一章、二つの闇
空腹、空腹、絶望、飢え、渇き、渇望、悶絶、欲望。あたしを満たすものなんて、そんなもの。真っ黒で空っぽな瓶を覗き込んだときに見える奈落。それがあたし。何もないから、満たされもしない。けど、満たされることなんて永遠にないから、下手な期待もしない。そもそも、何を満たしてほしいのか。そんなことすら分からないくらいに、あたしの心は滅茶苦茶。
この先永遠に、欲しいものなんて示せない。そう思ってた。あの人に会うまでは。
あの日、あたしの棲む峡谷には綺麗な星空が浮かんでいた。あれも取って食べれるのかな。そんなことばっかり考えてた。
そんなときだった。餌を探して歩き回るあたしの視界に、あの人が飛び込んできたのは。それが、あたしの本当の渇きの始まりだったなんて、誰も教えてくれる訳がなかった。
星空が綺麗な夜は、いつもよりお腹が空くから嫌い。あたしはいつもするみたいに、峡谷から足を伸ばして獲物を探し歩くために出掛けた。目ぼしいものなんて特に無いけど、とにかく空腹を満たせるならなんでもいい。
そう思って辺りを見回した時だった。あたしは美味しそうな生き物を見つけ、音を立てないように近づいた。近くで見ると、それはエルフだった。黒い髪をした、細身の男。髪の毛は毟らなきゃ食べれないから、嫌い。頭から齧りたいのに。だから、あたしは腹から臓物を食べることにした。
でも、その前にやらなきゃダメなことがあった。あたしは今すぐ腹にかぶりつきたい気持ちを抑え、口を開けて毒牙を出した。あたしの毒は一撃。夢心地で死ねるの。
「ん……」
毒を差し込もうとした時だった。突然、男が苦しそうに顔を歪めた。あたしは思わず怯んだ。別に、声に怖じ気づいたんじゃない。間近で見た、その人の顔があまりに綺麗だったから。
────食べるなんて、勿体ない。このままずっと、見ていたい。
今まで、食べれそうなものを見たら、何でも美味しそうって思っていたあたしの食欲が止まった。産まれて初めてのことだった。この人なら、あたしを満たしてくれそう。ううん、満たしてくれなきゃダメ。
しばらくあたしが眺めていると、男がうっすらと目を開けた。焔のように赤いのに、氷のように冷たい目をしてた。まるで、エルフの作るガラス細工みたいね。
男はあたしのことを見て、怯えたりはしなかった。むしろこんなことを頼んできた。
「……怪我をしているんだ。治すのに、お前の毒を使うから……刺してくれ」
刺してくれって頼んできたやつなんて、当然だけど今までいない。あたしは何だか怖くなって、逃げ帰ろうとした。だけど、さっきまでは気づかなかった男の深い傷が、あたしの足を引き留めた。
恐る恐る、あたしは男の肩に毒牙を差し込んだ。一瞬だけ苦痛に顔を歪めたけど、男は本当にあたしの毒で回復し始めた。
この人は、エルフじゃない。あたしは咄嗟にそう思った。エルフじゃないのに、エルフの似姿を好き好んで取る奴等なんて……
もしかして、ヴァラール?だとしたら、助けずに食べちゃった方が良かったかも。ヴァラールを食べる機会なんて、もう一生訪れないんだから。
あたしがそんなことを考えているうちに、男はすっかり元気になった。ちぇっ。
「礼を言おう。お前は、誰だ?」
あたしは……と言おうとして、はっとした。あたしの声は、言葉じゃないから届かない。ただ、大きすぎる蜘蛛が口をパクパクしているようにしか見えないはずだ。
「声が出せないのか。一応お前もマイアールなのにな」
その端くれね。またあたしはキーキー音を立てながら、言葉にならない声を叫んだ。この人には、あたしの言いたいことを理解して欲しかった。
「そんなに私に話したいことがあるのか。では助けてくれた礼に、お前に声を授けよう」
声を?本当に?
あたしは嬉しくて、つい飛び上がった。男は失笑しながら、あたしの頭と胴の間に手を触れた。すごく、温かかった。
そして、あたしは貰ったばかりの声を上げた。
「────あ……う……」
「うん、綺麗な声だ」
綺麗?あたしが?本当に?この人は、あたしが怖くないの?
