三章、旅の始まり【大幅エクステンデッド処理済】
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荒れ地をしばらく歩いていると、最初の野営地にたどり着いた。トーリンはそれぞれの仲間たちに仕事を割り振り始めた。そして、ネルファンディアの番になったとき、彼は指示する口を突然止めた。
「そなたは……ええと…」
全員の視線がネルファンディアに刺さる。すると、指示を受けるよりも先に彼女は自ら仕事を見つけた。
「皆さんの水筒を出してください。水をくんできます」
トーリンは出鼻をくじかれた気がして一瞬怯んだが、すぐに真顔に戻って水筒を出すように指示した。
「荒れ地では、飲める水と飲めない水の区別が必要です。少なくともこの近くの川はいけません」
「大丈夫!私は水の使い手なので」
全員分の水筒を抱えて、元気よくバーリンに返事をして、ネルファンディアが歩き出した。すると隣に、ホビットのビルボがやって来た。
「あー、あの……」
「さっきはありがとうね。ホビットのビルボ・バキンズさんだったかしら?」
「そう。そうです。ビルボです」
親切なホビットは水筒を半分持ってやると、ネルファンディアの後ろをついていった。微笑ましい光景だが、トーリンは面白くなさそうにしている。
「……トーリン。何かお気に召さないことでもあるのですか?」
「────別に!何もない。早く食事の支度をしろ、バーリン」
バーリンとドワーリンは、どこかへ行ってしまったトーリンのことがさっぱり分からず、顔を見合わせて肩をすくめた。すると、弓の手入れをしているキーリが笑いだした。
「何が面白いんだ。トーリンの機嫌が悪いのは大問題だ」
「今に始まったことではないがな、弟よ」
「二人とも分かっていないなぁ。叔父上は、ネルファンディアとビルボが親しげに話をしているのが腹立たしいんですよ」
「……はぁ?」
ドワーリンは思いもよらない理由に目を丸くしている。バーリンの方は、なんだそんなことかと言いたげに納得している。彼と共に調理を担当していたボフールは、食事が早く出来上がらないかと鍋を覗き込んでいるボンブールに尋ねた。
「なぁ、ボンブール。お前が一番女心に詳しそうだから聞くけど、トーリンみたいなタイプって問題だよな?」
ドワーフの間では色男として知られているボンブールは、辺りを見回して当事者がいないことを確かめてから頷いた。
「大体、叔父上は重すぎるんです。俺ならもっとフレンドリーに……」
「しーっ!戻ってきたぞ」
キーリは慌てて口を閉じた。他の者たちも何事もなかったかのように各自の仕事を再開させた。
「……どうした。お前たちにしては随分静かだな」
「み、みんな疲れているみたいです……」
「そ、そうだな!」
上手く言い訳を考えたオーリを、ボフールが耳許でよくやったと褒めた。鈍感なトーリンは何度か小さくうなずくと、そのまま石の上に腰かけた。
見ている限りでは面白いが、巻き込まれると厄介な問題が始まった。このときは誰もがトーリンの恋をそう受け取っているのだった。
ネルファンディアは一つ目の川を見つけ、目を凝らした。ビルボは試しに水を舐めてみて、直後に不味さに飛び上がった。
「だめだめ!これはだめ!とても飲めたもんじゃない」
だがビルボの制止も聞かず、ネルファンディアは鍋に水を汲み始めた。そして雑草を数種類と石灰石らしきものを取ってから、彼に戻ろうと言った。もちろんビルボは反対しようとしたが、既に彼女は野営地へと歩き出していた。渋々ついて行ったホビットは、トーリンのげんこつを食らうことを覚悟して歯をくいしばるのだった。
戻ってきたネルファンディアは、こんなに早いはずがないといった内容の野次を横に流しながら、荷物から布を取り出して何かを作り始めた。トーリンも興味津々に眺めている。
先程とってきた雑草を石で潰して混ぜ合わせ、石も砕いて共に和えると、ネルファンディアは何層かに折った布の一層ずつにそれらを薄く伸ばした。そして水筒の口に布を当て、ゆっくりと鍋の水を流し始める。すべて注ぎ終わると、彼女は笑顔でビルボに水筒を差し出した。飲めということなのだろうが、あまりに唐突すぎて彼はためらった。だからネルファンディアは自分の水筒にも布を通して注いだ水を入れ、皆が見守るなかで先に飲んだ。それでもまだビルボは飲もうとしない。
「大丈夫よ。ほら、飲んでみて」
「え……あぁ、いや……その……」
すると、業を煮やしたトーリンが自分の水筒を拾って彼女に突きつけた。
「……飲めるかどうか、やってみよう」
「トーリン!いけません。ひょっとしたら腹を壊すやもしれませんぞ!」
「問題ない」
ネルファンディアはトーリンと、止めに入ったドワーリンを交互に見ている。押しきったトーリンの圧勝だった。ドワーリンは彼女を睨み付け、どすの効いた声で言った。
