一章、回り始めた定め
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「うーん……今日もいい天気!」
エルミラエルはいつものように背伸びしながら、中庭で朝日を全身に浴びた。銀色の髪が美しく光を反射している。朝食の準備をしていた侍女のメリドゥは、相変わらず元気な主人に呆れた。
「姫様は今日もお元気ですね」
「何よ。元気で悪い?」
「いえ、別に。ただ、お元気すぎると思っただけです」
「何よそれ!」
エルミラエルが口をへの字に曲げた時だった。朝食を摂りに来たガラドリエルが現れ、彼女は慌てて挨拶をした。
「お、お早う。お姉様」
「今日も元気ね、エルミラエル」
ガラドリエルの言葉に、メリドゥが横目でエルミラエルを見た。
「ほら。申し上げた通りです」
「メリドゥったら!」
「まぁ、良いじゃない。ところで、今日はクルニーアは居ないの?」
ガラドリエルは妹に座るように促すと、このところしょっちゅう出入りしているマイアールの名を挙げた。エルミラエルはサラダを頬張りながら、首を横に振った。
「昨日は帰ったわ。お昼くらいに来るんじゃない?」
「あなたたち、随分仲良しね」
「ええ。いいでしょ?」
「まぁ……あなたが元気になったなら、良かったわ」
ガラドリエルは、ベレグーア────メルコールの裏切りに悲しんでいた妹の立ち直りの様を見て安心していた。クルニーア自身が純粋に友情のみを感じているかどうかは疑わしいが、妹の笑顔を取り戻してくれたことは姉として嬉しかった。
ガラドリエルがそんなことを考えていると、その場に新たな人物が現れた。彼女はその人を見るや否や、慌てて立ち上がって笑顔を向けた。
「ミスランディア!」
「ガラドリエルの姫様、お久しぶりです。エルミラエル姫もお変わり無くお元気で何よりです」
「それはどうも」
今日は随分と元気が良いと言われるなと思いながら、エルミラエルは人参のスティックを口に入れた。訪問者──ミスランディアに席を勧めると、ガラドリエルは不思議そうに首をかしげた。
「ところで、ミスランディア。今日は何のご用?」
「ああ、そのお話ですが……実は妹殿宛の言伝を預かっておりまして」
「私に?どうしたの?」
目を丸くしたエルミラエルだったが、直後のミスランディアの伝言は、彼女の笑顔を曇らせることとなった。
「クルニーア殿が、今日は来れそうにないと伝えておいて欲しいと仰っておりました」
「そう……わかった」
エルミラエルはあからさまに肩を落とすと、どんよりした表情で食事を再開させた。
クルニーアが来ない。今まで無かったものなのに、居なくなると、何故かとても寂しい。ミスランディアは想像以上の落ち込み方に驚いて、ついこんなことを漏らした。
「一日会えないだけで落ち込まれるとは。これでは、友というより……」
「ミスランディア」
ガラドリエルの鋭い声が、続きの言葉を掻き消した。珍しく強い口調に、ミスランディアは目を丸くしている。
「用はそれだけですか?」
「え……ええ、そうです」
「では、お引き取りを。また、日を改めてお話ししましょう」
ガラドリエルは追い返すようにして、ミスランディアを見送った。その間も、エルミラエルはずっとクルニーアのことを考えていた。
大丈夫かしら。病気?それとも、大切な用事?或いは、別の大切な誰かと会っているのかしら……
エルミラエルが、ため息を漏らす。
そしてその頃、クルニーアも同じようにため息をついていた。彼はメルコールに関する会議に出席しており、アウレの隣でトゥルカスの報告を聞いていた。
早く終われ。早く。
クルニーアは苛立ちのあまり、無意識に机を指先で何度も叩いていた。彼の珍しい様子に、アウレは首をかしげた。
「クルニーア。どうしたんだ?」
「え?あ……い、いえ。お気になさらず。大丈夫です」
大丈夫なわけがない。早く会いたいというのに、今度はトゥルカスとオロメが喧嘩を始めた。誰もが苛立つ状況になるのは理解できるが、今のクルニーアはそれどころではなかった。
ああ、早く終わってくれ!無駄なことに時間を費やしたくはないんだわ!
