三章、クルニーアの決意
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クルニーアは、久々に味わった解放感に浸っていた。永らく老人の身体に押し込められていた精霊としての心が、ようやく味わえた自由を心の底から喜んでいる。
ふと、彼は後ろを振り返った。そこには、まだ楽しかった頃の「四人」の姿があった。
「ああ……懐かしいな。あの頃は、楽しかった。本当に毎日が楽しかった……」
真面目に課題をこなし、読書と鉄器の製作にふけるクルモ。動物たちと遊び始めてしまうアイウェンディル。それをなだめるオローリン。そして、そんな三人を気にも留めず終始居眠りするマイロン。
それが、メルコールのせいで全て終わってしまった。マイロンはアウレの元を去り、四人は三人になってしまった。
クルニーアがそんなことを考えていると、いつの間にか隣にアウレが座っていた。驚きの表情を向けてくる部下の頭を、彼は父親が息子にするように優しく撫でた。
「……あいつが居なくなって、寂しくなったものだ」
「ええ……少しだけ」
それを聞いて、アウレも懐かしさに目を細めた。
「マイロンとお前は仲が良かったからな。あいつは聞き上手だったし、流し上手だった」
「そうでしたね、アウレ様」
アウレは何を話そうかと思考を巡らせた。そして、こんなことを聞いてみた。
「クルモ。今も寂しいか?」
そう言われて、クルニーアは即座に首を横に振った。
「どうして?」
「エルミラエルが居るからです。あの人は、私の欠けがえのない……友です。マイロンとは比べ物にはならないくらいに、大切な存在なのです」
本心では友以上に想っていることを隠しきれない様子に、アウレの良心が痛んだ。そして、またしてもそれ以上の言及をすることが出来なかった。
「そうか。では、もう一度器に戻ると良い。彼女が待っている」
クルニーアがこの言葉に素直に頷いたことが、アウレを驚かせた。何故なら、クルニーアが今までずっと器────老人の姿を取ることを嫌がっていたことを、彼は誰よりも知っていたからだ。
あの器に戻ってでも、側に居たいのか……
器に戻ったために消えてしまったクルニーアが座っていた跡に手を置きながら、アウレは悲しげに微笑んだ。そして一人で過去を振り返りながら、今はもう聞くことの出来なくなったマイロンの、記憶の中の屈託ない笑い声に、耳を静かに傾けるのだった。
クルニーアが目覚めると、そこはヴァリノールの一室だった。だが、何より彼を驚かせたのはエルミラエルの存在だった。彼女は昼夜問わず看病したせいで疲れているにも関わらず、目覚めたクルニーアに飛び付いた。
「クルニーア!!」
「ああ……エルミラエル……」
「もう、二度と会えないかと思っていたわ。会いたかった……」
エルミラエルは涙を滲ませながら、すっかり元気そうなクルニーアを見た。
「良かった……本当に……本当に、良かった」
「そんなに、わしが戻ってきて嬉しいのか?」
「ええ。だって、あなたは────」
私の愛する人だから。そう言いかけて、エルミラエルは慌てて別の言葉を持ち出した。
「私の、最高の友達だから」
満面の笑みでそう言ってくれることが嬉しくて、クルニーアの表情にも笑顔が咲いた。
こうしてエルミラエル誘拐事件は無事に解決し、再び西の地には束の間の平穏が戻ってきたのだった。
「二人は、決してそれ以上の関係を求めることはなかった。初々しいと言うべきか、行動力がないと言うべきなのか、それは分からんが……」
ガンダルフはパイプを燻らせながら、失笑を漏らした。ようやく自分の気持ちを理解したところまで進んだことに、メリーとピピンもほっとしている。
「やっとだね!で、ここからあとどれくらい?」
「そうじゃな……あと千年程かな?」
「……長すぎる」
流石のピピンも、この返事にはうんざりした。けれど、ガンダルフは相変わらず楽しそうだ。そんな彼に、メリーがこんな質問をした。
「ところで、ガンダルフはいつ気づいたの?」
「ん?何をだね?」
「ほら、サルマンの恋ですよ。アウレ様は気づいているんでしょう?アイウェンディルとあなたは気づかなかったんですか?」
その問いに、ガンダルフは思い出したように手のひらを拳で叩いた。