「……万が一トーリンが不調をもよおしたら、お前を白の偏屈魔法使いの元に突き返してやる」
「どうぞ。でも一つだけ訂正しておくわ。私の父は偏屈じゃないから」
彼の凄みに言い返すことのできる者は、ドワーフの中でも珍しかった。ネルファンディアはトーリンから水筒を受けとると、同じように水を注いだ。一瞬ためらいはしたが、彼はその水を一思いに飲んだ。驚いたことに口の中に広がったのは、純粋な霧降山脈の雪解け水の味だった。皆が見守るなか、彼は深く頷いた。
「……飲める」
ビルボもそれを聞いてほっと胸を撫で下ろし、ようやく自分の水筒に口をつけた。確かに先程味見した水とは全く別物だった。彼は興味本意でネルファンディアに尋ねてみた。
「ねぇ、あれを一体どうやって飲み水に?」
「父に教わったの。この薬草たちと一緒に石灰性の石を砕いて混ぜ合わせたものを、布に薄く塗って何層にも重ねればろ過と同じ効果が得られるって」
「だが!ろ過しても煮沸するべきだ!」
ドワーリンの最もらしい言葉に、ドワーフたちは頷いた。けれどネルファンディアは嬉しそうに笑うと、潰さずにとっておいた草を並べて説明し始めた。
「これは雑味を取ってくれるハーブ。こっちは石灰と同じように汚れを吸着してくれるの。それから……この薬草が一番大切なの。消毒作用があって、傷にも効く。アセラス──王の葉として知られているものの代用品よ」
「王の葉の代用品?そんなものがあるのか?」
薬草辞典顔負けの知識量に、医者のオインが興味を示した。ネルファンディアは話が合いそうな者をみつけて大喜びすると、更に説明を続けた。
「そうなの!あるの!私が父と一緒に見つけたんだけど、これはどこにでも生えている草だから、応急処置に役立つわ。大きな手当てには、血止め草と一緒に使わないと厳しいけど」
「わかった!とりあえず飲めるのか?」
話が長引きそうな二人の間にはいって、ドワーリンが声をあらげた。
「もちろん!良ければあなたの水筒にも入れますよ、ドワーリン殿」
ドワーリンはこめかみに青筋を立てつつも、黙って自分の水筒を指差した。ネルファンディアは嫌な顔一つせず、同じように水を注いで彼に渡した。もちろん、笑顔も添えて。
「はい、どうぞ」
ネルファンディアは果たして、この微妙な空気に気づいているのか。誰もが疑問に思った。魔法使いの娘は全員分の水を配り終えると、荷物の整理を始めた。すかさずトーリンが再び隣にやって来る。
「……そなたは、不思議な娘だな」
「そうかしら?父が色々教えてくれるの。役に立ったことなんて一度もなかったけど、この旅でたくさん使えそうで安心したわ!」
嬉しそうに笑うネルファンディアのことを、トーリンは愛しさを込めた眼差しで見た。彼が何か会話を続けようとしたときだった。向こうの方でボフールとグローインが喧嘩を始めた。トーリンは顔をしかめると、大股で二人のもとへ歩きはじめた。ネルファンディアもその後ろをついていく。
「味が薄い!肉なのにこんな臭いの食べれるか!スパイスはないのか?」
「そんなに文句をいうなら自分で作らんか、グローイン」
「バーリン!こっちは腹ペコなんだ!」
そうだそうだと他のドワーフたちも便乗し始める。トーリンは牽制する機会を失って途方にくれた。するとネルファンディアは静かに鍋の方へ近づき、スープの味見をした。食べれないことはないが、確かに臭みがある。
「……みんな、ちょっと待っててね」
彼女はそういうと、辺りを見回した。その視線が食用かどうかもわからない実が付いた木で止まる。全員が何をする気かと口々に噂し合っている間に、ネルファンディアは慣れた身のこなしで木に上って実を摘んで、再びドワーフ達のもとへ戻ってきた。実を布で挟んで石で潰すと、彼女はボフールの顔の前にそれを差し出した。
「みて、これなら使えるかしら?」
「ええと……」
「確かに、スパイスには見えますな」
バーリンはそう言うと、試しに指先に木の実の粉を付けて香りを嗅いだ。一度吸っただけで、彼はそれがスパイスの代用品に向いていると悟った。
「……スパイスですな」
「本当か?ちょっと俺にも嗅がせてくれ」
さすがに半信半疑のボフールも、バーリンの指先についている粉を匂った。反応は記すまでもないだろう。
「すげぇ!本当にスパイスだ!あんた最高だな!」
「これは、ローハンの兵士たちが遠征の際に使う調理法なの。生肉にまぶしておいたら、煮なくてもローストで食べれるわよ」
ドワーフたちはその言葉にすっかり大喜びした。ドワーリンも心なしか口許を緩めているように見える。
その光景を見ながら、ネルファンディアは密かに胸を撫で下ろしていた。自分がドワーフたちに受け入れられ難いことは薄々気づいていた。実は出発の直前に、ガンダルフが彼女を引き留めて助言をしていた。
『ドワーフは他種族のよそ者を好まんものがほとんど。じゃが、いくつか気に入られる方法はある。それは財宝か力、あるいは美味い食事を提供すること』