騒がしい会議に耳を塞ごうとしたそのときだった。血相を変えた様子でその場に飛び込んできた者がいた。一同は顔をあげ、トゥルカスとオロメも取っ組み合いを止めた。
その人は、なんとフィナルフィンだった。元より色白の男だったが、今は彫刻よりも血色の悪い顔をしている。クルニーアは瞬時に、何かが起きたことを悟った。
「どうしたのだ、フィナルフィン。珍しいではないか」
「アウレ様……大変です……サウロンが……」
「サウロンがどうした」
震える唇を必死で動かし、フィナルフィンは答えた。
「サウロンが……我が娘の……娘のエルミラエルをアングバンドヘ拐ったのです」
その言葉に、その場にいた全員がざわめいた。クルニーアはただ一人、一言も発さず呆然としている。
それはミスランディアの帰りを見送るために、ガラドリエルが席を外した後に起きた悲劇だった。食事を終えたエルミラエルは、中庭で読書に耽っていた。すると、突然目の前に男が現れた。瞳は輝く黄金のような色で、髪も美しい金髪だった。しかし視線は鋭く、優美さの裏に鷹のような狡猾さを兼ね備えていた。男はガラスのように薄い唇を動かすと、不敵な笑みを浮かべて言った。
「姫君。我が主君がお呼びです」
「主君……?あなたは誰?」
「私はマイアール。あなたの友の、かつての友。そしてあなたのかつての友の優秀な右腕」
それを聞いて、エルミラエルはこの男がメルコールの使者であることを悟った。彼女は立ち上がると、助けを呼ぼうと声をあげることを試みた。だが、男の方が一歩早かった。彼はエルミラエルの口を塞ぐと、先程とは違う鋭く残忍な口調で囁いた。
「大人しくされていた方が、身のためだ」
「あなたは……あなたは、誰なの!?答えなさい!」
「私はサウロン。マイアールの中で、最も優れている者だ」
暴れようとするエルミラエルを闇の縄で縛り付けて猿轡を掛けると、サウロンはそのままアングバンドヘ連れ去ろうとした。だが、その前に妹を探しにきたガラドリエルがその場に現れた。
「エルミラエル!……サウロン、妹を放すのだ」
「断る。彼女には、私の首がかかっている。成功すれば、私の人生は安泰だ」
サウロンは闇から剣を作り出すと、エルミラエルの首もとに切っ先を向けた。
「一歩でも近づけば、お前の妹の喉元は深紅に染まるだろう。憐れな魔女よ、お前に出来ることは何もない」
サウロンはそう言い残すと、闇に紛れてその場から去ってしまった。そして、ガラドリエルが裾を持って駆け出し、フィナルフィンに報告をしたことから事が明るみになったのだ。
深刻な事態に、マンウェも言葉を無くしている。沈黙が支配するなか、それを破ったのはクルニーアだった。彼は立ち上がると、その場にいる全員に告げた。
「わしが────わしが、助けに行きます」
その言葉に、オロメが猛反対した。
「無茶な!私とトゥルカスですら、追跡を仕損じたのだぞ。お前に出来るはずは……」
「サウロンは、かつての同輩。分からぬはずはありません。奴の考えと行動なら、己のことのように分かります」
なるほどと頷くアウレを置いて、マンウェが尋ねた。
「だが、仮にアングバンドヘ辿り着けたとして、その先はどうするのだ。正面から入ることなど不可能だ」
クルニーアはにこりと笑って、ヤヴァンナの隣に立っているアイウェンディルと、末席で深刻な顔をしているミスランディアを見た。
「アイウェンディル、ミスランディア。わしに力を貸してはくれんか?」
二人は顔をあげると、クルニーアの頼みを二つ返事で受け入れた。アウレはそれを見て、ヴァラールの中では真っ先に立ち上がった。
「そうと決まれば、我らも動かねば」
