七章、ドゥリンの陽【エクステンデッド処理済】
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
武器を調達しに武器庫へ忍び入ったトーリンたちは、首尾よく目当ての武器を選んで立ち去ろうとしていた。その中でキーリは、矢が刺さった傷をかばいながら歩いていた。汗がうっすらとにじんでいる彼の顔色は良くない。ネルファンディアが気遣って彼に声をかけようとした時だった。階段から勢いよく彼が持っていた剣などと共に落ちた。その音は衛兵たちを気づかせるのには充分で、彼らはすぐに取り囲まれた。
「今度は本当の盗人になるわね」
「1度なってみたいと思っていた」
彼らは捕まると、領主の前に連行された。いかにも悪辣でずるそうな男と執事と思しき腰巾着の男が彼らを出迎えた。よそ者がなかなか来ないエスガロスにとっては珍しいことのようで、すぐに他の住民達も野次馬として集まってきた。
「武器庫に入るとは!あれは私……たちの財産だ!それを奪うとはなんという盗人!」
盗人呼ばわりされ、ドワーリンが怒りに打ち震えて前へ進み出た。
「盗人とは無礼な!ここにおわすのはトーリン・オーケンシールド王子ぞ!」
トーリンはゆっくりと領主の前に歩み出た。その背中からは、今まで以上に王として然るべき威厳と高貴さが漂っていた。彼は威厳と自信に満ちた声で領主に挨拶すると、民衆に向き直ってこう言った。
「いかにも、私はトーリンだ。ここがかつて素晴らしい北方一の貿易港であった時から知っている。」
辺りがざわついた。
「だが、今は廃墟。辛い暮らしに、寒いだけの場所だ。」
彼は続けた。
「予言の時が来た。エレボール奪還は今。私がこの奪還を成功させたら、そなたたちもあの山に眠る財宝の分け前に預かる権利がある!」
いっそう辺りがざわついたが、今度のそれは歓喜を含んだざわつきだった。だが、その間をぬってバルドがやってきた。彼はトーリンと真逆な内容で民衆に呼びかけた。
「みんな!エレボールを奪還するということは、竜を目覚めさせることになるんじゃあないのか?」
竜という言葉を聞いた民衆は、困惑の表情に戻った。トーリンがため息をつく。
「だからどうした」
「みんな死ぬ。大体、トーリン王子。あんたのおじい様が財宝に狂ったからこうなったんだろう。俺達がそれに巻き込まれて死ぬなんてことはごめんだ」
二人が睨み合う。民衆も決めかねているようだ。すると、いいところで領主が声を上げた。
「君たち!一人に責任を押し付けるのはよくない。それに、竜を退治し損ねた君のデールの領主だった祖父が最大の問題だと思うが?バルド」
ネルファンディアはバルドの方を振り返らずにはいられなかった。
────だからバインは竜の鱗のことを……
民衆の冷たい目がバルドに刺さる。彼のせいではないのに。対照的に領主は笑顔でトーリンにこう言った。
「君を歓迎しよう、ドゥリンの息子よ!」
荒廃した街には驚くほどに似つかない歓声が湧き上がった。トーリンは堂々とした姿で民衆に宣言した。
「過去の栄光を取り戻そうぞ!そなたたちにエレボールの富を保証しよう!新たな時代の始まりだ!もう1度あの繁栄を見たいとは思わぬか?」
その姿は、王そのものだった。ネルファンディアは旅の仲間ではただ一人、その姿を遠い目で見つめていた。
エスガロスの民たち、特に統領から大歓迎を受けたトーリンたちは、宴の席を設けられることとなった。ネルファンディアはエスガロスの貧窮の中で接待を受けることに気乗りでなかったが、全員が既に聞く耳を持たないので、黙って宴会に参加するはめになった。
皆が歌って踊って楽しむ中、彼女は統領の言葉に何かを思い出した。それは日付のことだったのだが、果たして何のことだったのか。辺りを見回してみると、丁度一人で飲んでいるビルボが目に飛び込んでくる。そして全てを思い出した。
────そうだ!今日はビルボの誕生日なんだわ!
それは二人が共に見張りについていた時のことだった。互いに改めて自己紹介をしていると、誕生日の話になったのだ。
────私は3月28日よ。あなたは?