「いいや、きちんと気づいたとも」
ガンダルフは目を細めて窓の外を眺めた。
「……わかりやすい男じゃったからな」
目が覚めても、クルニーアの体調はまだまだ万全ではなかった。この期を利用して読書にふける彼の横で、エルミラエルは大量の花を飾っていた。
「凄い量だな。今にヴァリノール中の花が消えてしまうぞ」
「大丈夫。これはヤヴァンナ様からのお見舞いだから」
「なるほど」
クルニーアは本を閉じると、花瓶に挿されている一輪の白銀の花に手を伸ばした。茎を指で丁寧に摘まむと、彼は徐に花をエルミラエルの顔の隣にかざした。
「うむ、そっくりだ」
「何が?」
「そなたと、この花だ」
「そうかしら?」
ヤヴァンナの創造物のうちの一つであるその花は、美しい光を放っている。エルミラエルは急に気恥ずかしく思えてきて、よく分からないと言うように首をかしげた。
「不服か?……もちろん、そなたに例えられる物など無いがな」
「クルニーアったら。突然どうしたの?」
「死の淵から戻ってきたせいで、頭がおかしくなったかもしれん」
「もう!真面目に答えてよ!」
頬を膨らませて怒るエルミラエルが愛しくて、クルニーアは声をあげて笑った。誤魔化されていい気のしない彼女は、病み上がりのマイアから本を奪い取って棚の上に置いた。
「何をするんじゃ」
「たまには外の空気を吸うべきだわ」
「……そなたが連れていってくれるのか?」
エルミラエルは少し考えると、無言で手を伸ばした。クルニーアはにこりと微笑むと、病人とは思えないほど素早くその手を掴むのだった。
アウレが簡易的に作ってくれた杖を使いながら、クルニーアはゆっくりと歩いていた。隣にはエルミラエルが付き添っている。彼は大木の前で立ち止まると、そのまま地面に座って一休みした。それは木漏れ日が若緑色の光になって降り注いでくる、とても心地よい場所だった。エルミラエルは厨房でもらってきた昼食を広げた。
ふと、クルニーアの中に疑問が浮かんできた。それはエルミラエルがずっと自分の看病をしてくれていることだった。彼は恐る恐る、隣でスコーンを両手に持って頬張ろうとしているエルフに尋ねた。
「……家に帰らんでも良いのか?」
「ええ、当分ここにいるわ。お父様も、家よりヴァリノールの方が安全だろうって」
それを聞いて、クルニーアは胸を撫で下ろした。エルミラエルは何も考えずに景色を楽しんでいる。
良かった、当分ずっと一緒にいられるのか。
彼は天真爛漫な想い人の横顔を見つめながら、病人も悪くないなと思っていた。一方、エルミラエルはヴァリノールに留まり続ける方法を模索していた。
クルニーアの側を離れたくない。ずっと一緒に居たいもの。
彼女にとって、ヴァリノールでの日々は至高の時間だった。刻限を気にすることなくクルニーアと語り合い、時折太古の物語に耳を傾ける。これ以上、何も望むことはなかった。その代わり、二人は同じ事を願っていた。
この時間が瞬きの間に過ぎていかないことを。
その頃、ミスランディアとアイウェンディルはクルニーアの見舞いのために土産を準備していた。アイウェンディルはハリネズミを抱き上げると、ミスランディアの目の前に持っていった。
「可愛いハリネズミなんてどうだろうか?」
「クルモ殿は興味ないと思うが……」
「そうか?では、やはり今回も書物か」
「その方が良い。当たり外れが無い」
アイウェンディルは口を尖らせながら、つまらなさそうな顔をした。
「クルモに書物か。相変わらず堅物な男だ」
彼がそう言った時だった。突然、窓から一羽の鳥が降りてきた。それが見覚えのある鳥だったので、ミスランディアは注意深く観察し始めた。
「おお!リリアン!元気にしておったか?」
「リリアン?ああ、そういえば……」
それは冗談半分でクルニーアのことを観察するために、アイウェンディルが飛ばした小鳥だった。彼は久々の再会に喜んでいたが、小さな友が足に何かを挟んでいることに気づいた。
「ん……?これは何だ?」
「紙の断片のようだが……」
広げてみて、二人はすぐに誰が書いたものであるかを理解した。細い針で引っ掻いたような繊細で美しい文字を書く男は、二人の知る中ではクルニーアしかいなかった。そして、ミスランディアは文面に目を通して絶句した。アイウェンディルも当惑している。