アウレの決断を知り、マンウェも賛同の意を示した。クルニーアはアイウェンディルに大鷲を借りてくるように指示している。そんな中、放心状態のフィナルフィンはクルニーアに近寄ると、おもむろにその手を掴んだ。
「クルニーア。どうか……どうか、娘を助けてやってくれ」
「フィナルフィン殿、ご安心下さい。必ず、この私がエルミラエル姫をお助けします」
「頼んだ。成功した暁には、望みは何でも叶えよう」
その言葉に、クルニーアの瞳が僅かに反応した。彼は何気なく、平静を装って尋ねた。
「そんな。何も望みはありませんが……ところで、本当に何でも叶えてくださるのですか?」
「もちろん。そなたは恩人なのだ。頼んだぞ、クルニーア。今は、そなただけが頼りだ」
クルニーアの口許が緩む。
もし、本当に望みが叶うのならば……
そこまで考えて、彼は慌てて思考を振り切った。そんな葛藤を、アウレは見逃さなかった。だが、この状況で言及する気にはなれず、彼は気づかないふりをしようと心に決めるのだった。
エルミラエルはアングバンドの広間で鎖に繋がれながら、態度の悪いマイアール────サウロンを睨み付けていた。片手で闇の鞭をもてあそんでいた彼は、美しい金髪を揺らしながら冷淡な笑みを向けた。
「止めておけ、無駄な抵抗だ。それにしても、我が主君はこんなお転婆のどこがお気に召したのやら……」
「お兄様達とお姉様が本気を出せば、そのお澄まし顔なんて胴体とサヨナラさせられるんだから」
「おぉ……それは怖いな。しかし、君を助けに来る王子様は居ないようだ。何故かわかるか?」
サウロンはエルミラエルに近づくと、整った顔を醜悪に曲げて嘲笑った。それから、膝をついて彼女にぞっとする声で囁いた。
「お前は、出来損ないのエルフだからだ」
その言葉に、エルミラエルの視線が泳ぐ。サウロンは勝ち誇ったような笑顔を浮かべると、更に何かを言おうと口を開いた。
だが、それより前に彼の顔めがけて何かが飛んできた。咄嗟に避けた彼は、慌てて背後を振り返った。そこには、目映い白の衣を身に纏うクルニーアが立っていた。先程の何かは、彼の杖から放たれる光線だったのだ。
サウロンはかつての同輩に向き直ると、鞭を一振りした。だがその一閃はクルニーアを捉えることなく、光の壁に焦げ付いた。
「お前、強くなったな」
「友を返して貰いに来た」
クルニーアの言葉を、サウロンは鼻で笑った。
「はぁ?お前に友とは。余り物同士、仲良くなったというやつだな。賢いお前ならわかっているとは思うが……一応言っておいてやる。それは友ではないぞ」
「口を慎んだ方が良いぞ、サウロン。さもなくば、わしがお前を消滅させてくれるわ」
本気のクルニーアに対し、サウロンは一切怯まない。むしろ挑発で返した。
「消滅か。面白い。しかしだな……残念ながら、それはお前の末路のようだが?」
「相変わらず、よく回る舌だな。その力は見かけ倒しか?マイロンよ」
マイロン────かつての名で呼ばれたことで、サウロンの中で何かが音を立てて外れた。そして僅かに、アウレの元で光に祝福される日々を過ごした記憶が溢れ出した。彼は煩わしい記憶を振り払うと、闇から漆黒の棍棒を作り出して構えた。
「では、お話は終わりだ。良かったな、お転婆姫。王子様ではないが、お爺様が助けに来てくれたぞ」
その一言が、クルニーアの目付きを変貌させた。一度も見たことの無い視線の鋭さに、思わずサウロンは怯んだ。
「……どうやらわしを、本気で怒らせたようだな」
「良いのか?腰を痛めるやもしれんぞ」