────僕は9月22日さ。
ネルファンディアは即座に何か渡せるものはないかと探した。だが、この旅で所有金額は皆無に等しくなってしまった。しばらく探し続けていると、彼女は荷物の中にファンゴルンの木で作ったブレスレットがあったことに気づいた。戦いの最中に無くしたくなかったので、あえて身に付けていなかったのだ。それほどに大切なブレスレットであるのには、理由があった。
それは幼い頃、初めて魔法を込めて作った道具だったのだ。杖は早すぎたが、父サルマンはネルファンディアにそれに準ずるものを作らせてくれた。初めて魔法使いへの第一歩を踏み出した記念品。それがこのブレスレットだった。
けれど最初に自分を仲間として受け入れてくれた唯一無二の友であるビルボに対し、これをあげることに勿体なく思う理由は、ネルファンディアにはなかった。彼女はビールを渡す素振りを装いながら、自然に声をかけた。
「ビルボ!楽しんでる?」
「ネルファンディア!ええ、もちろん」
ネルファンディアは首尾よくビルボの隣に腰かけた。彼はまだ気づいていないらしい。後ろの方でボフールが歌っているのが聞こえており、ビルボはそちらに気をとられている。
「ボフールって、歌が上手いよね」
「そうね。ドワーフは皆、歌が上手なのかしら」
「ネルファンディアは美声って感じがするなぁ」
「そう?もう酔ってるの?」
上機嫌に笑うビルボを見て、ネルファンディアはそろそろかと思ってブレスレットを差し出した。
「お誕生日おめでとう、ビルボ」
ホビットは目が点になって、飲みかけのジョッキを上げたまま固まってしまった。視線はネルファンディアの顔と、ブレスレットを行き来している。
「え……よく覚えててくれたね!何て言うか……嬉しいよ、ありがとう」
ビルボは満面の笑みを浮かべながら、ジョッキを置いてブレスレットを手に取った。
「へぇ……すごい、今も暖かな木の匂いがする。まるで袋小路屋敷に帰ってきたみたいだよ。……何か烙印を押しているけど、これは何なの?」
「それは呪文よ。父が押してくれたの。『これを持つ者は、数多の祝福の友である』って書いてあるの」
それを聞いて、ビルボは急に不安になった。贈り物がとても貴重なものに思えてきたからだ。
「こ、これって大切なものじゃないの?」
「ええ、そうね。初めて魔法を習ったときからずっと一緒だった。昔はこれが杖の代わりだったの」
ビルボは慌ててブレスレットを贈り主に差し出した。
「そんな大切なもの、貰えないよ!気持ちだけで充分だから」
けれど、ネルファンディアは首を横に振った。
「いいのよ。勇気ある素敵な友達に持っていて欲しい。もし、迷惑でなければ貰ってくれるかしら?」
ビルボはしばらく考えていたが、やがて静かに頷いた。ネルファンディアは眩しい笑顔になると、ボフールが一曲歌い終えたのを見計らって声を上げた。
「みんな!今日はビルボの誕生日なんだって」
「い、いいよ!大丈夫だ────」
「そうなのか?じゃあ、みんな!忍の者に一曲歌おうぜ!」
ネルファンディアの声に反応したのはボフールだけではない。部屋の端の方で、独りで呑んでいたトーリンもだった。キーリは痛む傷のことなど忘れ、フィーリを肘で小突いた。
「叔父上とネルファンディア、なんであんなに離れてるんだ?」
「折角だから、引っ付けて差し上げようか」
二人は悪戯っ子のような笑顔で互いを見ると、歌と躍りが始まってからトーリンの隣へ向かった。
「叔父上、辛気くさいですよ?」
「別に辛気くさくなど……」
「ほら、トーリンも踊らないと!」
「こら!フィーリ、押すな!キーリ!蹴るな!」
二人の甥に押されて蹴られたトーリンは、あっという間に踊る仲間たちの中に呑み込まれた。そしてキーリたちの目論見を察したボフールが、歌いながらネルファンディアの手を引っ張って、さりげなくトーリンの前に連れてきた。
「一番最初に向き合った人と踊るのが、ドワーフ流ですぞ」
「あぁ……その……」
ダンスなど、何時ぶりだろうか。少なくともスマウグがエレボールにやって来るよりも前だ。バーリンの言葉に戸惑うトーリンの手を取ったのは、楽しそうに笑うネルファンディアだった。
「踊りましょう!私も踊ったことなんてないから」
「別に、踊ったことがないなどとは────」
そう言いながらも、ネルファンディアは上手く曲のリズムに合わせて軽快なステップを踏み始めた。トーリンも見よう見まねで踊り始める。
ボフールが自慢の歌声を響かせ、ビルボの誕生日祝いのために即興で歌い始めた。そこに仲間たちも声を合わせて歌った。
何時も通りの毎日に
突然パーティー大騒ぎ
13人のドワーフと
忍の者は旅に出る!