「……アウレ様にご報告するか?」
「慎重に決めねば。必ずこれは大事になる」
二人は顔を見合わせた。そして、再び紙切れに視線を戻すのだった。
紙切れに目を通したアウレは、ため息を漏らした。そして、神妙な顔をしているミスランディアとアイウェンディルを労うと、こんなことを尋ねた。
「この事を、他に話したか?」
「いえ、アウレ様だけです」
それを聞いて、アウレは安堵の表情を浮かべた。そして、二人のマイアールから背を向けてこう言った。
「では、二人に頼みがある」
「はい、何でしょうか?」
「このことは他言無用だ。忘れよ。良いな?」
意外な返事に二人は当惑した。しかしヴァラールに口答えする勇気も無かったので、ミスランディアは口を開けたままのアイウェンディルを放って頭を下げた。
「承知しました。行くぞ、アイウェンディル」
「え?あ、ああ……」
ミスランディアがアイウェンディルを連れて出ていったことを確認して、アウレは紙切れに再び視線を落とした。そこに書かれていたのは、自作の詩の断片だった。しかも、イルーヴァタールの子に情熱的な愛を語る詩だった。アウレは頭が痛い案件に、思わずこめかみを押さえた。
どうして私の部下は優秀であるにも関わらず、こうも大それた問題を起こすのだ。
断片に書かれていたのは、こんな文だった。
『我が愛しき白銀の花よ 禁忌の思いに心掻き乱れる
エルの子を愛した罪は この身を焼き尽くす痛み
許されるのなら一度だけ その唇で愛を囁いてくれ』
言葉の端々から伝わるクルニーアの想いに、アウレは酷く胸を痛めた。マイロンもクルモも、何か大きなものが欠けている男だった。アウレはそれに気づいていたので、どんなヴァラールが部下に接する時間よりも長い時間をかけ、実の父のように接してきた。けれどマイロンは堕落し、クルモは本心を誤解されるような複雑な性格になってしまった。
そんなクルモが唯一心を開いたのが、エルミラエルだった。アウレは、自分にも言えないような本心さえも彼女には打ち明けているであろうことを察していた。エルミラエルはクルニーアにとって良き友だからだ。
そこまでは良かった。しかし、クルニーアはアイヌアではなかった。エルフ王シンゴルと恋に落ちたメリアンはマイアではあったが、アイヌアであったから許された。アイヌアのマイアールとそうでない者の差は大きく、前者はヴァラールに等しい力や権利を持つことを許されていた。一方、クルニーアのような後者は下位に属する立場だった。彼はそれを理解していたので、他のどんなアイヌアたちより膨大な知識と技量を求めることに没頭していったのだ。そして、アイヌアでないマイアールにはイルーヴァタールの子と連れ合いになる権利が無かった。何故なら、専ら彼らにはヴァラールの配下として、絶えず仕事に専念することが義務として課せられていたからだ。クルニーアが、そのことを知らないはずはなかった。
一体どういうつもりなのだろうか。アウレは深いため息を漏らし、机に肘をついて頭を抱えるのだった。
アウレに呼び出されたクルニーアは、何も考えずに部屋へ入った。だが、深刻で重苦しい空気にいつもと違う状況を察した。アウレはクルニーアの方を見ることなく、婉曲的に話を始めた。
「調子はどうだ?」
「良いですよ。随分良くなりました。エルミラエルのお陰です」
嬉しそうにそう言うクルニーアに、アウレは表情一つ変えずにこう言った。
「そうか。ならば、そろそろフィナルフィンの元へ帰してやりなさい」
「え……し、しかし……」
戸惑うマイアに、アウレは鋭い追求の視線を投げつけた。
「それとも、帰せぬ理由でもあるのか?」
「そんな、とんでもない。わしはただ……」
「イルーヴァタールの子の美しさに、深き感情を抱いてはならない。まさか、この言葉を忘れたと言うのではあるまいな?」
クルニーアの頭に、雷で撃たれるような衝撃が走った。彼が詭弁を並べ立てる前に、アウレは先程の紙切れを突きつけた。
「気づかぬふりをしてきた。お前が姫に友愛以上の特別な感情を抱き始めていることを。けれど、お前なら必ず己を制御できると信じていた。なのに、これは一体どういうことだ?」