確かに当たっている。ネルファンディアは遠い荒れ野の地で、ガンダルフに人生一番の感謝を送った。
トーリンはそんな彼女の横顔を、遠目からずっと眺めていた。するとボフールが気を遣って、スープの碗を二杯分差し出した。目を丸くしているトーリンに、彼は笑いながら言った。
「ネルファンディア殿に、持っていって頂いても?」
トーリンは何も言わず、ボフールの肩を優しく叩いてから碗を受け取ると、出来るだけ早く歩いてネルファンディアの元へ向かった。美味しそうなスープの匂いに振り返った彼女は、王子が自分の食事を直々に持ってきたことに驚いた。
「……隣、構わぬか?」
「え、ええ。どうぞ」
ネルファンディアはスープを受け取って座った。無言が続く。とにかく何か会話をしなければと思い立ち、彼女は咄嗟にトーリンが身に付けている指輪を指して褒めた。
「素敵な指輪ね」
「これか?あぁ、ありがとう」
トーリンは自分の右手の中指にはめている指輪を見ながら、遠い記憶を想起するように話し始めた。
「これは、ドゥリンの一族であることを示す指輪だ。アーケン石が無き今、私の身分を証明し、王子足らしめる唯一のもの」
「へぇ……ねぇ、アーケン石って?」
「山の大御霊と呼ばれている、聖なる石だ。雪のように白く、七色に光る王の石……」
白が七色に光るとは、どういう状況なのか。ネルファンディアが必死に頭の中でアーケン石を想像する姿を見て、トーリンはくすりと笑った。
「そなたのような、美しい石ということだ」
「────え?」
ネルファンディアは目が点になった。そして言葉を反芻して意味を悟ると、スープを自分の膝にぶちまけそうになる。慌てて碗を持ち直すと、彼女はどう返事すべきかを考えた。後ろの方では、キーリが既に失笑している。兄のフィーリも吹き出しそうなのをこらえている。
「叔父上、焦ってますね」
「ああ。あんなトーリンが見られるのは、恐らくこれが人生最初で最後だろうな」
もちろんトーリンに、この会話は聞こえていない。だが彼自身も奇怪なことを言ってしまったと焦っていた。だから慌てて訂正した。
「あ……その……つい変なことを────」
ネルファンディアはそんな戸惑うトーリンが可笑しくて、返事を考えることも忘れてつい笑ってしまった。先程までぎこちなかったはずの空気が、見違えるように柔らかくなっていく。
「あなたって、やっぱり面白い方ですね」
トーリンはその言葉に眉を潜め、スプーンで碗の底をすくい始めた。そして、呟くようにこう言った。
「……その話し方は、好かん」
「何がですか?」
「それだ!その言い方だ。何故私には普通に接してくれない。私はそなたの、誰にも分け隔てなく接する姿が……」
好きと言いかけて、トーリンはすぐさま別の語を探そうと思考を巡らせた。
「……良いと思ったのに」
いささか拗ねた子供のように聞こえるが、まだ受け取られ方はましだと思った。ネルファンディアは少し考えると、大きく澄んだ瞳でドワーフの王子を見つめた。
「────本当に、いいの?」
「ああ」
「無礼だからって、ドワーリン殿に命じてお手打ちにしないで下さいね」
「もちろん」
離れたところで食事をとっていたドワーリンが吹き出す。兄のバーリンは楽しそうに微笑んでいる。
「あのお嬢さんは、ユーモアのセンスもお持ちのようじゃな」
「全く……」
二人はちらりと、自分の主君を見た。その表情は、今まで見せたこともない程に明るく幸せに満ちていた。
「苦労続きのトーリンしか知らぬ我らにとって、あの笑顔を引き出すことのできるネルファンディア殿は、素晴らしい存在なのかも知れんな」
「もちろん、弟よ。あの方にしか出来ぬことじゃろう」
二人が見守るなか、夜が近づいてくる。見張りの時間が来るまで、ネルファンディアとトーリンは談笑を楽しむのだった。
見張りはくじ引きで決めることになった。ボフールの帽子に入れられたくじを一斉に引いて、ネルファンディアはみごと一番最初の見張りになってしまった。彼女をサポートするのに、誰をペアとするか。一同の空気が張り詰める。
「ここは、公平にくじ引きと行こうではないか」
あくまでも私情を挟もうとはしないトーリンが健気に思え、ボフールは "当たり" くじを咄嗟にポケットに隠した。そしてトーリンが最後になるように、上手く帽子を回し始めた。
トーリン以外の全員が、くじが一つ足りないことに気づいていた。だが同時に、その意図にも気づいていた。だから誰も何も言わずに、黙ってくじを回した。
そして、いよいよトーリンの番となる前にボフールはこっそりくじを戻して差し出した。
「……選びようがないではないか」
「恨みっこなしですからね?」
トーリンは仲間の企みも知らず、ため息をつきながら最後のくじを引いた。そして全員が一斉にくじを開く。
「あぁ!!外れだ!」
「俺も。外れだ」
「みんな外れなのか?」