時にはお家が恋しいことも
ハンカチ忘れることもある
だけど俺らにゃ大事な仲間
ビルボ・バキンズおめでとう!
「ビルボ、おめでとう!」
拍手が起こる。こんなに何もないのに楽しい誕生日は、ビルボにとって生まれて初めてだった。
「ありがとう、みんな。本当にありがとう」
「プレゼントは、山に着いてから渡す」
「トーリンからの贈り物なら、髪の毛でも価値がある!」
トーリンの言葉に対してグローインがそう言うと、全員が大笑いした。ボフールはジョッキを煽り、皆に言った。
「もっと歌おう!」
「そうだそうだ!歌うぞ!」
楽しそうな仲間たちを見ながら、ネルファンディアはトーリンと顔を見合わせた。大騒ぎしている中の沈黙が長く感じられ、彼女は慌ててトーリンのジョッキにビールを注いだ。
「は、はい。どうぞ」
「……ありがとう。そなたは?」
「私?ええと……」
ネルファンディアは戸惑った。ビールを飲んだことがないからだ。父サルマンは無類のワイン好きなので、たまに少量を一緒に楽しむことはあったが、ビールに関しては一切触れたことがなかった。トーリンはネルファンディアの返事を聞くことなく、ジョッキを手渡した。
「……こんなに飲みきれるかしら」
「少し飲んでから、口に合わなければ私に渡せばよい」
「え?でも……」
すると、トーリンの頬が急に赤く染まった。酒のせいだとネルファンディアは思ったが、他の仲間たちは彼女のせいだと気づいていた。
「……そなたの飲みかけならば、構わん」
「ええと……あ、あり……がとう」
ネルファンディアは首をかしげながらも、ビールを一口味わった。最初のうちは不思議そうな顔をしていたが、やがて満面の笑みに変わった。
「すごい!私、お酒はワインしか飲んだことがなくて……」
「父君の趣味か?」
「ええ。でも、とても美味しいわ。父にもぜひ飲ませてあげたい」
トーリンは目を細めながら、ジョッキの中のビールを眺めて言った。
「このビールは、青の山脈で作られたものだ。一日の労働を終え、私も鍛冶職人をしていた頃はよく嗜んだ」
その言葉にネルファンディアは目を丸くした。
「え?あなたって、本当に鍛冶屋だったの?」
「ああ。あれは半分嘘ではない。嘘をついていたのは、そなたの方だったようだな、ネルファンディア」
ふてくされているネルファンディアに、トーリンは微笑んだ。
「デイルで作られたビールは、もっと美味かった。サルマン殿には、いつの日かそれを飲んでもらおう」
「楽しみにしてるわ、トーリン」
二人はジョッキで改めて乾杯すると、互いの健闘を祈ってビールを飲んだ。その心の中には、もうすぐ別れの時が近いというのに、まだ近づき続ける距離への不安が芽生えていた。
こうなることは、分かっていた。
ネルファンディアは宴から離れ、月の見える港に座り込んでいた。吐く息は白く、手の感覚がなくなってしまいそうな程に寒かった。だが今の彼女にとって、その寒さよりもトーリンが遠くに行ってしまったことのほうが辛いものだった。
旅が終わったら彼は王になり、自分はアイゼンガルドに帰る。それでおしまい。
分かってはいたし、すぐに割り切れると彼女は思っていた。けれど───
けれど、ネルファンディアは、トーリンをその身に余る程に深く愛してしまったのだ。その辛さはこれからどんなエルフ以上に生きるであろうと言われているおよそ4000歳の彼女にとって、どう向き合っていけばいいのかわからない初めての種類のものだった。
「ああ………どうすれば………私は……」
彼女が頭をかかえて嘆いた時だった。何か暖かいものが彼女の背中と肩を覆った。
「───トーリン!?いつの間に……」
「そなたが独りで居るから来たのだ」
振り向くといつの間にかトーリンがいた。彼は自分の上着をネルファンディアの肩にかけたのだ。
彼は隣に座ってもいいかと尋ねると、返事も聞かぬ間に腰掛けた。
「…………覚えているか?まだあの約束を。私がそなたを必ず───」
「守る、でしょ?この旅が終わるまで」