その言葉に、クルニーアの思考が停止した。そして空っぽになった感情の中に、今まで秘めてきたものが溢れ出した。
「私は……」
「弁解なら聞かぬ。今すぐ姫を家に帰し────」
「弁解をするつもりはありません!」
クルニーアの言葉に、アウレは目を丸くした。
「弁解など、この私には必要ありません。あなたは私にこう仰った。イルーヴァタールの子の美しさに惹かれてはならぬと。ならば、その心に惹かれた場合は如何なされる?」
クルニーアの口から飛び出してきたのは、とんでもない言い訳だった。アウレは反論しようと口を開いたが、遅かった。
「そもそも深き想いを抱いてはならぬとあなたは反論されたいのでしょう。しかし、それは間違いだ。その想いを抑えきれずに堕落することが罪であるとイルーヴァタール様は定義されたはず」
それは正解だった。アウレは黙りこんだ。しかし、クルニーアの弁論はまだ続く。
「故に私がもし、彼女への想いのあまり冥王になろうとしたならば、その時はお止めになるが良い。しかし、私がそのようなことをする証拠は?」
返事はない。つまり、そのような証拠は一切無いということだ。
「想うことさえ罪であるのならば、今ここで私を八つ裂きにされるが良い。それがあなたの望みでありましょう」
「クルモ、止めないか」
「あなたに私の何が分かる!かつてはマイロンと優劣を比べられ、今は奴のように堕落しないことを求められている!私に心休まる瞬間は無かった!いつも正しく、いつも清く在ることがどれ程の苦痛であるか!私なら己を制御できねばならぬのですか!?ならば私は、私であることを止めましょうぞ!」
言い終わって、クルニーアは自分の中に秘められた激情に戦いた。アウレに至っては呆然としている。そしてクルモをクルモとして繋ぎ止めているのは、使命感ではなくエルミラエルであることを知った。
そして、アウレは徐に紙切れを蝋燭に翳した。白い紙が焦げ付き、黒く変色して消えていく。
「……もう、分かった。私とお前は何も話していない。私はお前の胸の内を何も知らぬ。それで良いな」
クルニーアは無言で佇んでいる。呆気にとられているのであろうと思って顔をあげたアウレは、次の瞬間その表情に絶句した。
クルニーアは、笑っていた。始めから紙を燃やさせるつもりだったのだ。彼は素直な上司に微笑み、こう言った。
「あなたに、私の心の内まで裁けますかな?」
「クルモ……お前……」
「私が、彼女にこれ以上の関係を求めることはありません。ですから、人目に付く前にそれは燃やしていただかなければ」
アウレはクルニーアの隠れた闇を見た気がして、背筋が凍るような恐怖を覚えた。常に従順で大人しい性格としか知らなかったために、その衝撃が大きかったのだ。
その間に、クルニーアは一礼して部屋から立ち去った。アウレは彼の背中を眺めながら、灰になった紙切れに手を翳した。創造の力で修復しようと思い立った、アウレはその手を止めた。クルニーアの言っていることが、僅かに正しいように思えてきたからだ。行動を縛ることは出来ても、心まで縛ることは出来ない。それに、アウレはクルニーアが素直になれる場所を潰したくはなかった。彼は灰を握りつぶし、再生させる代わりに消失させた。そして、空っぽになった手の中を見つめながら呟いた。
「────見守ってやらねば。あやつは、マイロンよりも恐ろしいことをしでかすようになる。……そんな気がする」
一方、クルニーアは上司を欺いたことに罪悪感と恐れを覚えていた。そんな彼を見つけたエルミラエルは、何も知らずに手を振った。
「おーい!クルニーア!」
「ああ……エルミラエルか」
「聞いて!可愛いウサギを見つけたの」
エルミラエルは右手に抱えているウサギを見せて、満面の笑みを浮かべている。クルニーアはそんな彼女が愛しくて笑った。
「……随分と巨大なウサギだな」
「そうでしょ。この子ならソリを引けるかも」
「ソリか。面白いことを考えるな」
「ありがとう、クルニーア」
エルミラエルの笑顔を見ているうちに、クルニーアを支配していた罪悪感や恐れは泡沫のように消えていった。彼はこの時、見果てぬ夢────友であり続けることを叶えるためには犠牲が必要であることを知った。そして、この笑顔を見守り続けることが出来るのであれば、どんなことでもやってのけられることを知った。