サウロンがクルニーアめがけて突進し、棍棒を振り下ろす。白きマイアールは、どこか面影が似ている漆黒の杖でそれを受け止めると、光の波動で打ち返した。衝撃で倒れたサウロンは、床に顔を強く打ち付けて口を切った。薄氷のような唇から、赤い血が垂れる。
「……やってくれたな?」
「老いぼれに負ける恥ずかしさ、味わうがよい」
こうして、二人の戦いが始まった。この様子を、二人の人物が見ていた。一人は言わずとその場に居るエルミラエル。そしてもう一人は、メルコール。彼は玉座に座りながら、興味深そうに戦いを眺めていた。
「……クルニーア。思った以上に厄介な男だな」
彼の口許は、意外にも笑っていた。だが、その手は爪が肉に食い込むほどに強く握りしめられている。そして、赤く燃えるような瞳には、身を燃やし尽くさんばかりの激しい憎悪が込められていた。
それは一重に、クルニーアが助けに来たからではなかった。彼を見つめるエルミラエルの瞳に、自分が欲していた何かを見つけてしまったからだった。
「今にみていろ。お前は、必ず私を選ぶ。……必ず」
メルコールは前に置かれた冠に収まっているシルマリルを一瞥し、愛しげに目を細めた。そして、その輝きに指先で触れた。その瞬間、彼の手は焼け焦げた。鋭い痛みが駆け巡ったが、黒髪のヴァラールは止めなかった。
その色と輝きは、エルミラエルに似ていた。そして、何よりその身を焦がす痛みは、彼の激しい恋情に酷似しているのだった。
マイアールと、最も優れたアイヌア。決して対峙するはずが無かった二人の定めが今、たった一人のイルーヴァタールの子の愛を巡り、音を立てて回り始めた。
エルミラエルはいつものように背伸びしながら、中庭で朝日を全身に浴びた。銀色の髪が美しく光を反射している。朝食の準備をしていた侍女のメリドゥは、相変わらず元気な主人に呆れた。
「姫様は今日もお元気ですね」
「何よ。元気で悪い?」
「いえ、別に。ただ、お元気すぎると思っただけです」
「何よそれ!」
エルミラエルが口をへの字に曲げた時だった。朝食を摂りに来たガラドリエルが現れ、彼女は慌てて挨拶をした。
「お、お早う。お姉様」
「今日も元気ね、エルミラエル」
ガラドリエルの言葉に、メリドゥが横目でエルミラエルを見た。
「ほら。申し上げた通りです」
「メリドゥったら!」
「まぁ、良いじゃない。ところで、今日はクルニーアは居ないの?」
ガラドリエルは妹に座るように促すと、このところしょっちゅう出入りしているマイアールの名を挙げた。エルミラエルはサラダを頬張りながら、首を横に振った。
「昨日は帰ったわ。お昼くらいに来るんじゃない?」
「あなたたち、随分仲良しね」
「ええ。いいでしょ?」
「まぁ……あなたが元気になったなら、良かったわ」
ガラドリエルは、ベレグーア────メルコールの裏切りに悲しんでいた妹の立ち直りの様を見て安心していた。クルニーア自身が純粋に友情のみを感じているかどうかは疑わしいが、妹の笑顔を取り戻してくれたことは姉として嬉しかった。
ガラドリエルがそんなことを考えていると、その場に新たな人物が現れた。彼女はその人を見るや否や、慌てて立ち上がって笑顔を向けた。
「ミスランディア!」
「ガラドリエルの姫様、お久しぶりです。エルミラエル姫もお変わり無くお元気で何よりです」
「それはどうも」
今日は随分と元気が良いと言われるなと思いながら、エルミラエルは人参のスティックを口に入れた。訪問者──ミスランディアに席を勧めると、ガラドリエルは不思議そうに首をかしげた。
「ところで、ミスランディア。今日は何のご用?」
「ああ、そのお話ですが……実は妹殿宛の言伝を預かっておりまして」