彼は悲しそうにそう言うネルファンディアに驚いた。お互い、いつか別れが来るとそう思っていた。トーリンも一気にその現実へ引き戻される。
「遠い昔に読んだ御伽話は、王子様が素敵なお姫様と結ばれるものだった。だが、現実はそうではなかった。」
トーリンは遠くを眺めながら続けた。
「私は幸せな王子ではないし、故郷も失った」
「トーリン……」
「だが、今はもう、幸せだ。この旅の終わりに出会ったもの全てが夢のように消え去っても、私は忘れない。決して」
彼はネルファンディアの頬を優しく手の甲で撫でた。すると、彼女がその手を握りしめて俯いたまま小さな声で呟いた。
「────私は消えない………消えることができないのが私の宿命だから……逆なの、トーリン。私があなたをいつか忘れてしまうの……お母様の顔を、思い出せないのと同じように」
トーリンは慎重に言葉を選びながら、雫をこぼすように返事をした。
「そなたは………私を忘れたいか?」
その言葉に驚いたネルファンディアは、慌てて否定した。
「嫌!あなたを忘れたくない……」
「そなたが私を忘れたくないと思うように、私はそなたと離れたくないのだ。私は、そなたを………」
彼はしっかりとネルファンディアの目を見ながらそう言った。それは、彼ができる精一杯の想いの伝え方だった。ネルファンディアはそこで初めて、トーリンと自分の想いが同じであることを知った。そして出来ることなら今、その手を取って誰も知らない父が昔住んでいたという西方の土地へ行きたいと願った。だが、目の前にいるのは、鍛冶屋のトーリンではない。山の下の王のトーリンなのだ。彼女はやっとの思いでトーリンの手から自分の手を離すと、背中を向けたまま絞り出すように返事をした。
「…………ありがとう。ですが、その先の言葉は私に言うべきではありません」
「………すまない。」
二人はそれから一言も交わさないまま、出発の時を迎えた。
「今度は本当の盗人になるわね」
「1度なってみたいと思っていた」
彼らは捕まると、領主の前に連行された。いかにも悪辣でずるそうな男と執事と思しき腰巾着の男が彼らを出迎えた。よそ者がなかなか来ないエスガロスにとっては珍しいことのようで、すぐに他の住民達も野次馬として集まってきた。
「武器庫に入るとは!あれは私……たちの財産だ!それを奪うとはなんという盗人!」
盗人呼ばわりされ、ドワーリンが怒りに打ち震えて前へ進み出た。
「盗人とは無礼な!ここにおわすのはトーリン・オーケンシールド王子ぞ!」
トーリンはゆっくりと領主の前に歩み出た。その背中からは、今まで以上に王として然るべき威厳と高貴さが漂っていた。彼は威厳と自信に満ちた声で領主に挨拶すると、民衆に向き直ってこう言った。
「いかにも、私はトーリンだ。ここがかつて素晴らしい北方一の貿易港であった時から知っている。」
辺りがざわついた。
「だが、今は廃墟。辛い暮らしに、寒いだけの場所だ。」
彼は続けた。
「予言の時が来た。エレボール奪還は今。私がこの奪還を成功させたら、そなたたちもあの山に眠る財宝の分け前に預かる権利がある!」
いっそう辺りがざわついたが、今度のそれは歓喜を含んだざわつきだった。だが、その間をぬってバルドがやってきた。彼はトーリンと真逆な内容で民衆に呼びかけた。
「みんな!エレボールを奪還するということは、竜を目覚めさせることになるんじゃあないのか?」
竜という言葉を聞いた民衆は、困惑の表情に戻った。トーリンがため息をつく。
「だからどうした」
「みんな死ぬ。大体、トーリン王子。あんたのおじい様が財宝に狂ったからこうなったんだろう。俺達がそれに巻き込まれて死ぬなんてことはごめんだ」
二人が睨み合う。民衆も決めかねているようだ。すると、いいところで領主が声を上げた。
「君たち!一人に責任を押し付けるのはよくない。それに、竜を退治し損ねた君のデールの領主だった祖父が最大の問題だと思うが?バルド」
ネルファンディアはバルドの方を振り返らずにはいられなかった。