例え、それが世界をひっくり返すことになる戦争であったとしても。
ふと、彼は後ろを振り返った。そこには、まだ楽しかった頃の「四人」の姿があった。
「ああ……懐かしいな。あの頃は、楽しかった。本当に毎日が楽しかった……」
真面目に課題をこなし、読書と鉄器の製作にふけるクルモ。動物たちと遊び始めてしまうアイウェンディル。それをなだめるオローリン。そして、そんな三人を気にも留めず終始居眠りするマイロン。
それが、メルコールのせいで全て終わってしまった。マイロンはアウレの元を去り、四人は三人になってしまった。
クルニーアがそんなことを考えていると、いつの間にか隣にアウレが座っていた。驚きの表情を向けてくる部下の頭を、彼は父親が息子にするように優しく撫でた。
「……あいつが居なくなって、寂しくなったものだ」
「ええ……少しだけ」
それを聞いて、アウレも懐かしさに目を細めた。
「マイロンとお前は仲が良かったからな。あいつは聞き上手だったし、流し上手だった」
「そうでしたね、アウレ様」
アウレは何を話そうかと思考を巡らせた。そして、こんなことを聞いてみた。
「クルモ。今も寂しいか?」
そう言われて、クルニーアは即座に首を横に振った。
「どうして?」
「エルミラエルが居るからです。あの人は、私の欠けがえのない……友です。マイロンとは比べ物にはならないくらいに、大切な存在なのです」
本心では友以上に想っていることを隠しきれない様子に、アウレの良心が痛んだ。そして、またしてもそれ以上の言及をすることが出来なかった。
「そうか。では、もう一度器に戻ると良い。彼女が待っている」
クルニーアがこの言葉に素直に頷いたことが、アウレを驚かせた。何故なら、クルニーアが今までずっと器────老人の姿を取ることを嫌がっていたことを、彼は誰よりも知っていたからだ。
あの器に戻ってでも、側に居たいのか……
器に戻ったために消えてしまったクルニーアが座っていた跡に手を置きながら、アウレは悲しげに微笑んだ。そして一人で過去を振り返りながら、今はもう聞くことの出来なくなったマイロンの、記憶の中の屈託ない笑い声に、耳を静かに傾けるのだった。
クルニーアが目覚めると、そこはヴァリノールの一室だった。だが、何より彼を驚かせたのはエルミラエルの存在だった。彼女は昼夜問わず看病したせいで疲れているにも関わらず、目覚めたクルニーアに飛び付いた。
「クルニーア!!」
「ああ……エルミラエル……」
「もう、二度と会えないかと思っていたわ。会いたかった……」
エルミラエルは涙を滲ませながら、すっかり元気そうなクルニーアを見た。
「良かった……本当に……本当に、良かった」
「そんなに、わしが戻ってきて嬉しいのか?」
「ええ。だって、あなたは────」
私の愛する人だから。そう言いかけて、エルミラエルは慌てて別の言葉を持ち出した。
「私の、最高の友達だから」
満面の笑みでそう言ってくれることが嬉しくて、クルニーアの表情にも笑顔が咲いた。
こうしてエルミラエル誘拐事件は無事に解決し、再び西の地には束の間の平穏が戻ってきたのだった。
「二人は、決してそれ以上の関係を求めることはなかった。初々しいと言うべきか、行動力がないと言うべきなのか、それは分からんが……」
ガンダルフはパイプを燻らせながら、失笑を漏らした。ようやく自分の気持ちを理解したところまで進んだことに、メリーとピピンもほっとしている。
「やっとだね!で、ここからあとどれくらい?」
「そうじゃな……あと千年程かな?」
「……長すぎる」
流石のピピンも、この返事にはうんざりした。けれど、ガンダルフは相変わらず楽しそうだ。そんな彼に、メリーがこんな質問をした。
「ところで、ガンダルフはいつ気づいたの?」
「ん?何をだね?」
「ほら、サルマンの恋ですよ。アウレ様は気づいているんでしょう?アイウェンディルとあなたは気づかなかったんですか?」
その問いに、ガンダルフは思い出したように手のひらを拳で叩いた。
「いいや、きちんと気づいたとも」
ガンダルフは目を細めて窓の外を眺めた。
「……わかりやすい男じゃったからな」
目が覚めても、クルニーアの体調はまだまだ万全ではなかった。この期を利用して読書にふける彼の横で、エルミラエルは大量の花を飾っていた。