わざとらしい演技で、全員が口々に結果を言い合いながらトーリンの方を向いた。彼は黙ってくじを見つめているが、その口許は確かに緩んでいる。
「……私だ」
「よし!決まりだ!ネルファンディア、あんたの見張りのお供はトーリンだぜ」
「あら、宜しくね」
存外淡白な返事にいささかふてくされたが、それでもトーリンの心は晴れ晴れとしていた。これほどに見張りの時間が早く来てほしいと願ったことはなかった。
彼はプレゼントを待つ子供のように、そわそわしながら既に定位置についていた。一方、ネルファンディアの方は初めての見張りに緊張を覚えていた。そんな彼女に声をかけたのは、意外にもドワーリンだった。彼は斧の手入れをしながら、相手の方を見ずに言った。
「大丈夫だ。あんたがどれくらい腕が立つのかは分からんが、しっかりトーリンが守ってくれるだろう」
「どうして?あの人ばかりに迷惑はかけられないわ」
その言葉に、ドワーリンはネルファンディアの方を見た。初めてきちんと顔を見た彼は、表情にあどけなさこそ残っているものの、毅然とした芯の強さと決断力のある瞳に驚いた。
なるほど。我が主君は、ただ美しいが故に惹かれたのではなかったのだな。
「さ、そろそろ行け。トーリンがお待ちかねだ」
「ありがとう、ドワーリン殿」
ネルファンディアは春の空気のように暖かな笑みを投げ掛けると、軽やかな足取りで杖と剣を持ってトーリンの隣へ駆けていった。その背中を見ながら、ドワーリンは僅かに微笑みを浮かべるのだった。
見張りにつく頃には、既に夜空には一面の星が広がっていた。
「わぁ……」
「星を見るのは初めてではないだろう?」
「ええ。でも山の空気は澄んでいて冷たいから、アイゼンガルドで見るのとはちょっと違うわ」
「……そうか」
瞳を輝かせて星を見ているネルファンディアの横顔を見て、トーリンはその奥にどんな思い出を隠しているのかを知りたくなった。そこで彼は、まずアイゼンガルドのことについて聞いてみることにした。
「そなたの故郷、アイゼンガルドとはどのような場所なのだ?」
ネルファンディアは目を閉じて、アイゼンガルドの景色を辿り始めた。
「ローハンの平原を抜けて、大きなファンゴルンの森を南に下っていくの。そうすれば開けた場所に出てくる。入り口には石でできたアーチ状の城壁と門があって、その中にはすり鉢状の庭が広がってる」
息を吸えば、咲き乱れる花々の香りが感じられる。ネルファンディアは両親と共に手を繋いで歩いた庭のことを思い出しながら続けた。
「庭には果樹と花がたくさん植えてあって、季節それぞれに咲く植物が植えられているの。池もあって、小さな小川もあるわ」
「随分自然豊かな場所なのだな」
「ええ。夜には一面の星空が広がって、家の塔の最上階にある展望台から見るのがとても綺麗なの」
それを聞いて、トーリンは目を丸くした。
「そなたの家は、城か何かなのか?」
「いいえ。ゴンドールからお借りしているオルサンクの塔なの。黒曜石で出来た、ほぼ天然の要塞よ。エレボールには敵わないと思うけどね」
故郷の話を聞いて、トーリンはネルファンディアが伸び伸びと自然に恵まれた環境に育ったことを知った。更に彼女はファンゴルンの森のことも話した。
「森にはエント族がいるの」
「エント?何だそれは」
「木の姿をしている……そうね、木が生きてるの。ファンゴルンの森の木は生きてる。お話だって出来るし、肩に乗せてもらって散歩することも出来るわ」
まだ見ぬアイゼンガルドの話に、トーリンはいつの間にかすっかり魅せられていた。いや、正確にはそれを楽しそうに話しているネルファンディアに魅せられていた。彼は何となく家族のことについて聞いてみたくなって、試しに尋ねてみた。
「そなたの両親は、どんな人なのだ?」
「両親?」
その話が気になっていたのか、バーリンも薪を追加するついでに話に加わった。
「お父上は、どのようなお方で?」
「父は、とても優しい人よ。いつも厳格で威厳ある方だけど、本当は皆と何一つ変わらないわ。歌と自然と、美味しい食事が大好きなの」
「ドワーフ語はお父上に習ったと言っていたな」
ネルファンディアは頷いて、自分が他に習ったことを思い出し始めた。
「他にはシンダール語、エルフ語、北方の諸言語……それから、黒の言葉も知っているわ」
「黒の言葉って?」
寝入り支度をしていたビルボが、素直な疑問を投げつけた。ネルファンディアがやや躊躇ってから答える。
「……かつて、と言っても私の幼い頃だけれど、闇が世界を支配していたときの言葉。暗黒語とも言うわ」
彼女の瞳にわずかな影が射した。トーリンは幼い頃という言葉に引っ掛かった。
「……それは中つ国の第二紀に起きた出来事であろう。そなたはまだ見たところ、20にも満たないと思うが──」
ネルファンディアは薪の位置を変えながら、不思議がるトーリンに平然と言った。
「ええ。見た目はね」