────だからバインは竜の鱗のことを……
民衆の冷たい目がバルドに刺さる。彼のせいではないのに。対照的に領主は笑顔でトーリンにこう言った。
「君を歓迎しよう、ドゥリンの息子よ!」
荒廃した街には驚くほどに似つかない歓声が湧き上がった。トーリンは堂々とした姿で民衆に宣言した。
「過去の栄光を取り戻そうぞ!そなたたちにエレボールの富を保証しよう!新たな時代の始まりだ!もう1度あの繁栄を見たいとは思わぬか?」
その姿は、王そのものだった。ネルファンディアは旅の仲間ではただ一人、その姿を遠い目で見つめていた。
エスガロスの民たち、特に統領から大歓迎を受けたトーリンたちは、宴の席を設けられることとなった。ネルファンディアはエスガロスの貧窮の中で接待を受けることに気乗りでなかったが、全員が既に聞く耳を持たないので、黙って宴会に参加するはめになった。
皆が歌って踊って楽しむ中、彼女は統領の言葉に何かを思い出した。それは日付のことだったのだが、果たして何のことだったのか。辺りを見回してみると、丁度一人で飲んでいるビルボが目に飛び込んでくる。そして全てを思い出した。
────そうだ!今日はビルボの誕生日なんだわ!
それは二人が共に見張りについていた時のことだった。互いに改めて自己紹介をしていると、誕生日の話になったのだ。
────私は3月28日よ。あなたは?
────僕は9月22日さ。
ネルファンディアは即座に何か渡せるものはないかと探した。だが、この旅で所有金額は皆無に等しくなってしまった。しばらく探し続けていると、彼女は荷物の中にファンゴルンの木で作ったブレスレットがあったことに気づいた。戦いの最中に無くしたくなかったので、あえて身に付けていなかったのだ。それほどに大切なブレスレットであるのには、理由があった。
それは幼い頃、初めて魔法を込めて作った道具だったのだ。杖は早すぎたが、父サルマンはネルファンディアにそれに準ずるものを作らせてくれた。初めて魔法使いへの第一歩を踏み出した記念品。それがこのブレスレットだった。
けれど最初に自分を仲間として受け入れてくれた唯一無二の友であるビルボに対し、これをあげることに勿体なく思う理由は、ネルファンディアにはなかった。彼女はビールを渡す素振りを装いながら、自然に声をかけた。
「ビルボ!楽しんでる?」
「ネルファンディア!ええ、もちろん」
ネルファンディアは首尾よくビルボの隣に腰かけた。彼はまだ気づいていないらしい。後ろの方でボフールが歌っているのが聞こえており、ビルボはそちらに気をとられている。
「ボフールって、歌が上手いよね」
「そうね。ドワーフは皆、歌が上手なのかしら」
「ネルファンディアは美声って感じがするなぁ」
「そう?もう酔ってるの?」
上機嫌に笑うビルボを見て、ネルファンディアはそろそろかと思ってブレスレットを差し出した。
「お誕生日おめでとう、ビルボ」
ホビットは目が点になって、飲みかけのジョッキを上げたまま固まってしまった。視線はネルファンディアの顔と、ブレスレットを行き来している。
「え……よく覚えててくれたね!何て言うか……嬉しいよ、ありがとう」
ビルボは満面の笑みを浮かべながら、ジョッキを置いてブレスレットを手に取った。
「へぇ……すごい、今も暖かな木の匂いがする。まるで袋小路屋敷に帰ってきたみたいだよ。……何か烙印を押しているけど、これは何なの?」
「それは呪文よ。父が押してくれたの。『これを持つ者は、数多の祝福の友である』って書いてあるの」
それを聞いて、ビルボは急に不安になった。贈り物がとても貴重なものに思えてきたからだ。
「こ、これって大切なものじゃないの?」
「ええ、そうね。初めて魔法を習ったときからずっと一緒だった。昔はこれが杖の代わりだったの」
ビルボは慌ててブレスレットを贈り主に差し出した。
「そんな大切なもの、貰えないよ!気持ちだけで充分だから」
けれど、ネルファンディアは首を横に振った。