「凄い量だな。今にヴァリノール中の花が消えてしまうぞ」
「大丈夫。これはヤヴァンナ様からのお見舞いだから」
「なるほど」
クルニーアは本を閉じると、花瓶に挿されている一輪の白銀の花に手を伸ばした。茎を指で丁寧に摘まむと、彼は徐に花をエルミラエルの顔の隣にかざした。
「うむ、そっくりだ」
「何が?」
「そなたと、この花だ」
「そうかしら?」
ヤヴァンナの創造物のうちの一つであるその花は、美しい光を放っている。エルミラエルは急に気恥ずかしく思えてきて、よく分からないと言うように首をかしげた。
「不服か?……もちろん、そなたに例えられる物など無いがな」
「クルニーアったら。突然どうしたの?」
「死の淵から戻ってきたせいで、頭がおかしくなったかもしれん」
「もう!真面目に答えてよ!」
頬を膨らませて怒るエルミラエルが愛しくて、クルニーアは声をあげて笑った。誤魔化されていい気のしない彼女は、病み上がりのマイアから本を奪い取って棚の上に置いた。
「何をするんじゃ」
「たまには外の空気を吸うべきだわ」
「……そなたが連れていってくれるのか?」
エルミラエルは少し考えると、無言で手を伸ばした。クルニーアはにこりと微笑むと、病人とは思えないほど素早くその手を掴むのだった。
アウレが簡易的に作ってくれた杖を使いながら、クルニーアはゆっくりと歩いていた。隣にはエルミラエルが付き添っている。彼は大木の前で立ち止まると、そのまま地面に座って一休みした。それは木漏れ日が若緑色の光になって降り注いでくる、とても心地よい場所だった。エルミラエルは厨房でもらってきた昼食を広げた。
ふと、クルニーアの中に疑問が浮かんできた。それはエルミラエルがずっと自分の看病をしてくれていることだった。彼は恐る恐る、隣でスコーンを両手に持って頬張ろうとしているエルフに尋ねた。
「……家に帰らんでも良いのか?」
「ええ、当分ここにいるわ。お父様も、家よりヴァリノールの方が安全だろうって」
それを聞いて、クルニーアは胸を撫で下ろした。エルミラエルは何も考えずに景色を楽しんでいる。
良かった、当分ずっと一緒にいられるのか。
彼は天真爛漫な想い人の横顔を見つめながら、病人も悪くないなと思っていた。一方、エルミラエルはヴァリノールに留まり続ける方法を模索していた。
クルニーアの側を離れたくない。ずっと一緒に居たいもの。
彼女にとって、ヴァリノールでの日々は至高の時間だった。刻限を気にすることなくクルニーアと語り合い、時折太古の物語に耳を傾ける。これ以上、何も望むことはなかった。その代わり、二人は同じ事を願っていた。
この時間が瞬きの間に過ぎていかないことを。
その頃、ミスランディアとアイウェンディルはクルニーアの見舞いのために土産を準備していた。アイウェンディルはハリネズミを抱き上げると、ミスランディアの目の前に持っていった。
「可愛いハリネズミなんてどうだろうか?」
「クルモ殿は興味ないと思うが……」
「そうか?では、やはり今回も書物か」
「その方が良い。当たり外れが無い」
アイウェンディルは口を尖らせながら、つまらなさそうな顔をした。
「クルモに書物か。相変わらず堅物な男だ」
彼がそう言った時だった。突然、窓から一羽の鳥が降りてきた。それが見覚えのある鳥だったので、ミスランディアは注意深く観察し始めた。
「おお!リリアン!元気にしておったか?」
「リリアン?ああ、そういえば……」
それは冗談半分でクルニーアのことを観察するために、アイウェンディルが飛ばした小鳥だった。彼は久々の再会に喜んでいたが、小さな友が足に何かを挟んでいることに気づいた。
「ん……?これは何だ?」
「紙の断片のようだが……」
広げてみて、二人はすぐに誰が書いたものであるかを理解した。細い針で引っ掻いたような繊細で美しい文字を書く男は、二人の知る中ではクルニーアしかいなかった。そして、ミスランディアは文面に目を通して絶句した。アイウェンディルも当惑している。
「……アウレ様にご報告するか?」
「慎重に決めねば。必ずこれは大事になる」
二人は顔を見合わせた。そして、再び紙切れに視線を戻すのだった。