「私に?どうしたの?」
目を丸くしたエルミラエルだったが、直後のミスランディアの伝言は、彼女の笑顔を曇らせることとなった。
「クルニーア殿が、今日は来れそうにないと伝えておいて欲しいと仰っておりました」
「そう……わかった」
エルミラエルはあからさまに肩を落とすと、どんよりした表情で食事を再開させた。
クルニーアが来ない。今まで無かったものなのに、居なくなると、何故かとても寂しい。ミスランディアは想像以上の落ち込み方に驚いて、ついこんなことを漏らした。
「一日会えないだけで落ち込まれるとは。これでは、友というより……」
「ミスランディア」
ガラドリエルの鋭い声が、続きの言葉を掻き消した。珍しく強い口調に、ミスランディアは目を丸くしている。
「用はそれだけですか?」
「え……ええ、そうです」
「では、お引き取りを。また、日を改めてお話ししましょう」
ガラドリエルは追い返すようにして、ミスランディアを見送った。その間も、エルミラエルはずっとクルニーアのことを考えていた。
大丈夫かしら。病気?それとも、大切な用事?或いは、別の大切な誰かと会っているのかしら……
エルミラエルが、ため息を漏らす。
そしてその頃、クルニーアも同じようにため息をついていた。彼はメルコールに関する会議に出席しており、アウレの隣でトゥルカスの報告を聞いていた。
早く終われ。早く。
クルニーアは苛立ちのあまり、無意識に机を指先で何度も叩いていた。彼の珍しい様子に、アウレは首をかしげた。
「クルニーア。どうしたんだ?」
「え?あ……い、いえ。お気になさらず。大丈夫です」
大丈夫なわけがない。早く会いたいというのに、今度はトゥルカスとオロメが喧嘩を始めた。誰もが苛立つ状況になるのは理解できるが、今のクルニーアはそれどころではなかった。
ああ、早く終わってくれ!無駄なことに時間を費やしたくはないんだわ!
騒がしい会議に耳を塞ごうとしたそのときだった。血相を変えた様子でその場に飛び込んできた者がいた。一同は顔をあげ、トゥルカスとオロメも取っ組み合いを止めた。
その人は、なんとフィナルフィンだった。元より色白の男だったが、今は彫刻よりも血色の悪い顔をしている。クルニーアは瞬時に、何かが起きたことを悟った。
「どうしたのだ、フィナルフィン。珍しいではないか」
「アウレ様……大変です……サウロンが……」
「サウロンがどうした」
震える唇を必死で動かし、フィナルフィンは答えた。
「サウロンが……我が娘の……娘のエルミラエルをアングバンドヘ拐ったのです」
その言葉に、その場にいた全員がざわめいた。クルニーアはただ一人、一言も発さず呆然としている。
それはミスランディアの帰りを見送るために、ガラドリエルが席を外した後に起きた悲劇だった。食事を終えたエルミラエルは、中庭で読書に耽っていた。すると、突然目の前に男が現れた。瞳は輝く黄金のような色で、髪も美しい金髪だった。しかし視線は鋭く、優美さの裏に鷹のような狡猾さを兼ね備えていた。男はガラスのように薄い唇を動かすと、不敵な笑みを浮かべて言った。
「姫君。我が主君がお呼びです」
「主君……?あなたは誰?」
「私はマイアール。あなたの友の、かつての友。そしてあなたのかつての友の優秀な右腕」
それを聞いて、エルミラエルはこの男がメルコールの使者であることを悟った。彼女は立ち上がると、助けを呼ぼうと声をあげることを試みた。だが、男の方が一歩早かった。彼はエルミラエルの口を塞ぐと、先程とは違う鋭く残忍な口調で囁いた。
「大人しくされていた方が、身のためだ」