「いいのよ。勇気ある素敵な友達に持っていて欲しい。もし、迷惑でなければ貰ってくれるかしら?」
ビルボはしばらく考えていたが、やがて静かに頷いた。ネルファンディアは眩しい笑顔になると、ボフールが一曲歌い終えたのを見計らって声を上げた。
「みんな!今日はビルボの誕生日なんだって」
「い、いいよ!大丈夫だ────」
「そうなのか?じゃあ、みんな!忍の者に一曲歌おうぜ!」
ネルファンディアの声に反応したのはボフールだけではない。部屋の端の方で、独りで呑んでいたトーリンもだった。キーリは痛む傷のことなど忘れ、フィーリを肘で小突いた。
「叔父上とネルファンディア、なんであんなに離れてるんだ?」
「折角だから、引っ付けて差し上げようか」
二人は悪戯っ子のような笑顔で互いを見ると、歌と躍りが始まってからトーリンの隣へ向かった。
「叔父上、辛気くさいですよ?」
「別に辛気くさくなど……」
「ほら、トーリンも踊らないと!」
「こら!フィーリ、押すな!キーリ!蹴るな!」
二人の甥に押されて蹴られたトーリンは、あっという間に踊る仲間たちの中に呑み込まれた。そしてキーリたちの目論見を察したボフールが、歌いながらネルファンディアの手を引っ張って、さりげなくトーリンの前に連れてきた。
「一番最初に向き合った人と踊るのが、ドワーフ流ですぞ」
「あぁ……その……」
ダンスなど、何時ぶりだろうか。少なくともスマウグがエレボールにやって来るよりも前だ。バーリンの言葉に戸惑うトーリンの手を取ったのは、楽しそうに笑うネルファンディアだった。
「踊りましょう!私も踊ったことなんてないから」
「別に、踊ったことがないなどとは────」
そう言いながらも、ネルファンディアは上手く曲のリズムに合わせて軽快なステップを踏み始めた。トーリンも見よう見まねで踊り始める。
ボフールが自慢の歌声を響かせ、ビルボの誕生日祝いのために即興で歌い始めた。そこに仲間たちも声を合わせて歌った。
何時も通りの毎日に
突然パーティー大騒ぎ
13人のドワーフと
忍の者は旅に出る!
時にはお家が恋しいことも
ハンカチ忘れることもある
だけど俺らにゃ大事な仲間
ビルボ・バキンズおめでとう!
「ビルボ、おめでとう!」
拍手が起こる。こんなに何もないのに楽しい誕生日は、ビルボにとって生まれて初めてだった。
「ありがとう、みんな。本当にありがとう」
「プレゼントは、山に着いてから渡す」
「トーリンからの贈り物なら、髪の毛でも価値がある!」
トーリンの言葉に対してグローインがそう言うと、全員が大笑いした。ボフールはジョッキを煽り、皆に言った。
「もっと歌おう!」
「そうだそうだ!歌うぞ!」
楽しそうな仲間たちを見ながら、ネルファンディアはトーリンと顔を見合わせた。大騒ぎしている中の沈黙が長く感じられ、彼女は慌ててトーリンのジョッキにビールを注いだ。
「は、はい。どうぞ」
「……ありがとう。そなたは?」
「私?ええと……」
ネルファンディアは戸惑った。ビールを飲んだことがないからだ。父サルマンは無類のワイン好きなので、たまに少量を一緒に楽しむことはあったが、ビールに関しては一切触れたことがなかった。トーリンはネルファンディアの返事を聞くことなく、ジョッキを手渡した。
「……こんなに飲みきれるかしら」
「少し飲んでから、口に合わなければ私に渡せばよい」
「え?でも……」
すると、トーリンの頬が急に赤く染まった。酒のせいだとネルファンディアは思ったが、他の仲間たちは彼女のせいだと気づいていた。
「……そなたの飲みかけならば、構わん」
「ええと……あ、あり……がとう」
ネルファンディアは首をかしげながらも、ビールを一口味わった。最初のうちは不思議そうな顔をしていたが、やがて満面の笑みに変わった。
「すごい!私、お酒はワインしか飲んだことがなくて……」
「父君の趣味か?」
「ええ。でも、とても美味しいわ。父にもぜひ飲ませてあげたい」
トーリンは目を細めながら、ジョッキの中のビールを眺めて言った。
