二章、彼無しでは
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クルニーアは依然として、サウロンとの膠着状態を続けていた。本来の力を出しきることが出来れば勝算は十分にあるが、サウロンと違って老人の身体に閉じ込められているクルニーアにとって、それは文字通りの消滅を招く危険性もはらんでいた。それを分かっているサウロンが、敢えて挑発に出た。
「折角だ。お前の美しき姿を見せてやってはどうだ?」
「黙れ。わしとお前は違う」
「なるほど。流石は、誇り高きマイアールのクルモ様だな」
「本当に、殺されたいのかな?」
エルミラエルには、サウロンが時間を稼いでいるように、そうで無ければ時間を浪費しているようにしか思えなかった。そして、その予感は的中する。
ようやくサウロンを追い詰めたところで、広間の扉が開いたのだ。クルニーアもエルミラエルも、それが誰の登場であるかをよく知っていた。
「我が補佐官を、よくぞここまで疲弊させたものだ。その事については、褒めるに値することを認めようぞ」
その場に現れた人物────メルコールは、クルニーアを一瞥してから、サウロンに下がるように命じた。エルミラエルは咄嗟にクルニーアの裾を掴んで叫んだ。
「駄目よ!逃げて!」
すると、彼はエルミラエルの方を向いてしゃがみこんだ。そしてサウロンから受けたかすり傷を優しく撫でた。
「大丈夫じゃ。必ず家に帰してやる。だから、約束してくれ」
彼は立ち上がると、エルミラエルに背を向けて杖を構えた。
「どんなことがあろうとも、生き延びると」
「クルニーア……?」
アイヌアの中で最も優れていると唄われた男に、完全体でないマイアが立ち向かうなど、無謀にも程があった。それでも、クルニーアは誰もが予測できる結末にさえ怯むことはなかった。
何も怖くない。私には、エルミラエルがいる。あの人の笑顔さえあれば、私は幸せだ。
いつの間にかクルニーアは仮初めの心を忘れて、この世に生を受けたときの心────クルモの心を取り戻していた。アウレによってそう名付けられたマイアは、気高く美しく、聡明だった。だが、他のどんなマイアールも足元に及ばない程に激しい感情も持ち合わせていた。激情に身を任せて、クルモは杖を持っていない左手に力を集めた。メルコールが漆黒の槍を振りかざし、一撃を叩き込もうとしている。エルミラエルは次に起こる事態を想像し、絶望と悲しみの中で目を閉じた。
槍の切っ先が何かに当たる。メルコールは目障りなマイアが消滅したと思い、にやりと笑みを浮かべた。だが次の瞬間、消滅したのは彼の武器の方だった。当惑するメルコールは、クルニーアを見てハッとした。
黒の魔力と、白の魔力が相殺したのだ。 今や冥王となった自分に対抗しうる力を持つ者など居ないと侮っていた彼は、クルニーアが張った光の盾を睨み付けた。
「貴様……どこまで私の邪魔をすれば気が済むのだ!」
「それはこちらの台詞だ。お前は、最も優れたアイヌアではない。最も醜悪な、アイヌアの面汚しだ!」
いつもと違う口調のクルニーアに、流石のエルミラエルも驚いた。端でうずくまっていたサウロンも、刺し違える覚悟で挑む同輩の姿に目を細めている。
「死ね!私が欲しているものは、誰にも渡さぬ!」
「そうはさせぬ。彼女は私が連れて帰る!」
クルニーアの杖と、メルコールの剣が交差する。どちらも同じ漆黒の武器であり、光に輝いて白く反射している。
「老いぼれめ。大人しく死んでおれば良いものを!」
「私は老いぼれではない!」
メルコールの鋭く重い一撃を受け止めながらも、クルニーアは劣勢に追い込まれていた。それでも、戦うしかなかった。刺し違えることになったとしても、後悔はなかった。
そして、ついにメルコールがクルニーアの足をすくって床に叩きつけた。白きマイアは尚も杖を拾おうと試みたが、その手は空を切った。メルコールが杖を粉砕したのだ。
「これで、終わりだ」
「杖が無くとも……私は……戦えるぞ!」
「それはどうかな?」
メルコールは勝利を満喫しながら笑った。剣が彼の頭上まで振り上げられる。
その時だった。メルコールの剣が空中で静止した。
「止めて!」
エルミラエルだった。彼女はそう叫ぶと、疲弊したクルニーアを抱き締めて庇った。メルコールが繋いでおいたはずの鎖を見ると、それは無惨に粉砕されていた。隣に落ちていたサウロンの武器を使って、必死に鎖をちぎったのだ。彼女は涙を両目に湛えながら、呻き声を上げるクルニーアを見た。
「どけ。エルミラエル。お前であっても、私は許さんぞ」
「もう止めてよ!お願い!あなたの言うことは何でも聞く。要求があるなら何でも従う。だから……だから、お願い!クルニーアをこれ以上傷付けるのは止めて」
「いかん……エルミ……ラエル……」
「良いだろう」
それを聞いて、メルコールは剣を下ろした。それからようやく回復したサウロンに、顎で指示してクルニーアを投獄するよう命じた。
「お前が真に裏切らぬか、確かめてから助ける」
「分かった。何でも証明してみせる」
