、率先して名乗りをあげて参加しようとする最も無力なホビットの姿に、彼女はビルボを重ねた。
────僕の本気を、疑ってたのは知ってる。確かに僕は自分の家が大好きだし、忘れたことなんて一度もない。庭の手入れだってしたいし、掃除だってしたいし、料理も読書もしたい。だって、僕の家なんだもの。
「私にはもう帰る家はない。」
────でも、君たちにはない。竜に奪われたせいで。
「でも、あなたちにはまだサウロンから自由を取り戻すチャンスが残されている。」
───だから、手伝いたいんだ。君たちが故郷を取り戻すための旅を。これが僕の戻った理由さ。
「だから、私も手伝うわ。このオルクリストに誓って」
いつの間にかビルボの言葉を辿って、ネルファンディアはこの旅に同行する決心を固めていた。方角も危険さも全てが並外れて異なるこの旅にむかう決意は、相当に導き出すまで大変なものだった。だが、思い立ってからは早かった。トーリンならきっとそうするはず。彼女はついにそう決めたのだ。
すると、先程まで遠巻きで見ていた者たちも集まり始めた。
「私は剣にかけて誓おう」
イシルドゥアの末裔であるアラゴルンが、剣に手をかけて跪づいた。
「俺は斧にかけて!」
ギムリが斧を掲げてそう言う。
「俺は楯にかけて。」
ゴンドール執政の息子であるボロミアも、楯をちらつかせて微笑みを浮かべている。
「私は弓にかけて」
レゴラスも微笑みながら近づいてくる。そして、ガンダルフも杖を片手に歩み寄ってきた。
「わしも誓おう。杖にかけてな」
これで全員かと思ったときだった。会議の場に居なかったホビットたち、サム、メリー、ピピンがなだれ込んできた。
「俺たちも行く!」
「そうです!置いていかないで」
「どこに行くのかは知らないけど、便利だと思うよ」
こうして、個性豊かな10人の旅の仲間が出揃った。エレボール遠征とは違った空気と使命に気を張り詰めさせながらも、ネルファンディアは離れ山の方角を見て、少しだけ微笑むのだった。
裂け谷は相変わらずの美しさと平和を保っており、迎え出たエルロンドの召使いも60年前から何一つ変わっていない。ネルファンディアが着くことを予め予見していたかのように現れたエルロンド卿は、ガラドリエルとサルマン、そしてガンダルフの分が空いた会議席に着くと、彼女にサルマンの席に着くように促した。それがこの世界には既に自分の知っている父が存在しないことを残酷にもはっきり示しているような気がして、チクリと彼女の胸が痛んだ。
「ガンダルフは我が父に捕えられました。彼は私に今起きている恐ろしいことの一部始終を伝えて下さりました。これら全てが真なら、中つ国の自由存亡の危機ではないですか」
ネルファンディアは出来るだけ冷静に努めたが、それでも事の重大さと焦り、そして不安が彼女の口調を心なしか早めた。エルロンドは察してため息をつくと、彼女の心を落ち着けるために飲み物を渡した。
「……これでも飲みなさい。」
「ありがとうございます」
しばらくして平静の彼女に戻ったと見た彼は、部屋に迷い込んできた木の葉を手に取り、眺めながら人事のように呟いた。
「サルマンの裏切りは、白の軍勢──引いては中つ国の民にとって大きな痛手だ。だが、力の指輪を壊すことが出来れば、全てが終わる。」
「それがやつの手に渡ればまた然り、ですね」
エルロンドは60年前とは違って物事を見据える力がついたネルファンディアに驚いた。そして、この大人びた表情の代償として、彼女が愛する人を失ったことも思い出した。彼は限りある命の残酷さに身震いすると、彼女に腰掛けるように促した。
「既に会議の招集は始まっている。人間、エルフ、ドワーフ…すべての代表者が集う。」
「ドワーフ………エレボールの者も、来るのですか?」
「ああ。グローインの息子、ギムリがやって来る」
グローイン。ネルファンディアは目を閉じて彼のことを思い出した。レゴラスに醜いと揶揄されても黙っていたあの家族思いのグローインだ。彼女は旅の仲間の子孫が生きていることを知り、心から喜んだ。そして、ふと気になった。
「……トーリンなら、私にこの件にどうやって関われと言うでしょうか?」
エルロンドはトーリンと聞いて哀愁の念を感じずにはいられず、ネルファンディアから背を向けて返事をした。
「ああ……そうだな。彼なら、自分が正しいと思う道を行けと言うだろうな」
彼女はその言葉を聞いて、エレボールの方角に目を向けた。
───トーリン、私は……
ネルファンディアはあのときのようには決定できなかった。あのときは、本当に自分は若かった。今も若いと言われればそれまでだが、もうすべてのことに内心疲れていた。
彼女はあの時と同じ部屋に通されると、裂け谷の変わらぬ風景を懐かしんだ。だが、以前に増して枯れ葉が増えている。
「……中つ国の、終焉………か」
エルフの力が弱まっている証である変化に、ネルファンディアは相変わらず自由の民の無力さを感じた。あのときと同じ無力感にさいなまれた彼女は、それに耐えきれず部屋を出た。あの時と同じように外へ出た彼女は、そこでもトーリンとの思い出に蝕まれている自分を見つけた。
……美しい服だな。召使いにしては
「……本当に、あなたは失礼だったわね」
彼女はトーリンの指輪を取り出すと、それを眺めながらぽつりと呟いた。今から思えばどれもこれも愛情の裏返しだったのだと気づくことが、余計に悲しくて耐えがたかった。
───私、ドワーフが好きになりました!