「……え?」
「私、今年で3941歳なの」
「なっ────」
これには流石の寝入りかけだった、他の仲間たちも飛び起きて耳を疑った。トーリンに至っては、開いた口が塞がらない間抜け顔を浮かべている。
「だから、私の方がここにいる誰よりも人生の先輩ってこと。ま、そんなことで威張ったりはしないけどね」
「ま、待て。そなたの寿命はいつ頃になる予定なのだ?」
トーリンが投げ掛けた興味深い質問に、ネルファンディアは上を向いて考えた。
「わからない。でも、確かに言えることはあるわ。今すぐ刺されたりしなければ、ここにいる誰よりも一番長生きするってこと」
トーリンは苦笑いした。自分よりもとんでもなく年上の女性に、今まで年長者を気取っていたというのか。強烈に恥ずかしい思いに駈られる。
ショックを受けているトーリンを置いて、バーリンが先程の会話を続けた。
「では、お母上は?あの賢者サルマン殿がお心を決められた方なのですし、あなたもお美しい。きっとさぞ綺麗な方なのでしょうな」
ネルファンディアは母という言葉を聞いて、懐かしさに目を細めた。自分が失った故郷や家族との思い出を振り返るときと同じその反応に、トーリンは全てを察した。
「ええ、そうだったと……思う。もう、どんな顔だったのかも忘れてしまったわ。声だけがたまに過ることがあるけれど、朧気で……」
バーリンはネルファンディアの返事を聞いて、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「お許しを。余計な愚問で、辛いことを思い出させてしまいましたな……」
「いいえ、いいの。私こそ、きちんと覚えていなくてごめんなさいね。まだ人間でいうところの6歳くらいだったから」
それを聞いて、トーリンがため息交じりに言った。
「……私が母を失ったときよりも、まだ幼かったのだな」
「あなたも、お母様を?」
「ああ。妹を産み、すぐに亡くなった」
沈黙が続いた。会話が尽きたとき、いつも何か話題を探すのはネルファンディアの役目だった。だが、今回は珍しくトーリンの方から話を続けてきた。
「だが、そなたは立派だ。いつも笑顔を忘れず、前向きに生きている。その笑顔は、きっと皆を幸せをもたらすことだろう」
「じゃあ私が笑っていたら、トラブルなくエレボールに着けるかしら?」
その冗談に、トーリンが僅かに目尻を下げて笑った。その後は、焚き火の木がはぜる音だけが野営地に響き続けた。堪えきれなくなったネルファンディアが、両手で口を覆いながらあくびをした。トーリンの意識は依然と冴えており、眠たそうなネルファンディアの頬を枝で突っついて遊んでいる。
「……楽しい?」
「ああ。暇潰しには丁度良い」
「私も、眠気覚ましにはちょうど良いわ」
二人は顔を見合わせ、笑った。そんな風に見張りを楽しんでいると、交代の時間がやって来た。流石の二人も、既に瞼が引っ付きそうな顔をしている。次の見張りに当たっているキーリは、トーリンとのすれ違い様に小声で尋ねた。
「叔父上、如何でしたか?」
「……何がだ」
「いえ、何でも。お顔が随分と幸せそうなので」
「そなたは全く……」
けらけらと笑うキーリにあきれながらも、トーリンは自分の頬を叩いた。
────気を引き締めねば。私には皆を導く責任があるのだから。
けれどその口許は終始、ネルファンディアとの一時の思い出に浸りながら緩んだままだった。そして彼女もまた、この旅の一員に成れたことを、微睡みながらも幸せだと思うのだった。
「そなたは……ええと…」
全員の視線がネルファンディアに刺さる。すると、指示を受けるよりも先に彼女は自ら仕事を見つけた。
「皆さんの水筒を出してください。水をくんできます」
トーリンは出鼻をくじかれた気がして一瞬怯んだが、すぐに真顔に戻って水筒を出すように指示した。
「荒れ地では、飲める水と飲めない水の区別が必要です。少なくともこの近くの川はいけません」
「大丈夫!私は水の使い手なので」
全員分の水筒を抱えて、元気よくバーリンに返事をして、ネルファンディアが歩き出した。すると隣に、ホビットのビルボがやって来た。
「あー、あの……」
「さっきはありがとうね。ホビットのビルボ・バキンズさんだったかしら?」
「そう。そうです。ビルボです」
親切なホビットは水筒を半分持ってやると、ネルファンディアの後ろをついていった。微笑ましい光景だが、トーリンは面白くなさそうにしている。
「……トーリン。何かお気に召さないことでもあるのですか?」
「────別に!何もない。早く食事の支度をしろ、バーリン」
バーリンとドワーリンは、どこかへ行ってしまったトーリンのことがさっぱり分からず、顔を見合わせて肩をすくめた。すると、弓の手入れをしているキーリが笑いだした。
「何が面白いんだ。トーリンの機嫌が悪いのは大問題だ」
「今に始まったことではないがな、弟よ」