紙切れに目を通したアウレは、ため息を漏らした。そして、神妙な顔をしているミスランディアとアイウェンディルを労うと、こんなことを尋ねた。
「この事を、他に話したか?」
「いえ、アウレ様だけです」
それを聞いて、アウレは安堵の表情を浮かべた。そして、二人のマイアールから背を向けてこう言った。
「では、二人に頼みがある」
「はい、何でしょうか?」
「このことは他言無用だ。忘れよ。良いな?」
意外な返事に二人は当惑した。しかしヴァラールに口答えする勇気も無かったので、ミスランディアは口を開けたままのアイウェンディルを放って頭を下げた。
「承知しました。行くぞ、アイウェンディル」
「え?あ、ああ……」
ミスランディアがアイウェンディルを連れて出ていったことを確認して、アウレは紙切れに再び視線を落とした。そこに書かれていたのは、自作の詩の断片だった。しかも、イルーヴァタールの子に情熱的な愛を語る詩だった。アウレは頭が痛い案件に、思わずこめかみを押さえた。
どうして私の部下は優秀であるにも関わらず、こうも大それた問題を起こすのだ。
断片に書かれていたのは、こんな文だった。
『我が愛しき白銀の花よ 禁忌の思いに心掻き乱れる
エルの子を愛した罪は この身を焼き尽くす痛み
許されるのなら一度だけ その唇で愛を囁いてくれ』
言葉の端々から伝わるクルニーアの想いに、アウレは酷く胸を痛めた。マイロンもクルモも、何か大きなものが欠けている男だった。アウレはそれに気づいていたので、どんなヴァラールが部下に接する時間よりも長い時間をかけ、実の父のように接してきた。けれどマイロンは堕落し、クルモは本心を誤解されるような複雑な性格になってしまった。
そんなクルモが唯一心を開いたのが、エルミラエルだった。アウレは、自分にも言えないような本心さえも彼女には打ち明けているであろうことを察していた。エルミラエルはクルニーアにとって良き友だからだ。
そこまでは良かった。しかし、クルニーアはアイヌアではなかった。エルフ王シンゴルと恋に落ちたメリアンはマイアではあったが、アイヌアであったから許された。アイヌアのマイアールとそうでない者の差は大きく、前者はヴァラールに等しい力や権利を持つことを許されていた。一方、クルニーアのような後者は下位に属する立場だった。彼はそれを理解していたので、他のどんなアイヌアたちより膨大な知識と技量を求めることに没頭していったのだ。そして、アイヌアでないマイアールにはイルーヴァタールの子と連れ合いになる権利が無かった。何故なら、専ら彼らにはヴァラールの配下として、絶えず仕事に専念することが義務として課せられていたからだ。クルニーアが、そのことを知らないはずはなかった。
一体どういうつもりなのだろうか。アウレは深いため息を漏らし、机に肘をついて頭を抱えるのだった。
アウレに呼び出されたクルニーアは、何も考えずに部屋へ入った。だが、深刻で重苦しい空気にいつもと違う状況を察した。アウレはクルニーアの方を見ることなく、婉曲的に話を始めた。
「調子はどうだ?」
「良いですよ。随分良くなりました。エルミラエルのお陰です」
嬉しそうにそう言うクルニーアに、アウレは表情一つ変えずにこう言った。
「そうか。ならば、そろそろフィナルフィンの元へ帰してやりなさい」
「え……し、しかし……」
戸惑うマイアに、アウレは鋭い追求の視線を投げつけた。
「それとも、帰せぬ理由でもあるのか?」
「そんな、とんでもない。わしはただ……」
「イルーヴァタールの子の美しさに、深き感情を抱いてはならない。まさか、この言葉を忘れたと言うのではあるまいな?」
クルニーアの頭に、雷で撃たれるような衝撃が走った。彼が詭弁を並べ立てる前に、アウレは先程の紙切れを突きつけた。
「気づかぬふりをしてきた。お前が姫に友愛以上の特別な感情を抱き始めていることを。けれど、お前なら必ず己を制御できると信じていた。なのに、これは一体どういうことだ?」
その言葉に、クルニーアの思考が停止した。そして空っぽになった感情の中に、今まで秘めてきたものが溢れ出した。
「私は……」
「弁解なら聞かぬ。今すぐ姫を家に帰し────」
「弁解をするつもりはありません!」
クルニーアの言葉に、アウレは目を丸くした。