エルミラエルはメルコールに案内された通りに、玉座の間へと足を踏み入れた。そこには、三つのシルマリルをはめ込んだ冠が置いてあった。
「教えて、メルコール様。一体あなたは何をする気なの?」
「私は、この世界────イルーヴァタールが創った世界をひっくり返す。奴の手の中で躍り続けるのは嫌だ。お前もそうであろう?エルミラエル。姉と比べられる人生など、壊してしまいたくはないか?」
全く同意できなかったが、エルミラエルはクルニーアを救うために沈黙を決めた。メルコールは続けた。
「私は冥王となる。そして……そなたは冥王の妻となるのだ」
「────え?」
目が点になった。エルミラエルは頭の中を整理しながら、必死に言葉を探した。だが、何も見つからない。
「それが、私の望みだ」
「そ……それって……まさか……まさか、あなたは私のことを……友達ではなくて……」
「そうだ。初めから、ずっと私は……」
メルコールは端正な顔をゆっくりと近づけてくる。エルミラエルの全身が凍っていく。悲しいくらい、何もときめかないのだ。確かに、彼は親友であった。けれど、許しがたい裏切り者でもある。そして同時に、クルニーアを傷つけた男でもあるのだ。
そこまで考えて、エルミラエルは違和感を覚えた。クルニーアと過ごしている時の気持ちと、メルコールと過ごしている時の気持ちが、何となく違う気がしたからだ。そんなエルミラエルの思考をよそに、メルコールは思慕の眼差しを向けている。
「あぁ……私が手に入れられぬものなど何もない。エルミラエル、今ここで誓え」
「な、何を……?」
メルコールはエルミラエルの手を掴むと、その掌に口づけした。とても冷たい唇だった。
「我が妻となると。ここで誓え」
「そ……そんな急に……」
「誓えぬのか?」
誓わなければ、クルニーアは解放されない。だが、もし誓えば、永遠に彼に会えなくなってしまう。
気がつけば反射的に、彼女はこんなことを言っていた。
「クルニーアに会わせて。最後に一度だけ。彼が無事か確かめさせて」
「……分かった。その後でも遅くはない」
言い終わって、エルミラエルは自分でも何を言っているのかが分からなかった。けれど、無性に彼に会いたかった。
エルミラエルは駆け出して、クルニーアが捕らえられている牢へと向かった。すると彼女と入れ替わりに、サウロンが玉座の間にやって来た。何か報告するに違いないと思った彼女は、咄嗟に柱の影に隠れて聞き耳をたてた。
「姫君は誓いそうですか?」
「ああ、もちろんだ」
「では、クルモは解放致しますか?」
エルミラエルはメルコールの回答に全神経を集中させた。
「殺せ。生かしておけば、何かと今後も厄介だ」
彼女はその返事に息をのんだ。全身に怒りが込み上げてくる。それから、クルニーアを助けなければという使命感が湧いてきた。そして最後に感じたのは、メルコールに対する憎しみだった。
投獄された後もサウロンに散々殴られたクルニーアは、もはやボロ雑巾のような有り様だった。血で所々赤く染まった衣が、痛々しさを物語っている。それでも、彼の口から出てくる言葉はたった一つだけだった。
「エルミ……ラエル……」
ここで息絶える定めだったのなら、もっと早くに知りたかった。せめて彼女のことを思って書いた、他人に見られるのは恥ずかしい詩を処分する時間くらいは欲しかった。
「私は……何を考えているのだ……はは……」
死ぬというのに、想いを悟られることの方が怖いとは。クルニーアは力無く笑った。すると、朦朧とする意識の中で一縷の光が差し込んできた。エルミラエルだった。彼女は柵にしがみつくと、友の名を呼んだ。
「クルニーア!しっかりして!まぁ……酷いわ!」
「エルミ……ラエル……か……これは……夢……なのかな?」
「夢じゃないわ。私よ。しっかりして」
エルミラエルは近くの棚から鍵を見つけると、扉を開けて牢の中に入った。見苦しい最期を見せたくない一心で、クルニーアは起き上がろうとした。だが、力が入らない。クルニーアには確実に命を吸いとられていることが、手に取るように伝わってきた。
「クルニーア、しっかりして。私が彼の要求に従っても、彼はあなたを殺す気よ」
「そう……であろう……な」
この世のどこに、恋敵を生かしておく馬鹿が居ろうか。クルニーアは嘲笑を浮かべた。
「何が面白いの?あなた、死ぬのよ!?」
「そなたを……守れなかった……のだ……死んで……当然だ」
エルミラエルは叫んだ。いつの間にか、彼女の両頬は熱い涙で濡れていた。
「馬鹿!馬鹿!どうしてそんなこと言うのよ!生きてよ!生きなさいよ!どうしてそんなに不器用な生き方をするの!?名前の意味は"技巧者"なんでしょう!?」
「はは……よく、アウレ様にも……言われたわ……」
クルニーアは嬉しかった。死なないでほしいと言われたことなど、人生で一度も経験したことがなかったからだ。しかも、この世でただ一人愛した女性に言われたのだ。もう、思い残すことはない。
クルニーアはメルコールと違って、愛されたいとは微塵も思っていなかった。むしろ、良き友としての関係をずっと続けていたいと願っていた。だから、誰かの妻になってしまっても良いと本気で思っていた。ただひとつだけ許せないのは、それがメルコールであることくらいだ。