「あなたは……あなたは、誰なの!?答えなさい!」
「私はサウロン。マイアールの中で、最も優れている者だ」
暴れようとするエルミラエルを闇の縄で縛り付けて猿轡を掛けると、サウロンはそのままアングバンドヘ連れ去ろうとした。だが、その前に妹を探しにきたガラドリエルがその場に現れた。
「エルミラエル!……サウロン、妹を放すのだ」
「断る。彼女には、私の首がかかっている。成功すれば、私の人生は安泰だ」
サウロンは闇から剣を作り出すと、エルミラエルの首もとに切っ先を向けた。
「一歩でも近づけば、お前の妹の喉元は深紅に染まるだろう。憐れな魔女よ、お前に出来ることは何もない」
サウロンはそう言い残すと、闇に紛れてその場から去ってしまった。そして、ガラドリエルが裾を持って駆け出し、フィナルフィンに報告をしたことから事が明るみになったのだ。
深刻な事態に、マンウェも言葉を無くしている。沈黙が支配するなか、それを破ったのはクルニーアだった。彼は立ち上がると、その場にいる全員に告げた。
「わしが────わしが、助けに行きます」
その言葉に、オロメが猛反対した。
「無茶な!私とトゥルカスですら、追跡を仕損じたのだぞ。お前に出来るはずは……」
「サウロンは、かつての同輩。分からぬはずはありません。奴の考えと行動なら、己のことのように分かります」
なるほどと頷くアウレを置いて、マンウェが尋ねた。
「だが、仮にアングバンドヘ辿り着けたとして、その先はどうするのだ。正面から入ることなど不可能だ」
クルニーアはにこりと笑って、ヤヴァンナの隣に立っているアイウェンディルと、末席で深刻な顔をしているミスランディアを見た。
「アイウェンディル、ミスランディア。わしに力を貸してはくれんか?」
二人は顔をあげると、クルニーアの頼みを二つ返事で受け入れた。アウレはそれを見て、ヴァラールの中では真っ先に立ち上がった。
「そうと決まれば、我らも動かねば」
アウレの決断を知り、マンウェも賛同の意を示した。クルニーアはアイウェンディルに大鷲を借りてくるように指示している。そんな中、放心状態のフィナルフィンはクルニーアに近寄ると、おもむろにその手を掴んだ。
「クルニーア。どうか……どうか、娘を助けてやってくれ」
「フィナルフィン殿、ご安心下さい。必ず、この私がエルミラエル姫をお助けします」
「頼んだ。成功した暁には、望みは何でも叶えよう」
その言葉に、クルニーアの瞳が僅かに反応した。彼は何気なく、平静を装って尋ねた。
「そんな。何も望みはありませんが……ところで、本当に何でも叶えてくださるのですか?」
「もちろん。そなたは恩人なのだ。頼んだぞ、クルニーア。今は、そなただけが頼りだ」
クルニーアの口許が緩む。
もし、本当に望みが叶うのならば……
そこまで考えて、彼は慌てて思考を振り切った。そんな葛藤を、アウレは見逃さなかった。だが、この状況で言及する気にはなれず、彼は気づかないふりをしようと心に決めるのだった。
エルミラエルはアングバンドの広間で鎖に繋がれながら、態度の悪いマイアール────サウロンを睨み付けていた。片手で闇の鞭をもてあそんでいた彼は、美しい金髪を揺らしながら冷淡な笑みを向けた。
「止めておけ、無駄な抵抗だ。それにしても、我が主君はこんなお転婆のどこがお気に召したのやら……」
「お兄様達とお姉様が本気を出せば、そのお澄まし顔なんて胴体とサヨナラさせられるんだから」
「おぉ……それは怖いな。しかし、君を助けに来る王子様は居ないようだ。何故かわかるか?」
サウロンはエルミラエルに近づくと、整った顔を醜悪に曲げて嘲笑った。それから、膝をついて彼女にぞっとする声で囁いた。