いいえ、本当はあの時嘘をつきました。ドワーフではなく王子様、あなたを好きになりました。私は、どうしようもなくあなたをお慕いしていました。
思い起こせば考える以上に幸せな出来事も多かったことに気づいたネルファンディアは、いつのまにか心地よい懐慕の念に浸っていた。だが、それを壊す“動”が裂け谷にもたらされた。
「誰か!助けて!この小さき人が死んでしまうわ」
エルフ語ではあったものの、その声に聞き覚えがあった彼女は、騒ぎのする方向へ向かった。すると、そこにはエルロンドの娘、アルウェンが居た。2700歳であり、エルフにしてはそこそこの年長者だ。彼女はネルファンディアに気づくと、血相を抱えて駆け寄ってきた。
「ネルファンディア!!ネルファンディア!私のメルロン(友)。どうか助けてください。」
「アルウェン………一体どうしたのですか?」
「この者……フロドが、モルグルの剣を受けました」
彼女はすぐにフロドと呼ばれたホビットの傷を見た。思った以上に深い刺し傷に、ネルファンディアはキーリが受けた矢を思い出した。あのときは、弓矢だったのでアセラスを用いてタウリエルが簡単に救ったが、今回はナズグル直々の剣なので訳が違う。彼女が険しそうな表情をすると、アルウェンはより不安そうな顔を向けてくる。彼女は出来るかわからないがと断りを入れた上で、この小さき人を救うために自室へと運び込むのを指示するのだった。
フロドが目覚めたのは、ネルファンディアの借りる部屋のベッドの上だった。隣にはガンダルフが居り、彼はひどく安心した。
「ガンダルフ!どうして来なかったの?」
「色々あってな。話せば長い。それより、老いぼれの話を聞くよりもそなたには礼を言わねばならぬ相手がおる。月の間に行け」
彼はそう言われ、裂け谷の外れにある月の間へ向かった。そこは息を飲むほど美しい月光がこうこうと照っており、その光が奥にある水晶の台座に反射している。その台の目の前に立つ人こそが、自分が礼を言わねばならぬ相手だと直感的に気づいたフロドは、話しかけるのもためらわれる雰囲気の中、一歩近づいた。
「………傷は、治りましたか?」
「ええ、なんとか。ありがとうございます」
「気にしないで。それより、ビルボの養子なんですって?」
彼はその言葉に驚いてしまった。ビルボという言葉を知っている者がここにも居るとは。しかも年若そうな女性が。彼の表情を見て、ネルファンディアはすぐに年の割にはよくその名前を知っているなと驚いているのかと悟った。そこで彼女はフロドに微笑みかけると、一言こう言った。
「イスタリ。イスタリのネルファンディアよ。クルーニアの娘、ネルファンディアと言うの」
「女性のイスタリが居るなんて、初めて知りました」
「でしょうね。エルフとの混血なの。」
そして、ドワーフの妻。何とも不思議な肩書きに、彼女自身も心の中で笑ってしまった。フロドは知的で不可思議な微笑にわずかな恐怖心を抱いた。
「……あの、何故そんな顔を?」
「私が?ああ……そうね、疲れすぎた、とだけ言っておくわ」
またもや謎が深まった彼はそれ以上尋ねるのをやめた。ただ、イスタリはやはり少し気難しいという印象は変わらず、彼は普遍的なものを見いだすことができて少し安心するのだった。
ある日、ネルファンディアがエルロンドとドワーフたちの宴が行われたバルコニーに出てみると、なんとそこにはビルボの姿があった。年老いてはいるが、彼女は遠目から服装だけですぐに彼と気づいた。
「ビルボ!ビルボ・バキンズね!」
「………ネルファンディア…?そうなのか……ネルファンディアなのか………!」
二人は抱き合うと、長年の溝を埋め始めた。トーリンとの思出話も、彼となら楽しさに花が咲く。
「それで、私は居ないと思われてあのゴブリン洞窟前に置いていかれそうになったんですよね?」
「ええ。今から聞けば全く酷い話だわ!」
「あなたとトーリンが両想いになるのを皆が賭けていたのはご存じで?」
「えっ?そうだったの?」