「私、あなたを助ける。絶対に助けてみせる」
「もう……良いのだ……もう……」
それよりも、そなたには笑ってほしい。クルニーアはそう言おうとした。だが、声が出ない。かすれた空気の音だけがその場に溢れる。
その時だった。
「エルミラエル」
メルコールが降りてきて、彼女を呼んだ。
「もう良いであろう」
「ええ。でも、彼をヴァリノールまで無事帰したことを、必ず私に見届けさせてちょうだい」
メルコールは少し考えた。それから、息も絶え絶えになっているマイアを見下ろして微笑んだ。
「良いだろう。彼の前で、私への愛を誓え」
それが、メルコールの思い付く最大の仕打ちだった。エルミラエルは何故か戸惑いを覚えた。それでも、やるしかなかった。
彼女は頷くと、広間まで上がってメルコールの前にひざまづいた。その様子を、クルニーアは遠い目で見ている。
「私は…………」
誓いの言葉を、言わなければ。なのに、舌が歯に引っ付いて取れないような感覚に襲われた。ようやく口を動かし、やっとのことで声を出そうとした時だった。
突然、アングバンドに突風が吹いた。エルミラエルはただ事でない事態を悟り、誓いの言葉を言うのも忘れて振り返った。
そして醜悪な創造物たちの声が響く中、気高く美しい鳴き声が山々にこだました。その声を聞き、クルニーアは霞む視界の中で外を見ながら笑った。
「……相変わ……らず、遅い……な……」
その声と突風の正体は、アイウェンディルとミスランディアを載せた大鷲たちだった。友人たちが駆けつけたことに安心したのか、クルニーアはそのまま気絶してしまった。
サウロンは慌ててオークたちに攻撃を命じたが、大鷲たちの爪は鋭く、部下たちは一瞬にして城壁から叩き落とされてしまった。鷲から降りた二人のマイアールは、慌ててクルニーアとエルミラエルを探した。そして、アイウェンディルはボロ布同然になっているクルニーアを見つけて愕然とした。ミスランディアも遅かったかと言いたげに顔を背けている。
「クルモ!あぁ……なんということだ……」
「マイアールが何体増えようとも、冥王に敵うものなど居らん」
メルコールは槍を創り出し、二人に向けた。だが、そこへ新たな助っ人が現れた。
「私の妹を返しなさい!」
「お姉様!?」
声のした方を見たエルミラエルは、己の目を疑った。そこに居るのは、なんと美しい鎧に身を包み、エルフが鍛えた美しい剣を持つガラドリエルだった。
「姉さんだけじゃないぞ」
その後ろを見ると、普段は無愛想な兄たちの姿もあった。エルミラエルは様々な人の優しさに、思わず涙が溢れそうになった。
「お兄様達に……お姉様……」
一方、メルコールは面倒な雑魚が増えたことに顔をしかめている。ヴァラールと戦ったことなど一度もないフィナルフィンの子らでさえ、その圧倒的な威圧感に恐れをなしている。メルコールは怒りに震えながら吠えた。
「イルーヴァタールの子らよ。まとめて叩き潰されに来たか」
「────それはこちらの台詞だ!」
一際大きな声が響いたと思うと、広間の扉が打ち壊された。一体誰の仕業かと全員が振り返ると、そこには仁王立ちしているアウレの姿があった。
「メルコール!観念しろ」
「アウレめ……!!」
それからアウレは部下として、そして息子同然に可愛がっていたサウロンを睨み付けた。背信者のマイアは、僅かに当惑の色を見せた。
「マイロン、お前もだ。これ以上私を失望させるな」
「ふん。お前など、恐れるに足ら……」
言い終わるより前に、アウレがサウロンめがけて目映い光を放った。すると、彼の姿が指先から徐々に消え始めた。
「なっ……何をする!止めろ!!止めろっ!!」
「消えたくなければ、大人しくエルミラエル姫とクルモを渡せ」
だが、往生際の悪いサウロンは次の手段に出た。彼はバルログたちを呼び出し、ガラドリエルたちにけしかけた。
「お姉様!後ろ!」
「下らぬ。わらわにとって、モルゴスの僕など相手でもない!」
ガラドリエルたちが戦っている隙に、アイウェンディルとミスランディアはクルニーアの元へと駆け寄った。しかし、既に彼の命は風前の灯と化していた。
「そんな……」
「諦めるな、オローリン!ここから運び出し、ヴァリノールへ戻れば何とか……」
「それまでに死んでしまう!このままでは……」
その会話を聞いていたエルミラエルは、アウレと一騎討ちを繰り広げるメルコールを置いて、クルニーアの側へ駆け出した。その姿は、つばぜり合いをしていたメルコールにもはっきりと映っていた。その一瞬を突いて、アウレは一気に攻撃へと転じた。
「お前!一体何を考えているのだ!」
「うるさい!黙れ!私は……私は、メルコールだぞ!アイヌアの中で最も優れたる者なのだ!欲しいものは全て手に入れる!例えそれが空虚な骸であろうとも!」
涙目でそう叫ぶメルコールの視線を辿ったアウレは、ようやく全てを悟った。
「まさか……お前……」
「ああ、そうだ!そうだ!あの子が欲しいのだ!それの何が悪い!」
「彼女の気持ちを無視してでもか?」
「私を愛さぬ者など居ない!」