「あたし……ウンゴリアント……ウンゴリアントって……いうの」
「ウンゴリアントと言うのか」
「あんたは……?」
「私か?私は、メルコール。ヴァラールであり、アイヌアの一人だ」
やっぱり、ヴァラールなんだ。だから綺麗なんだ。いいな、綺麗なのって。唐突にあたしは、この人の目の前にこんな姿で現れることを恥ずかしいと感じた。その気持ちに気付いたたみたいに、メルコールって名乗った男はこう言った。
「────お前に、望む姿を授けよう。その代わりに、私のことを手伝ってほしい」
「え……?」
そんなの、取引になってない。あたしにとって、どれも嬉しいこと尽くしじゃない。あんたの隣に居られるなんて。しかも綺麗な醜くない姿で。
もちろん、返事は決まってる。
「────いいよ」
「そうか。では、こちらへ来い。私がお前を生まれ変わらせてやろう」
あたしはメルコールに近寄った。彼の手があたしの頭に触れて、身体中が闇に包まれた。あれ?ヴァラールって、光なんじゃ……?
おかしい。この人はヴァラールでもないかも。あたしは慌てて手から逃れようとしたけど、遅かった。
あたしは地面に崩れ落ちた。思わず両手で地面を掴む。
「あれ……?」
掴むことなんて出来なかったはずなのに。あたしは自分の姿を確かめたくて、立ち上がろうとした。でも、足が四本も足りない。
「あたしに何した!?」
怒りで叫んだあたしを無視して、メルコールは足──じゃなくて手を掴んできた。さっき触れられた時も温かかったけど、今はもっと温かい。柔らかい感触も伝わってくる。美味しそうだ。
メルコールがあたしを引っ張っていったのは、湖だった。夜空の光を受けて輝く水面を、あたしは恐る恐る覗き込んだ。
そこに現れたのは、蜘蛛のウンゴリアントじゃなかった。ちゃんとした醜くない、しかもあたしの想像を遥かに越えた、綺麗な生き物の姿だった。
「エルフ……みたい」
「私はイルーヴァタールの子に似せよと命じただけだ。それはお前自身の美しさだ、ウンゴリアント」
「あたしの……美しさ?」
「ああ。言っただろう?お前の声は綺麗だと。その声に勝る美しさだ」
嬉しかった。あたし、綺麗になれたんだ。もう、化け物なんて呼ばれないんだ。メルコールは満足げに微笑んで、あたしにこう言った。
「さて、本当のことを話そう。私はメルコール。ヴァラールの反逆者だ。これからお前には、私の反逆の手伝いをして欲しい」
「反逆?何に?」
「色々、だな。光が至高の扱いを受けるこの腐れた世界を、ひっくり返して見たくはないか?ウンゴリアント」
あたしは頷いた。大した理由なんてない。ただ、あたしはこの人の隣に居たかっただけだから。
こうして、あたしはメルコールと一心同体の人生を始めた。彼に与えられた新しい身体と共に。
この先永遠に、欲しいものなんて示せない。そう思ってた。あの人に会うまでは。
あの日、あたしの棲む峡谷には綺麗な星空が浮かんでいた。あれも取って食べれるのかな。そんなことばっかり考えてた。
そんなときだった。餌を探して歩き回るあたしの視界に、あの人が飛び込んできたのは。それが、あたしの本当の渇きの始まりだったなんて、誰も教えてくれる訳がなかった。
星空が綺麗な夜は、いつもよりお腹が空くから嫌い。あたしはいつもするみたいに、峡谷から足を伸ばして獲物を探し歩くために出掛けた。目ぼしいものなんて特に無いけど、とにかく空腹を満たせるならなんでもいい。
そう思って辺りを見回した時だった。あたしは美味しそうな生き物を見つけ、音を立てないように近づいた。近くで見ると、それはエルフだった。黒い髪をした、細身の男。髪の毛は毟らなきゃ食べれないから、嫌い。頭から齧りたいのに。だから、あたしは腹から臓物を食べることにした。
でも、その前にやらなきゃダメなことがあった。あたしは今すぐ腹にかぶりつきたい気持ちを抑え、口を開けて毒牙を出した。あたしの毒は一撃。夢心地で死ねるの。
「ん……」
毒を差し込もうとした時だった。突然、男が苦しそうに顔を歪めた。あたしは思わず怯んだ。別に、声に怖じ気づいたんじゃない。間近で見た、その人の顔があまりに綺麗だったから。
────食べるなんて、勿体ない。このままずっと、見ていたい。
今まで、食べれそうなものを見たら、何でも美味しそうって思っていたあたしの食欲が止まった。産まれて初めてのことだった。この人なら、あたしを満たしてくれそう。ううん、満たしてくれなきゃダメ。
しばらくあたしが眺めていると、男がうっすらと目を開けた。焔のように赤いのに、氷のように冷たい目をしてた。まるで、エルフの作るガラス細工みたいね。
男はあたしのことを見て、怯えたりはしなかった。むしろこんなことを頼んできた。
「……怪我をしているんだ。治すのに、お前の毒を使うから……刺してくれ」
刺してくれって頼んできたやつなんて、当然だけど今までいない。あたしは何だか怖くなって、逃げ帰ろうとした。だけど、さっきまでは気づかなかった男の深い傷が、あたしの足を引き留めた。
恐る恐る、あたしは男の肩に毒牙を差し込んだ。一瞬だけ苦痛に顔を歪めたけど、男は本当にあたしの毒で回復し始めた。
この人は、エルフじゃない。あたしは咄嗟にそう思った。エルフじゃないのに、エルフの似姿を好き好んで取る奴等なんて……
もしかして、ヴァラール?だとしたら、助けずに食べちゃった方が良かったかも。ヴァラールを食べる機会なんて、もう一生訪れないんだから。
あたしがそんなことを考えているうちに、男はすっかり元気になった。ちぇっ。
「礼を言おう。お前は、誰だ?」
あたしは……と言おうとして、はっとした。あたしの声は、言葉じゃないから届かない。ただ、大きすぎる蜘蛛が口をパクパクしているようにしか見えないはずだ。
「声が出せないのか。一応お前もマイアールなのにな」
その端くれね。またあたしはキーキー音を立てながら、言葉にならない声を叫んだ。この人には、あたしの言いたいことを理解して欲しかった。
「そんなに私に話したいことがあるのか。では助けてくれた礼に、お前に声を授けよう」
声を?本当に?