「弁解など、この私には必要ありません。あなたは私にこう仰った。イルーヴァタールの子の美しさに惹かれてはならぬと。ならば、その心に惹かれた場合は如何なされる?」
クルニーアの口から飛び出してきたのは、とんでもない言い訳だった。アウレは反論しようと口を開いたが、遅かった。
「そもそも深き想いを抱いてはならぬとあなたは反論されたいのでしょう。しかし、それは間違いだ。その想いを抑えきれずに堕落することが罪であるとイルーヴァタール様は定義されたはず」
それは正解だった。アウレは黙りこんだ。しかし、クルニーアの弁論はまだ続く。
「故に私がもし、彼女への想いのあまり冥王になろうとしたならば、その時はお止めになるが良い。しかし、私がそのようなことをする証拠は?」
返事はない。つまり、そのような証拠は一切無いということだ。
「想うことさえ罪であるのならば、今ここで私を八つ裂きにされるが良い。それがあなたの望みでありましょう」
「クルモ、止めないか」
「あなたに私の何が分かる!かつてはマイロンと優劣を比べられ、今は奴のように堕落しないことを求められている!私に心休まる瞬間は無かった!いつも正しく、いつも清く在ることがどれ程の苦痛であるか!私なら己を制御できねばならぬのですか!?ならば私は、私であることを止めましょうぞ!」
言い終わって、クルニーアは自分の中に秘められた激情に戦いた。アウレに至っては呆然としている。そしてクルモをクルモとして繋ぎ止めているのは、使命感ではなくエルミラエルであることを知った。
そして、アウレは徐に紙切れを蝋燭に翳した。白い紙が焦げ付き、黒く変色して消えていく。
「……もう、分かった。私とお前は何も話していない。私はお前の胸の内を何も知らぬ。それで良いな」
クルニーアは無言で佇んでいる。呆気にとられているのであろうと思って顔をあげたアウレは、次の瞬間その表情に絶句した。
クルニーアは、笑っていた。始めから紙を燃やさせるつもりだったのだ。彼は素直な上司に微笑み、こう言った。
「あなたに、私の心の内まで裁けますかな?」
「クルモ……お前……」
「私が、彼女にこれ以上の関係を求めることはありません。ですから、人目に付く前にそれは燃やしていただかなければ」
アウレはクルニーアの隠れた闇を見た気がして、背筋が凍るような恐怖を覚えた。常に従順で大人しい性格としか知らなかったために、その衝撃が大きかったのだ。
その間に、クルニーアは一礼して部屋から立ち去った。アウレは彼の背中を眺めながら、灰になった紙切れに手を翳した。創造の力で修復しようと思い立った、アウレはその手を止めた。クルニーアの言っていることが、僅かに正しいように思えてきたからだ。行動を縛ることは出来ても、心まで縛ることは出来ない。それに、アウレはクルニーアが素直になれる場所を潰したくはなかった。彼は灰を握りつぶし、再生させる代わりに消失させた。そして、空っぽになった手の中を見つめながら呟いた。
「────見守ってやらねば。あやつは、マイロンよりも恐ろしいことをしでかすようになる。……そんな気がする」
一方、クルニーアは上司を欺いたことに罪悪感と恐れを覚えていた。そんな彼を見つけたエルミラエルは、何も知らずに手を振った。
「おーい!クルニーア!」
「ああ……エルミラエルか」
「聞いて!可愛いウサギを見つけたの」
エルミラエルは右手に抱えているウサギを見せて、満面の笑みを浮かべている。クルニーアはそんな彼女が愛しくて笑った。
「……随分と巨大なウサギだな」
「そうでしょ。この子ならソリを引けるかも」
「ソリか。面白いことを考えるな」
「ありがとう、クルニーア」
エルミラエルの笑顔を見ているうちに、クルニーアを支配していた罪悪感や恐れは泡沫のように消えていった。彼はこの時、見果てぬ夢────友であり続けることを叶えるためには犠牲が必要であることを知った。そして、この笑顔を見守り続けることが出来るのであれば、どんなことでもやってのけられることを知った。
例え、それが世界をひっくり返すことになる戦争であったとしても。
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