アウレは狂恋に走ったメルコールを見て、もはや誰であれ止めることは出来ないと知った。
ああ、エルミラエル。お前は何と罪深きエルの子であろうか。
そして、アウレは心に決めた。今ここでメルコールに止めを刺し、虚空へ追放して拘束することこそが、全てを終わらせる唯一の方法であると。
だが、その時だった。エルミラエルの悲痛な叫び声が響いた。
「クルニーア!!嫌!しっかりして!目を覚まして!死なないで!」
「クルモ!クルモ!」
「クルモ殿、お気を確かに!今力尽きてはなりません!」
アウレは選択を迫られた。我が子同然に寵愛している部下を見捨て、処罰を覚悟でメルコールを討つか。あるいは部下を連れて退却するか……
答えは一つだった。アウレはメルコールを蹴りつけると、そのままクルニーアを抱き上げてガラドリエルたちに命じた。
「退却するぞ!戻れ!」
それを聞いたエルミラエルも、アイウェンディルらと共に立ち上がった。だが、その背にメルコールが哀願を投げ掛けた。
「エルミラエル!頼む、行かないでくれ!」
エルミラエルがゆっくりと振り返った。その両目には溢れ出しそうな涙が湛えられている。彼女は震える唇で、怒りを滲ませながらメルコールに告げた。
「────さようなら、モルゴス。二度と、友として会うことは無いでしょう」
そして、アウレに連れられて彼女はアングバンドを後にした。その後彼女が聞いたのは、身も凍るほどに恐ろしい獣のような咆哮だった。それは恋に破れた冥王の、大地をも揺るがす愛憎入り交じった叫びであった。
何とかヴァリノールへたどり着いたエルミラエル達だったが、クルニーアの息は既に弱々しくなっていた。呼び掛けにも応じず、身体も冷たくなり始めている。エルミラエルの隣でアイウェンディルが必死に蘇生の魔術を試みているが、一向に効果は見られない。それどころか、どんどん顔色も悪くなり始めた。
アウレはクルニーアの額に手を宛がい、暫く俯いてから力無く首を横に振った。言葉でこそ宣告されなかったものの、それが手遅れであることを意味していることくらいは分かった。エルミラエルはふらつく足取りで、友の側へと向かった。
「クル……ニーア……」
彼が居ない世界で、自分はどうやって笑えるのか。全ての感情が消えていくのを感じながら、エルミラエルは大粒の涙を流した。
「嫌……嫌……!」
彼無しで、どうやって生きていけばいいのだろうか。彼無しで、何を幸せと定義できようか。
そして、ようやくエルミラエルは悟った。自分は今、友として死に行く彼を嘆いているのではないと。一人の愛する人として、クルニーアを慕って嘆いているのだと。
彼女はクルニーアを抱き締めた。とても耐えきれそうにない現実に、胸が締め付けられるような思いだった。そして、雪のように白く、流れる雪解け水のように美しい髪を優しく撫でた。
「クルニーア……」
私の命を、あなたに差し上げます。
エルミラエルはクルニーアの手を握り、額にそっと口づけした。その行動を見て、ガラドリエルは愕然とした。流石のアウレも、口を開けて呆然としている。
エルミラエルは泣いていた。いつから好きになったのかと聞かれれば、皆目見当がつかない。けれど、この気持ちは勘違いなどではない。メルコールに容易に誓うことが出来なかったのも、会えない時の悲しみも、全てクルニーアのことを愛していたからだったのだ。
突然、クルニーアの顔色を観察していたアイウェンディルが声を上げた。
「顔色が……戻ってきた!」
「温もりも戻ってきている。アイウェンディル。ヤヴァンナに頼み、急いで薬を作るんだ」
「し、承知しました、アウレ様!」
アウレに命じられた通りに、アイウェンディルは薬を作るために退室した。エルミラエルは額から唇を離し、僅かにクルニーアの両眉が動いたことを確認して、胸を撫で下ろした。
「良かった……」
「ありがとう、エルミラエル。私は部下を二人も失くすところだった」
エルミラエルが滅相もないと言おうとした時だった。二人のエルフが部屋に飛び込んできた。父フィナルフィンと母エアルウェンだった。
「エルミラエル!」
「大丈夫!?どこも怪我はない?」
「お父様……お母様……」
ずっと姉と比べて劣っており、要らない子だと思われているものだと信じていたエルミラエルにとって、二人の訪問はとても嬉しいものだった。彼女は両親のもとへ駆け寄って、大粒の涙を流した。フィナルフィンは娘の頭を撫でながら、声を詰まらせながら謝罪した。
「許してくれ、エルミラエル。もっと気を付けるべきだった」
「いいの、お父様。クルニーアが、たった一人で助けに来てくれたの」
「そうか……良い友を持ったな」
それからエルミラエルは顔を上げて、アウレにこんな望みを言った。
「アウレ様。恩人であり、友であるクルニーアの看病を私にさせてください」
その言葉にアウレは深く頷いた。
「ああ、良いだろう。クルモも、きっと喜ぶと思う」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げるエルミラエルに微笑んでから、アウレは幸せそうな顔をして眠っているクルニーアを見た。そして、語りかけるように呟いた。