「二人とも分かっていないなぁ。叔父上は、ネルファンディアとビルボが親しげに話をしているのが腹立たしいんですよ」
「……はぁ?」
ドワーリンは思いもよらない理由に目を丸くしている。バーリンの方は、なんだそんなことかと言いたげに納得している。彼と共に調理を担当していたボフールは、食事が早く出来上がらないかと鍋を覗き込んでいるボンブールに尋ねた。
「なぁ、ボンブール。お前が一番女心に詳しそうだから聞くけど、トーリンみたいなタイプって問題だよな?」
ドワーフの間では色男として知られているボンブールは、辺りを見回して当事者がいないことを確かめてから頷いた。
「大体、叔父上は重すぎるんです。俺ならもっとフレンドリーに……」
「しーっ!戻ってきたぞ」
キーリは慌てて口を閉じた。他の者たちも何事もなかったかのように各自の仕事を再開させた。
「……どうした。お前たちにしては随分静かだな」
「み、みんな疲れているみたいです……」
「そ、そうだな!」
上手く言い訳を考えたオーリを、ボフールが耳許でよくやったと褒めた。鈍感なトーリンは何度か小さくうなずくと、そのまま石の上に腰かけた。
見ている限りでは面白いが、巻き込まれると厄介な問題が始まった。このときは誰もがトーリンの恋をそう受け取っているのだった。
ネルファンディアは一つ目の川を見つけ、目を凝らした。ビルボは試しに水を舐めてみて、直後に不味さに飛び上がった。
「だめだめ!これはだめ!とても飲めたもんじゃない」
だがビルボの制止も聞かず、ネルファンディアは鍋に水を汲み始めた。そして雑草を数種類と石灰石らしきものを取ってから、彼に戻ろうと言った。もちろんビルボは反対しようとしたが、既に彼女は野営地へと歩き出していた。渋々ついて行ったホビットは、トーリンのげんこつを食らうことを覚悟して歯をくいしばるのだった。
戻ってきたネルファンディアは、こんなに早いはずがないといった内容の野次を横に流しながら、荷物から布を取り出して何かを作り始めた。トーリンも興味津々に眺めている。
先程とってきた雑草を石で潰して混ぜ合わせ、石も砕いて共に和えると、ネルファンディアは何層かに折った布の一層ずつにそれらを薄く伸ばした。そして水筒の口に布を当て、ゆっくりと鍋の水を流し始める。すべて注ぎ終わると、彼女は笑顔でビルボに水筒を差し出した。飲めということなのだろうが、あまりに唐突すぎて彼はためらった。だからネルファンディアは自分の水筒にも布を通して注いだ水を入れ、皆が見守るなかで先に飲んだ。それでもまだビルボは飲もうとしない。
「大丈夫よ。ほら、飲んでみて」
「え……あぁ、いや……その……」
すると、業を煮やしたトーリンが自分の水筒を拾って彼女に突きつけた。
「……飲めるかどうか、やってみよう」
「トーリン!いけません。ひょっとしたら腹を壊すやもしれませんぞ!」
「問題ない」
ネルファンディアはトーリンと、止めに入ったドワーリンを交互に見ている。押しきったトーリンの圧勝だった。ドワーリンは彼女を睨み付け、どすの効いた声で言った。
「……万が一トーリンが不調をもよおしたら、お前を白の偏屈魔法使いの元に突き返してやる」
「どうぞ。でも一つだけ訂正しておくわ。私の父は偏屈じゃないから」
彼の凄みに言い返すことのできる者は、ドワーフの中でも珍しかった。ネルファンディアはトーリンから水筒を受けとると、同じように水を注いだ。一瞬ためらいはしたが、彼はその水を一思いに飲んだ。驚いたことに口の中に広がったのは、純粋な霧降山脈の雪解け水の味だった。皆が見守るなか、彼は深く頷いた。
「……飲める」
ビルボもそれを聞いてほっと胸を撫で下ろし、ようやく自分の水筒に口をつけた。確かに先程味見した水とは全く別物だった。彼は興味本意でネルファンディアに尋ねてみた。
「ねぇ、あれを一体どうやって飲み水に?」
「父に教わったの。この薬草たちと一緒に石灰性の石を砕いて混ぜ合わせたものを、布に薄く塗って何層にも重ねればろ過と同じ効果が得られるって」
「だが!ろ過しても煮沸するべきだ!」
ドワーリンの最もらしい言葉に、ドワーフたちは頷いた。けれどネルファンディアは嬉しそうに笑うと、潰さずにとっておいた草を並べて説明し始めた。
「これは雑味を取ってくれるハーブ。こっちは石灰と同じように汚れを吸着してくれるの。それから……この薬草が一番大切なの。消毒作用があって、傷にも効く。アセラス──王の葉として知られているものの代用品よ」
「王の葉の代用品?そんなものがあるのか?」
薬草辞典顔負けの知識量に、医者のオインが興味を示した。ネルファンディアは話が合いそうな者をみつけて大喜びすると、更に説明を続けた。
「そうなの!あるの!私が父と一緒に見つけたんだけど、これはどこにでも生えている草だから、応急処置に役立つわ。大きな手当てには、血止め草と一緒に使わないと厳しいけど」