「お前は、出来損ないのエルフだからだ」
その言葉に、エルミラエルの視線が泳ぐ。サウロンは勝ち誇ったような笑顔を浮かべると、更に何かを言おうと口を開いた。
だが、それより前に彼の顔めがけて何かが飛んできた。咄嗟に避けた彼は、慌てて背後を振り返った。そこには、目映い白の衣を身に纏うクルニーアが立っていた。先程の何かは、彼の杖から放たれる光線だったのだ。
サウロンはかつての同輩に向き直ると、鞭を一振りした。だがその一閃はクルニーアを捉えることなく、光の壁に焦げ付いた。
「お前、強くなったな」
「友を返して貰いに来た」
クルニーアの言葉を、サウロンは鼻で笑った。
「はぁ?お前に友とは。余り物同士、仲良くなったというやつだな。賢いお前ならわかっているとは思うが……一応言っておいてやる。それは友ではないぞ」
「口を慎んだ方が良いぞ、サウロン。さもなくば、わしがお前を消滅させてくれるわ」
本気のクルニーアに対し、サウロンは一切怯まない。むしろ挑発で返した。
「消滅か。面白い。しかしだな……残念ながら、それはお前の末路のようだが?」
「相変わらず、よく回る舌だな。その力は見かけ倒しか?マイロンよ」
マイロン────かつての名で呼ばれたことで、サウロンの中で何かが音を立てて外れた。そして僅かに、アウレの元で光に祝福される日々を過ごした記憶が溢れ出した。彼は煩わしい記憶を振り払うと、闇から漆黒の棍棒を作り出して構えた。
「では、お話は終わりだ。良かったな、お転婆姫。王子様ではないが、お爺様が助けに来てくれたぞ」
その一言が、クルニーアの目付きを変貌させた。一度も見たことの無い視線の鋭さに、思わずサウロンは怯んだ。
「……どうやらわしを、本気で怒らせたようだな」
「良いのか?腰を痛めるやもしれんぞ」
サウロンがクルニーアめがけて突進し、棍棒を振り下ろす。白きマイアールは、どこか面影が似ている漆黒の杖でそれを受け止めると、光の波動で打ち返した。衝撃で倒れたサウロンは、床に顔を強く打ち付けて口を切った。薄氷のような唇から、赤い血が垂れる。
「……やってくれたな?」
「老いぼれに負ける恥ずかしさ、味わうがよい」
こうして、二人の戦いが始まった。この様子を、二人の人物が見ていた。一人は言わずとその場に居るエルミラエル。そしてもう一人は、メルコール。彼は玉座に座りながら、興味深そうに戦いを眺めていた。
「……クルニーア。思った以上に厄介な男だな」
彼の口許は、意外にも笑っていた。だが、その手は爪が肉に食い込むほどに強く握りしめられている。そして、赤く燃えるような瞳には、身を燃やし尽くさんばかりの激しい憎悪が込められていた。
それは一重に、クルニーアが助けに来たからではなかった。彼を見つめるエルミラエルの瞳に、自分が欲していた何かを見つけてしまったからだった。
「今にみていろ。お前は、必ず私を選ぶ。……必ず」
メルコールは前に置かれた冠に収まっているシルマリルを一瞥し、愛しげに目を細めた。そして、その輝きに指先で触れた。その瞬間、彼の手は焼け焦げた。鋭い痛みが駆け巡ったが、黒髪のヴァラールは止めなかった。
その色と輝きは、エルミラエルに似ていた。そして、何よりその身を焦がす痛みは、彼の激しい恋情に酷似しているのだった。
マイアールと、最も優れたアイヌア。決して対峙するはずが無かった二人の定めが今、たった一人のイルーヴァタールの子の愛を巡り、音を立てて回り始めた。
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