「……良かったな、姫がお側について下さるそうだ」
僅かに、クルニーアの口許が笑った気がした。アウレは不器用な生き方をする部下に少しでも幸せが訪れることを願って、静かにその場を離れるのだった。
「折角だ。お前の美しき姿を見せてやってはどうだ?」
「黙れ。わしとお前は違う」
「なるほど。流石は、誇り高きマイアールのクルモ様だな」
「本当に、殺されたいのかな?」
エルミラエルには、サウロンが時間を稼いでいるように、そうで無ければ時間を浪費しているようにしか思えなかった。そして、その予感は的中する。
ようやくサウロンを追い詰めたところで、広間の扉が開いたのだ。クルニーアもエルミラエルも、それが誰の登場であるかをよく知っていた。
「我が補佐官を、よくぞここまで疲弊させたものだ。その事については、褒めるに値することを認めようぞ」
その場に現れた人物────メルコールは、クルニーアを一瞥してから、サウロンに下がるように命じた。エルミラエルは咄嗟にクルニーアの裾を掴んで叫んだ。
「駄目よ!逃げて!」
すると、彼はエルミラエルの方を向いてしゃがみこんだ。そしてサウロンから受けたかすり傷を優しく撫でた。
「大丈夫じゃ。必ず家に帰してやる。だから、約束してくれ」
彼は立ち上がると、エルミラエルに背を向けて杖を構えた。
「どんなことがあろうとも、生き延びると」
「クルニーア……?」
アイヌアの中で最も優れていると唄われた男に、完全体でないマイアが立ち向かうなど、無謀にも程があった。それでも、クルニーアは誰もが予測できる結末にさえ怯むことはなかった。
何も怖くない。私には、エルミラエルがいる。あの人の笑顔さえあれば、私は幸せだ。
いつの間にかクルニーアは仮初めの心を忘れて、この世に生を受けたときの心────クルモの心を取り戻していた。アウレによってそう名付けられたマイアは、気高く美しく、聡明だった。だが、他のどんなマイアールも足元に及ばない程に激しい感情も持ち合わせていた。激情に身を任せて、クルモは杖を持っていない左手に力を集めた。メルコールが漆黒の槍を振りかざし、一撃を叩き込もうとしている。エルミラエルは次に起こる事態を想像し、絶望と悲しみの中で目を閉じた。
槍の切っ先が何かに当たる。メルコールは目障りなマイアが消滅したと思い、にやりと笑みを浮かべた。だが次の瞬間、消滅したのは彼の武器の方だった。当惑するメルコールは、クルニーアを見てハッとした。
黒の魔力と、白の魔力が相殺したのだ。 今や冥王となった自分に対抗しうる力を持つ者など居ないと侮っていた彼は、クルニーアが張った光の盾を睨み付けた。
「貴様……どこまで私の邪魔をすれば気が済むのだ!」
「それはこちらの台詞だ。お前は、最も優れたアイヌアではない。最も醜悪な、アイヌアの面汚しだ!」
いつもと違う口調のクルニーアに、流石のエルミラエルも驚いた。端でうずくまっていたサウロンも、刺し違える覚悟で挑む同輩の姿に目を細めている。
「死ね!私が欲しているものは、誰にも渡さぬ!」
「そうはさせぬ。彼女は私が連れて帰る!」
クルニーアの杖と、メルコールの剣が交差する。どちらも同じ漆黒の武器であり、光に輝いて白く反射している。
「老いぼれめ。大人しく死んでおれば良いものを!」
「私は老いぼれではない!」
メルコールの鋭く重い一撃を受け止めながらも、クルニーアは劣勢に追い込まれていた。それでも、戦うしかなかった。刺し違えることになったとしても、後悔はなかった。
そして、ついにメルコールがクルニーアの足をすくって床に叩きつけた。白きマイアは尚も杖を拾おうと試みたが、その手は空を切った。メルコールが杖を粉砕したのだ。
「これで、終わりだ」
「杖が無くとも……私は……戦えるぞ!」
「それはどうかな?」
メルコールは勝利を満喫しながら笑った。剣が彼の頭上まで振り上げられる。
その時だった。メルコールの剣が空中で静止した。
「止めて!」
エルミラエルだった。彼女はそう叫ぶと、疲弊したクルニーアを抱き締めて庇った。メルコールが繋いでおいたはずの鎖を見ると、それは無惨に粉砕されていた。隣に落ちていたサウロンの武器を使って、必死に鎖をちぎったのだ。彼女は涙を両目に湛えながら、呻き声を上げるクルニーアを見た。
「どけ。エルミラエル。お前であっても、私は許さんぞ」
「もう止めてよ!お願い!あなたの言うことは何でも聞く。要求があるなら何でも従う。だから……だから、お願い!クルニーアをこれ以上傷付けるのは止めて」
「いかん……エルミ……ラエル……」
「良いだろう」
それを聞いて、メルコールは剣を下ろした。それからようやく回復したサウロンに、顎で指示してクルニーアを投獄するよう命じた。
「お前が真に裏切らぬか、確かめてから助ける」
「分かった。何でも証明してみせる」
エルミラエルはメルコールに案内された通りに、玉座の間へと足を踏み入れた。そこには、三つのシルマリルをはめ込んだ冠が置いてあった。
「教えて、メルコール様。一体あなたは何をする気なの?」