「わかった!とりあえず飲めるのか?」
話が長引きそうな二人の間にはいって、ドワーリンが声をあらげた。
「もちろん!良ければあなたの水筒にも入れますよ、ドワーリン殿」
ドワーリンはこめかみに青筋を立てつつも、黙って自分の水筒を指差した。ネルファンディアは嫌な顔一つせず、同じように水を注いで彼に渡した。もちろん、笑顔も添えて。
「はい、どうぞ」
ネルファンディアは果たして、この微妙な空気に気づいているのか。誰もが疑問に思った。魔法使いの娘は全員分の水を配り終えると、荷物の整理を始めた。すかさずトーリンが再び隣にやって来る。
「……そなたは、不思議な娘だな」
「そうかしら?父が色々教えてくれるの。役に立ったことなんて一度もなかったけど、この旅でたくさん使えそうで安心したわ!」
嬉しそうに笑うネルファンディアのことを、トーリンは愛しさを込めた眼差しで見た。彼が何か会話を続けようとしたときだった。向こうの方でボフールとグローインが喧嘩を始めた。トーリンは顔をしかめると、大股で二人のもとへ歩きはじめた。ネルファンディアもその後ろをついていく。
「味が薄い!肉なのにこんな臭いの食べれるか!スパイスはないのか?」
「そんなに文句をいうなら自分で作らんか、グローイン」
「バーリン!こっちは腹ペコなんだ!」
そうだそうだと他のドワーフたちも便乗し始める。トーリンは牽制する機会を失って途方にくれた。するとネルファンディアは静かに鍋の方へ近づき、スープの味見をした。食べれないことはないが、確かに臭みがある。
「……みんな、ちょっと待っててね」
彼女はそういうと、辺りを見回した。その視線が食用かどうかもわからない実が付いた木で止まる。全員が何をする気かと口々に噂し合っている間に、ネルファンディアは慣れた身のこなしで木に上って実を摘んで、再びドワーフ達のもとへ戻ってきた。実を布で挟んで石で潰すと、彼女はボフールの顔の前にそれを差し出した。
「みて、これなら使えるかしら?」
「ええと……」
「確かに、スパイスには見えますな」
バーリンはそう言うと、試しに指先に木の実の粉を付けて香りを嗅いだ。一度吸っただけで、彼はそれがスパイスの代用品に向いていると悟った。
「……スパイスですな」
「本当か?ちょっと俺にも嗅がせてくれ」
さすがに半信半疑のボフールも、バーリンの指先についている粉を匂った。反応は記すまでもないだろう。
「すげぇ!本当にスパイスだ!あんた最高だな!」
「これは、ローハンの兵士たちが遠征の際に使う調理法なの。生肉にまぶしておいたら、煮なくてもローストで食べれるわよ」
ドワーフたちはその言葉にすっかり大喜びした。ドワーリンも心なしか口許を緩めているように見える。
その光景を見ながら、ネルファンディアは密かに胸を撫で下ろしていた。自分がドワーフたちに受け入れられ難いことは薄々気づいていた。実は出発の直前に、ガンダルフが彼女を引き留めて助言をしていた。
『ドワーフは他種族のよそ者を好まんものがほとんど。じゃが、いくつか気に入られる方法はある。それは財宝か力、あるいは美味い食事を提供すること』
確かに当たっている。ネルファンディアは遠い荒れ野の地で、ガンダルフに人生一番の感謝を送った。
トーリンはそんな彼女の横顔を、遠目からずっと眺めていた。するとボフールが気を遣って、スープの碗を二杯分差し出した。目を丸くしているトーリンに、彼は笑いながら言った。
「ネルファンディア殿に、持っていって頂いても?」
トーリンは何も言わず、ボフールの肩を優しく叩いてから碗を受け取ると、出来るだけ早く歩いてネルファンディアの元へ向かった。美味しそうなスープの匂いに振り返った彼女は、王子が自分の食事を直々に持ってきたことに驚いた。
「……隣、構わぬか?」
「え、ええ。どうぞ」
ネルファンディアはスープを受け取って座った。無言が続く。とにかく何か会話をしなければと思い立ち、彼女は咄嗟にトーリンが身に付けている指輪を指して褒めた。
「素敵な指輪ね」
「これか?あぁ、ありがとう」
トーリンは自分の右手の中指にはめている指輪を見ながら、遠い記憶を想起するように話し始めた。
「これは、ドゥリンの一族であることを示す指輪だ。アーケン石が無き今、私の身分を証明し、王子足らしめる唯一のもの」
「へぇ……ねぇ、アーケン石って?」
「山の大御霊と呼ばれている、聖なる石だ。雪のように白く、七色に光る王の石……」
白が七色に光るとは、どういう状況なのか。ネルファンディアが必死に頭の中でアーケン石を想像する姿を見て、トーリンはくすりと笑った。
「そなたのような、美しい石ということだ」
「────え?」
ネルファンディアは目が点になった。そして言葉を反芻して意味を悟ると、スープを自分の膝にぶちまけそうになる。慌てて碗を持ち直すと、彼女はどう返事すべきかを考えた。後ろの方では、キーリが既に失笑している。兄のフィーリも吹き出しそうなのをこらえている。