「このビールは、青の山脈で作られたものだ。一日の労働を終え、私も鍛冶職人をしていた頃はよく嗜んだ」
その言葉にネルファンディアは目を丸くした。
「え?あなたって、本当に鍛冶屋だったの?」
「ああ。あれは半分嘘ではない。嘘をついていたのは、そなたの方だったようだな、ネルファンディア」
ふてくされているネルファンディアに、トーリンは微笑んだ。
「デイルで作られたビールは、もっと美味かった。サルマン殿には、いつの日かそれを飲んでもらおう」
「楽しみにしてるわ、トーリン」
二人はジョッキで改めて乾杯すると、互いの健闘を祈ってビールを飲んだ。その心の中には、もうすぐ別れの時が近いというのに、まだ近づき続ける距離への不安が芽生えていた。
こうなることは、分かっていた。
ネルファンディアは宴から離れ、月の見える港に座り込んでいた。吐く息は白く、手の感覚がなくなってしまいそうな程に寒かった。だが今の彼女にとって、その寒さよりもトーリンが遠くに行ってしまったことのほうが辛いものだった。
旅が終わったら彼は王になり、自分はアイゼンガルドに帰る。それでおしまい。
分かってはいたし、すぐに割り切れると彼女は思っていた。けれど───
けれど、ネルファンディアは、トーリンをその身に余る程に深く愛してしまったのだ。その辛さはこれからどんなエルフ以上に生きるであろうと言われているおよそ4000歳の彼女にとって、どう向き合っていけばいいのかわからない初めての種類のものだった。
「ああ………どうすれば………私は……」
彼女が頭をかかえて嘆いた時だった。何か暖かいものが彼女の背中と肩を覆った。
「───トーリン!?いつの間に……」
「そなたが独りで居るから来たのだ」
振り向くといつの間にかトーリンがいた。彼は自分の上着をネルファンディアの肩にかけたのだ。
彼は隣に座ってもいいかと尋ねると、返事も聞かぬ間に腰掛けた。
「…………覚えているか?まだあの約束を。私がそなたを必ず───」
「守る、でしょ?この旅が終わるまで」
彼は悲しそうにそう言うネルファンディアに驚いた。お互い、いつか別れが来るとそう思っていた。トーリンも一気にその現実へ引き戻される。
「遠い昔に読んだ御伽話は、王子様が素敵なお姫様と結ばれるものだった。だが、現実はそうではなかった。」
トーリンは遠くを眺めながら続けた。
「私は幸せな王子ではないし、故郷も失った」
「トーリン……」
「だが、今はもう、幸せだ。この旅の終わりに出会ったもの全てが夢のように消え去っても、私は忘れない。決して」
彼はネルファンディアの頬を優しく手の甲で撫でた。すると、彼女がその手を握りしめて俯いたまま小さな声で呟いた。
「────私は消えない………消えることができないのが私の宿命だから……逆なの、トーリン。私があなたをいつか忘れてしまうの……お母様の顔を、思い出せないのと同じように」
トーリンは慎重に言葉を選びながら、雫をこぼすように返事をした。
「そなたは………私を忘れたいか?」
その言葉に驚いたネルファンディアは、慌てて否定した。
「嫌!あなたを忘れたくない……」
「そなたが私を忘れたくないと思うように、私はそなたと離れたくないのだ。私は、そなたを………」
彼はしっかりとネルファンディアの目を見ながらそう言った。それは、彼ができる精一杯の想いの伝え方だった。ネルファンディアはそこで初めて、トーリンと自分の想いが同じであることを知った。そして出来ることなら今、その手を取って誰も知らない父が昔住んでいたという西方の土地へ行きたいと願った。だが、目の前にいるのは、鍛冶屋のトーリンではない。山の下の王のトーリンなのだ。彼女はやっとの思いでトーリンの手から自分の手を離すと、背中を向けたまま絞り出すように返事をした。
「…………ありがとう。ですが、その先の言葉は私に言うべきではありません」
「………すまない。」
二人はそれから一言も交わさないまま、出発の時を迎えた。