「私は、この世界────イルーヴァタールが創った世界をひっくり返す。奴の手の中で躍り続けるのは嫌だ。お前もそうであろう?エルミラエル。姉と比べられる人生など、壊してしまいたくはないか?」
全く同意できなかったが、エルミラエルはクルニーアを救うために沈黙を決めた。メルコールは続けた。
「私は冥王となる。そして……そなたは冥王の妻となるのだ」
「────え?」
目が点になった。エルミラエルは頭の中を整理しながら、必死に言葉を探した。だが、何も見つからない。
「それが、私の望みだ」
「そ……それって……まさか……まさか、あなたは私のことを……友達ではなくて……」
「そうだ。初めから、ずっと私は……」
メルコールは端正な顔をゆっくりと近づけてくる。エルミラエルの全身が凍っていく。悲しいくらい、何もときめかないのだ。確かに、彼は親友であった。けれど、許しがたい裏切り者でもある。そして同時に、クルニーアを傷つけた男でもあるのだ。
そこまで考えて、エルミラエルは違和感を覚えた。クルニーアと過ごしている時の気持ちと、メルコールと過ごしている時の気持ちが、何となく違う気がしたからだ。そんなエルミラエルの思考をよそに、メルコールは思慕の眼差しを向けている。
「あぁ……私が手に入れられぬものなど何もない。エルミラエル、今ここで誓え」
「な、何を……?」
メルコールはエルミラエルの手を掴むと、その掌に口づけした。とても冷たい唇だった。
「我が妻となると。ここで誓え」
「そ……そんな急に……」
「誓えぬのか?」
誓わなければ、クルニーアは解放されない。だが、もし誓えば、永遠に彼に会えなくなってしまう。
気がつけば反射的に、彼女はこんなことを言っていた。
「クルニーアに会わせて。最後に一度だけ。彼が無事か確かめさせて」
「……分かった。その後でも遅くはない」
言い終わって、エルミラエルは自分でも何を言っているのかが分からなかった。けれど、無性に彼に会いたかった。
エルミラエルは駆け出して、クルニーアが捕らえられている牢へと向かった。すると彼女と入れ替わりに、サウロンが玉座の間にやって来た。何か報告するに違いないと思った彼女は、咄嗟に柱の影に隠れて聞き耳をたてた。
「姫君は誓いそうですか?」
「ああ、もちろんだ」
「では、クルモは解放致しますか?」
エルミラエルはメルコールの回答に全神経を集中させた。
「殺せ。生かしておけば、何かと今後も厄介だ」
彼女はその返事に息をのんだ。全身に怒りが込み上げてくる。それから、クルニーアを助けなければという使命感が湧いてきた。そして最後に感じたのは、メルコールに対する憎しみだった。
投獄された後もサウロンに散々殴られたクルニーアは、もはやボロ雑巾のような有り様だった。血で所々赤く染まった衣が、痛々しさを物語っている。それでも、彼の口から出てくる言葉はたった一つだけだった。
「エルミ……ラエル……」
ここで息絶える定めだったのなら、もっと早くに知りたかった。せめて彼女のことを思って書いた、他人に見られるのは恥ずかしい詩を処分する時間くらいは欲しかった。
「私は……何を考えているのだ……はは……」
死ぬというのに、想いを悟られることの方が怖いとは。クルニーアは力無く笑った。すると、朦朧とする意識の中で一縷の光が差し込んできた。エルミラエルだった。彼女は柵にしがみつくと、友の名を呼んだ。
「クルニーア!しっかりして!まぁ……酷いわ!」
「エルミ……ラエル……か……これは……夢……なのかな?」
「夢じゃないわ。私よ。しっかりして」
エルミラエルは近くの棚から鍵を見つけると、扉を開けて牢の中に入った。見苦しい最期を見せたくない一心で、クルニーアは起き上がろうとした。だが、力が入らない。クルニーアには確実に命を吸いとられていることが、手に取るように伝わってきた。
「クルニーア、しっかりして。私が彼の要求に従っても、彼はあなたを殺す気よ」
「そう……であろう……な」
この世のどこに、恋敵を生かしておく馬鹿が居ろうか。クルニーアは嘲笑を浮かべた。
「何が面白いの?あなた、死ぬのよ!?」
「そなたを……守れなかった……のだ……死んで……当然だ」
エルミラエルは叫んだ。いつの間にか、彼女の両頬は熱い涙で濡れていた。
「馬鹿!馬鹿!どうしてそんなこと言うのよ!生きてよ!生きなさいよ!どうしてそんなに不器用な生き方をするの!?名前の意味は"技巧者"なんでしょう!?」
「はは……よく、アウレ様にも……言われたわ……」
クルニーアは嬉しかった。死なないでほしいと言われたことなど、人生で一度も経験したことがなかったからだ。しかも、この世でただ一人愛した女性に言われたのだ。もう、思い残すことはない。
クルニーアはメルコールと違って、愛されたいとは微塵も思っていなかった。むしろ、良き友としての関係をずっと続けていたいと願っていた。だから、誰かの妻になってしまっても良いと本気で思っていた。ただひとつだけ許せないのは、それがメルコールであることくらいだ。
「私、あなたを助ける。絶対に助けてみせる」
「もう……良いのだ……もう……」
それよりも、そなたには笑ってほしい。クルニーアはそう言おうとした。だが、声が出ない。かすれた空気の音だけがその場に溢れる。