ネルファンディアが初めて聞く話も多く、その度に楽しかった日々を思い出しては目頭が熱くなるのを感じていた。ふと、ビルボは思い出したように一冊の本を持ち出してきた。
「これをあなたに読んでほしい。以前言っていた私たちの冒険を書いたものです。あなたは私に登場させるなと仰ったから出ていませんが……」
「まぁ……出来たのね。その方がいいわ。トーリンに浮わついた話なんて、似合わないもの」
『行きて帰りし物語』と書かれた表紙をめくると、美しい文字で旅の全てが記されていた。ネルファンディアはじっくりと読み進めた。自分のいない旅はどこか滑稽で、けれど心安らいだ。ふと、彼女はエレボールの鍵の挿し絵に目を留めた。
「懐かしいな………鍵穴がなくて二人で探しましたよね、私たち。」
「そうね。やはりホビットは賢いわ」
でも開けるべきではなかったと言おうとして、彼は慌てて口をつぐんだ。そんなことには気づいていないネルファンディアは、再び本に目を通し始めた。トーリンという名前が出てくる度に、その字面を追う度に、呪いのようにむせかえる想いを封じながら、彼女は本を読み終えた。
「……良かったわ、とても。きっと、トーリンは世界中の人たちに歌として、詩として、そして物語として語られることでしょう。」
「それで満足なんですか?あなたは」
本を返してきびすを返したネルファンディアは、その言葉に歩みを止めた。そして、悲しいくらいに優しい笑顔で答えた。
「ええ、当然じゃない。あの人は私だけのトーリンではいわ。みんなの山の下の王、トーリン・オーケンシールドなんだもの。」
釈然としないまま、ネルファンディアの背中をビルボは見送った。その姿がどうしても悲しそうで、彼は一生忘れられない複雑な哀愁を感じながら、新たにペンをインクにつけるのだった。
ビルボに懐かしさを掻き立てられたネルファンディアが、トーリンの指輪を眺めてバルコニーに腰かけていると、不意に誰かの気配を感じた。顔をあげてみると、そこには口をぽかんと開けている人間の男がいた。なんとなく、フィーリに似ている。
彼は目を泳がせながら近づいてくると、息を吸って尋ねてきた。
「あの……道に迷ったみたいで……」
「なるほど」
昔に聞いた言い訳と似ているなと思いながらも、ネルファンディアは丁寧に男を案内し始めた。その間もずっと、彼の視線はこの美しい賢者の娘に向けられていた。腰に下げている剣の柄を見るだけで男がゴンドールの者だとわかるので、ネルファンディアは隣に目を向けることなく言った。
「あなたは、ゴンドールの方ですね?」
「すごいな。何でわかったんだ?」
「何となく、です」
「へぇ……あんた、誰なんだ?」
ネルファンディアは一瞬戸惑った。というのも今まで使っていた名乗り方が使えないからだ。だがあれが一番わかりやすい。彼女は開き直っていつも通りに答えた。
「……白の賢者サルマンと、ロスロリエンの奥方様の妹の子です」
ボロミアはしばらく言葉を失っていたが、何か言い出す前にネルファンディアが案内を終えた。
「あとは奥に行かれるといいでしょう。エルロンド卿にお会いしてください。では」
「あ、ああ……礼を言う。ありがとう」
挨拶をしてから背を向けたネルファンディアは、少し考えると気まぐれに振り返った。そして男の背に先程の種明かしを投げた。
「剣です」
「え?」
「お持ちの剣が、ゴンドールのものだと思ったからです」
では、と付け足してネルファンディアは去っていった。その優美な髪と背中を眺めながら、ゴンドール人──デネソールの息子ボロミアは不思議な気分に浸るのだった。
会議のメンバーが招集されている中にギムリを見つけたネルファンディアは、周りの目が刺さるのも気にせずにこのドワーフに駆け寄った。
「あなたがグローインの息子、ギムリね?」
「そうですが。もしやあなたが、父の言っていたネルファンディア様ですか?」
彼女は一瞬どきりとした。一体グローインは彼になんと言っているのか。恐る恐る彼女は尋ねた。
「……あの、彼は何と?」