あたしは嬉しくて、つい飛び上がった。男は失笑しながら、あたしの頭と胴の間に手を触れた。すごく、温かかった。
そして、あたしは貰ったばかりの声を上げた。
「────あ……う……」
「うん、綺麗な声だ」
綺麗?あたしが?本当に?この人は、あたしが怖くないの?
「あたし……ウンゴリアント……ウンゴリアントって……いうの」
「ウンゴリアントと言うのか」
「あんたは……?」
「私か?私は、メルコール。ヴァラールであり、アイヌアの一人だ」
やっぱり、ヴァラールなんだ。だから綺麗なんだ。いいな、綺麗なのって。唐突にあたしは、この人の目の前にこんな姿で現れることを恥ずかしいと感じた。その気持ちに気付いたたみたいに、メルコールって名乗った男はこう言った。
「────お前に、望む姿を授けよう。その代わりに、私のことを手伝ってほしい」
「え……?」
そんなの、取引になってない。あたしにとって、どれも嬉しいこと尽くしじゃない。あんたの隣に居られるなんて。しかも綺麗な醜くない姿で。
もちろん、返事は決まってる。
「────いいよ」
「そうか。では、こちらへ来い。私がお前を生まれ変わらせてやろう」
あたしはメルコールに近寄った。彼の手があたしの頭に触れて、身体中が闇に包まれた。あれ?ヴァラールって、光なんじゃ……?
おかしい。この人はヴァラールでもないかも。あたしは慌てて手から逃れようとしたけど、遅かった。
あたしは地面に崩れ落ちた。思わず両手で地面を掴む。
「あれ……?」
掴むことなんて出来なかったはずなのに。あたしは自分の姿を確かめたくて、立ち上がろうとした。でも、足が四本も足りない。
「あたしに何した!?」
怒りで叫んだあたしを無視して、メルコールは足──じゃなくて手を掴んできた。さっき触れられた時も温かかったけど、今はもっと温かい。柔らかい感触も伝わってくる。美味しそうだ。
メルコールがあたしを引っ張っていったのは、湖だった。夜空の光を受けて輝く水面を、あたしは恐る恐る覗き込んだ。
そこに現れたのは、蜘蛛のウンゴリアントじゃなかった。ちゃんとした醜くない、しかもあたしの想像を遥かに越えた、綺麗な生き物の姿だった。
「エルフ……みたい」
「私はイルーヴァタールの子に似せよと命じただけだ。それはお前自身の美しさだ、ウンゴリアント」
「あたしの……美しさ?」
「ああ。言っただろう?お前の声は綺麗だと。その声に勝る美しさだ」
嬉しかった。あたし、綺麗になれたんだ。もう、化け物なんて呼ばれないんだ。メルコールは満足げに微笑んで、あたしにこう言った。
「さて、本当のことを話そう。私はメルコール。ヴァラールの反逆者だ。これからお前には、私の反逆の手伝いをして欲しい」
「反逆?何に?」
「色々、だな。光が至高の扱いを受けるこの腐れた世界を、ひっくり返して見たくはないか?ウンゴリアント」
あたしは頷いた。大した理由なんてない。ただ、あたしはこの人の隣に居たかっただけだから。
こうして、あたしはメルコールと一心同体の人生を始めた。彼に与えられた新しい身体と共に。
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