その時だった。
「エルミラエル」
メルコールが降りてきて、彼女を呼んだ。
「もう良いであろう」
「ええ。でも、彼をヴァリノールまで無事帰したことを、必ず私に見届けさせてちょうだい」
メルコールは少し考えた。それから、息も絶え絶えになっているマイアを見下ろして微笑んだ。
「良いだろう。彼の前で、私への愛を誓え」
それが、メルコールの思い付く最大の仕打ちだった。エルミラエルは何故か戸惑いを覚えた。それでも、やるしかなかった。
彼女は頷くと、広間まで上がってメルコールの前にひざまづいた。その様子を、クルニーアは遠い目で見ている。
「私は…………」
誓いの言葉を、言わなければ。なのに、舌が歯に引っ付いて取れないような感覚に襲われた。ようやく口を動かし、やっとのことで声を出そうとした時だった。
突然、アングバンドに突風が吹いた。エルミラエルはただ事でない事態を悟り、誓いの言葉を言うのも忘れて振り返った。
そして醜悪な創造物たちの声が響く中、気高く美しい鳴き声が山々にこだました。その声を聞き、クルニーアは霞む視界の中で外を見ながら笑った。
「……相変わ……らず、遅い……な……」
その声と突風の正体は、アイウェンディルとミスランディアを載せた大鷲たちだった。友人たちが駆けつけたことに安心したのか、クルニーアはそのまま気絶してしまった。
サウロンは慌ててオークたちに攻撃を命じたが、大鷲たちの爪は鋭く、部下たちは一瞬にして城壁から叩き落とされてしまった。鷲から降りた二人のマイアールは、慌ててクルニーアとエルミラエルを探した。そして、アイウェンディルはボロ布同然になっているクルニーアを見つけて愕然とした。ミスランディアも遅かったかと言いたげに顔を背けている。
「クルモ!あぁ……なんということだ……」
「マイアールが何体増えようとも、冥王に敵うものなど居らん」
メルコールは槍を創り出し、二人に向けた。だが、そこへ新たな助っ人が現れた。
「私の妹を返しなさい!」
「お姉様!?」
声のした方を見たエルミラエルは、己の目を疑った。そこに居るのは、なんと美しい鎧に身を包み、エルフが鍛えた美しい剣を持つガラドリエルだった。
「姉さんだけじゃないぞ」
その後ろを見ると、普段は無愛想な兄たちの姿もあった。エルミラエルは様々な人の優しさに、思わず涙が溢れそうになった。
「お兄様達に……お姉様……」
一方、メルコールは面倒な雑魚が増えたことに顔をしかめている。ヴァラールと戦ったことなど一度もないフィナルフィンの子らでさえ、その圧倒的な威圧感に恐れをなしている。メルコールは怒りに震えながら吠えた。
「イルーヴァタールの子らよ。まとめて叩き潰されに来たか」
「────それはこちらの台詞だ!」
一際大きな声が響いたと思うと、広間の扉が打ち壊された。一体誰の仕業かと全員が振り返ると、そこには仁王立ちしているアウレの姿があった。
「メルコール!観念しろ」
「アウレめ……!!」
それからアウレは部下として、そして息子同然に可愛がっていたサウロンを睨み付けた。背信者のマイアは、僅かに当惑の色を見せた。
「マイロン、お前もだ。これ以上私を失望させるな」
「ふん。お前など、恐れるに足ら……」
言い終わるより前に、アウレがサウロンめがけて目映い光を放った。すると、彼の姿が指先から徐々に消え始めた。
「なっ……何をする!止めろ!!止めろっ!!」
「消えたくなければ、大人しくエルミラエル姫とクルモを渡せ」
だが、往生際の悪いサウロンは次の手段に出た。彼はバルログたちを呼び出し、ガラドリエルたちにけしかけた。
「お姉様!後ろ!」
「下らぬ。わらわにとって、モルゴスの僕など相手でもない!」
ガラドリエルたちが戦っている隙に、アイウェンディルとミスランディアはクルニーアの元へと駆け寄った。しかし、既に彼の命は風前の灯と化していた。
「そんな……」
「諦めるな、オローリン!ここから運び出し、ヴァリノールへ戻れば何とか……」
「それまでに死んでしまう!このままでは……」
その会話を聞いていたエルミラエルは、アウレと一騎討ちを繰り広げるメルコールを置いて、クルニーアの側へ駆け出した。その姿は、つばぜり合いをしていたメルコールにもはっきりと映っていた。その一瞬を突いて、アウレは一気に攻撃へと転じた。
「お前!一体何を考えているのだ!」
「うるさい!黙れ!私は……私は、メルコールだぞ!アイヌアの中で最も優れたる者なのだ!欲しいものは全て手に入れる!例えそれが空虚な骸であろうとも!」
涙目でそう叫ぶメルコールの視線を辿ったアウレは、ようやく全てを悟った。
「まさか……お前……」
「ああ、そうだ!そうだ!あの子が欲しいのだ!それの何が悪い!」
「彼女の気持ちを無視してでもか?」
「私を愛さぬ者など居ない!」
アウレは狂恋に走ったメルコールを見て、もはや誰であれ止めることは出来ないと知った。
ああ、エルミラエル。お前は何と罪深きエルの子であろうか。
そして、アウレは心に決めた。今ここでメルコールに止めを刺し、虚空へ追放して拘束することこそが、全てを終わらせる唯一の方法であると。