「気位高く、美しい方だが誰よりも慈悲深い姫君だとか。ドワーフに格別の信頼を寄せてくださっているとも聞いておりますが、それだけでございます」
それを聞いて彼女はほっとした。トーリンとのことを知っていれば、どういう返事をすればよいのか戸惑ってしまうからだ。
早々に会話を切り上げたものの、いくつかわかったことがある。エレボールはダインの元で再建され、元の美しさを取り戻したこと。そして、デールとエスガロスの湖の町は以前より繁栄していると。トーリンが居なくても、世界は彼を思い出や伝説にして確かに生きている。それが無性に嬉しかった。ネルファンディアは少しだけ軽くなった気持ちを胸に、会議への廊下を早歩きした。
会議にはレゴラスも来ており、ネルファンディアは目を合わせると軽く会釈を返した。彼女は席につかず、ずっと流れる水を眺めていた。会議は紛糾を極め、雑音のような声が濁流のように押し寄せてくる。彼女は堪りかねてこう叫んだ。
「アッシュ ナズグ ドゥルバトゥルーク、 アッシュ ナズグ ギムバトゥル、 アッシュ ナズグ スラカトゥルーク、 アグ ブルズム=イシ クリムパトゥル !」
「ネルファンディア!その言葉をここで口にするな」
エルロンドの制止も聞かず、彼女は啖呵を切った。
「ここで済むだけましだと思ってください!そなたたちが言い争っている間に、いつかこの中つ国全土でこの言葉を聞くだろう!そなたたちの決断は遅い!いつも遅い!それで何人の死を見た?もうたくさんだ。私はもうたくさん!」
いつの間にか、彼女の両目からは涙が溢れていた。その脳裏に巡るのは、本当に大切なものに気づくのが遅かった愚かでもあり、一番大切だった婚約者のことだった。何を意図して話しているのかを理解しているガンダルフは、空を仰いで目を閉じている。他の者は揉めるなと諭されたのかと思っている程度で、再び喧騒に戻ろうとしている。すると、フロドが飛び出してこう叫んだ。
「僕がいきます!僕がこの指輪を捨てに行きます」
「フロド………」
誰もが行きたがらない旅に、率先して名乗りをあげて参加しようとする最も無力なホビットの姿に、彼女はビルボを重ねた。
────僕の本気を、疑ってたのは知ってる。確かに僕は自分の家が大好きだし、忘れたことなんて一度もない。庭の手入れだってしたいし、掃除だってしたいし、料理も読書もしたい。だって、僕の家なんだもの。
「私にはもう帰る家はない。」
────でも、君たちにはない。竜に奪われたせいで。
「でも、あなたちにはまだサウロンから自由を取り戻すチャンスが残されている。」
───だから、手伝いたいんだ。君たちが故郷を取り戻すための旅を。これが僕の戻った理由さ。
「だから、私も手伝うわ。このオルクリストに誓って」
いつの間にかビルボの言葉を辿って、ネルファンディアはこの旅に同行する決心を固めていた。方角も危険さも全てが並外れて異なるこの旅にむかう決意は、相当に導き出すまで大変なものだった。だが、思い立ってからは早かった。トーリンならきっとそうするはず。彼女はついにそう決めたのだ。
すると、先程まで遠巻きで見ていた者たちも集まり始めた。
「私は剣にかけて誓おう」
イシルドゥアの末裔であるアラゴルンが、剣に手をかけて跪づいた。
「俺は斧にかけて!」
ギムリが斧を掲げてそう言う。
「俺は楯にかけて。」
ゴンドール執政の息子であるボロミアも、楯をちらつかせて微笑みを浮かべている。
「私は弓にかけて」
レゴラスも微笑みながら近づいてくる。そして、ガンダルフも杖を片手に歩み寄ってきた。
「わしも誓おう。杖にかけてな」
これで全員かと思ったときだった。会議の場に居なかったホビットたち、サム、メリー、ピピンがなだれ込んできた。
「俺たちも行く!」
「そうです!置いていかないで」
「どこに行くのかは知らないけど、便利だと思うよ」
こうして、個性豊かな10人の旅の仲間が出揃った。エレボール遠征とは違った空気と使命に気を張り詰めさせながらも、ネルファンディアは離れ山の方角を見て、少しだけ微笑むのだった。