だが、その時だった。エルミラエルの悲痛な叫び声が響いた。
「クルニーア!!嫌!しっかりして!目を覚まして!死なないで!」
「クルモ!クルモ!」
「クルモ殿、お気を確かに!今力尽きてはなりません!」
アウレは選択を迫られた。我が子同然に寵愛している部下を見捨て、処罰を覚悟でメルコールを討つか。あるいは部下を連れて退却するか……
答えは一つだった。アウレはメルコールを蹴りつけると、そのままクルニーアを抱き上げてガラドリエルたちに命じた。
「退却するぞ!戻れ!」
それを聞いたエルミラエルも、アイウェンディルらと共に立ち上がった。だが、その背にメルコールが哀願を投げ掛けた。
「エルミラエル!頼む、行かないでくれ!」
エルミラエルがゆっくりと振り返った。その両目には溢れ出しそうな涙が湛えられている。彼女は震える唇で、怒りを滲ませながらメルコールに告げた。
「────さようなら、モルゴス。二度と、友として会うことは無いでしょう」
そして、アウレに連れられて彼女はアングバンドを後にした。その後彼女が聞いたのは、身も凍るほどに恐ろしい獣のような咆哮だった。それは恋に破れた冥王の、大地をも揺るがす愛憎入り交じった叫びであった。
何とかヴァリノールへたどり着いたエルミラエル達だったが、クルニーアの息は既に弱々しくなっていた。呼び掛けにも応じず、身体も冷たくなり始めている。エルミラエルの隣でアイウェンディルが必死に蘇生の魔術を試みているが、一向に効果は見られない。それどころか、どんどん顔色も悪くなり始めた。
アウレはクルニーアの額に手を宛がい、暫く俯いてから力無く首を横に振った。言葉でこそ宣告されなかったものの、それが手遅れであることを意味していることくらいは分かった。エルミラエルはふらつく足取りで、友の側へと向かった。
「クル……ニーア……」
彼が居ない世界で、自分はどうやって笑えるのか。全ての感情が消えていくのを感じながら、エルミラエルは大粒の涙を流した。
「嫌……嫌……!」
彼無しで、どうやって生きていけばいいのだろうか。彼無しで、何を幸せと定義できようか。
そして、ようやくエルミラエルは悟った。自分は今、友として死に行く彼を嘆いているのではないと。一人の愛する人として、クルニーアを慕って嘆いているのだと。
彼女はクルニーアを抱き締めた。とても耐えきれそうにない現実に、胸が締め付けられるような思いだった。そして、雪のように白く、流れる雪解け水のように美しい髪を優しく撫でた。
「クルニーア……」
私の命を、あなたに差し上げます。
エルミラエルはクルニーアの手を握り、額にそっと口づけした。その行動を見て、ガラドリエルは愕然とした。流石のアウレも、口を開けて呆然としている。
エルミラエルは泣いていた。いつから好きになったのかと聞かれれば、皆目見当がつかない。けれど、この気持ちは勘違いなどではない。メルコールに容易に誓うことが出来なかったのも、会えない時の悲しみも、全てクルニーアのことを愛していたからだったのだ。
突然、クルニーアの顔色を観察していたアイウェンディルが声を上げた。
「顔色が……戻ってきた!」
「温もりも戻ってきている。アイウェンディル。ヤヴァンナに頼み、急いで薬を作るんだ」
「し、承知しました、アウレ様!」
アウレに命じられた通りに、アイウェンディルは薬を作るために退室した。エルミラエルは額から唇を離し、僅かにクルニーアの両眉が動いたことを確認して、胸を撫で下ろした。
「良かった……」
「ありがとう、エルミラエル。私は部下を二人も失くすところだった」
エルミラエルが滅相もないと言おうとした時だった。二人のエルフが部屋に飛び込んできた。父フィナルフィンと母エアルウェンだった。
「エルミラエル!」
「大丈夫!?どこも怪我はない?」
「お父様……お母様……」
ずっと姉と比べて劣っており、要らない子だと思われているものだと信じていたエルミラエルにとって、二人の訪問はとても嬉しいものだった。彼女は両親のもとへ駆け寄って、大粒の涙を流した。フィナルフィンは娘の頭を撫でながら、声を詰まらせながら謝罪した。
「許してくれ、エルミラエル。もっと気を付けるべきだった」
「いいの、お父様。クルニーアが、たった一人で助けに来てくれたの」
「そうか……良い友を持ったな」
それからエルミラエルは顔を上げて、アウレにこんな望みを言った。
「アウレ様。恩人であり、友であるクルニーアの看病を私にさせてください」
その言葉にアウレは深く頷いた。
「ああ、良いだろう。クルモも、きっと喜ぶと思う」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げるエルミラエルに微笑んでから、アウレは幸せそうな顔をして眠っているクルニーアを見た。そして、語りかけるように呟いた。
「……良かったな、姫がお側について下さるそうだ」
僅かに、クルニーアの口許が笑った気がした。アウレは不器用な生き方をする部下に少しでも幸せが訪れることを願って、静かにその場を離れるのだった。