「叔父上、焦ってますね」
「ああ。あんなトーリンが見られるのは、恐らくこれが人生最初で最後だろうな」
もちろんトーリンに、この会話は聞こえていない。だが彼自身も奇怪なことを言ってしまったと焦っていた。だから慌てて訂正した。
「あ……その……つい変なことを────」
ネルファンディアはそんな戸惑うトーリンが可笑しくて、返事を考えることも忘れてつい笑ってしまった。先程までぎこちなかったはずの空気が、見違えるように柔らかくなっていく。
「あなたって、やっぱり面白い方ですね」
トーリンはその言葉に眉を潜め、スプーンで碗の底をすくい始めた。そして、呟くようにこう言った。
「……その話し方は、好かん」
「何がですか?」
「それだ!その言い方だ。何故私には普通に接してくれない。私はそなたの、誰にも分け隔てなく接する姿が……」
好きと言いかけて、トーリンはすぐさま別の語を探そうと思考を巡らせた。
「……良いと思ったのに」
いささか拗ねた子供のように聞こえるが、まだ受け取られ方はましだと思った。ネルファンディアは少し考えると、大きく澄んだ瞳でドワーフの王子を見つめた。
「────本当に、いいの?」
「ああ」
「無礼だからって、ドワーリン殿に命じてお手打ちにしないで下さいね」
「もちろん」
離れたところで食事をとっていたドワーリンが吹き出す。兄のバーリンは楽しそうに微笑んでいる。
「あのお嬢さんは、ユーモアのセンスもお持ちのようじゃな」
「全く……」
二人はちらりと、自分の主君を見た。その表情は、今まで見せたこともない程に明るく幸せに満ちていた。
「苦労続きのトーリンしか知らぬ我らにとって、あの笑顔を引き出すことのできるネルファンディア殿は、素晴らしい存在なのかも知れんな」
「もちろん、弟よ。あの方にしか出来ぬことじゃろう」
二人が見守るなか、夜が近づいてくる。見張りの時間が来るまで、ネルファンディアとトーリンは談笑を楽しむのだった。
見張りはくじ引きで決めることになった。ボフールの帽子に入れられたくじを一斉に引いて、ネルファンディアはみごと一番最初の見張りになってしまった。彼女をサポートするのに、誰をペアとするか。一同の空気が張り詰める。
「ここは、公平にくじ引きと行こうではないか」
あくまでも私情を挟もうとはしないトーリンが健気に思え、ボフールは "当たり" くじを咄嗟にポケットに隠した。そしてトーリンが最後になるように、上手く帽子を回し始めた。
トーリン以外の全員が、くじが一つ足りないことに気づいていた。だが同時に、その意図にも気づいていた。だから誰も何も言わずに、黙ってくじを回した。
そして、いよいよトーリンの番となる前にボフールはこっそりくじを戻して差し出した。
「……選びようがないではないか」
「恨みっこなしですからね?」
トーリンは仲間の企みも知らず、ため息をつきながら最後のくじを引いた。そして全員が一斉にくじを開く。
「あぁ!!外れだ!」
「俺も。外れだ」
「みんな外れなのか?」
わざとらしい演技で、全員が口々に結果を言い合いながらトーリンの方を向いた。彼は黙ってくじを見つめているが、その口許は確かに緩んでいる。
「……私だ」
「よし!決まりだ!ネルファンディア、あんたの見張りのお供はトーリンだぜ」
「あら、宜しくね」
存外淡白な返事にいささかふてくされたが、それでもトーリンの心は晴れ晴れとしていた。これほどに見張りの時間が早く来てほしいと願ったことはなかった。
彼はプレゼントを待つ子供のように、そわそわしながら既に定位置についていた。一方、ネルファンディアの方は初めての見張りに緊張を覚えていた。そんな彼女に声をかけたのは、意外にもドワーリンだった。彼は斧の手入れをしながら、相手の方を見ずに言った。
「大丈夫だ。あんたがどれくらい腕が立つのかは分からんが、しっかりトーリンが守ってくれるだろう」
「どうして?あの人ばかりに迷惑はかけられないわ」
その言葉に、ドワーリンはネルファンディアの方を見た。初めてきちんと顔を見た彼は、表情にあどけなさこそ残っているものの、毅然とした芯の強さと決断力のある瞳に驚いた。
なるほど。我が主君は、ただ美しいが故に惹かれたのではなかったのだな。
「さ、そろそろ行け。トーリンがお待ちかねだ」
「ありがとう、ドワーリン殿」
ネルファンディアは春の空気のように暖かな笑みを投げ掛けると、軽やかな足取りで杖と剣を持ってトーリンの隣へ駆けていった。その背中を見ながら、ドワーリンは僅かに微笑みを浮かべるのだった。
見張りにつく頃には、既に夜空には一面の星が広がっていた。
「わぁ……」
「星を見るのは初めてではないだろう?」
「ええ。でも山の空気は澄んでいて冷たいから、アイゼンガルドで見るのとはちょっと違うわ」
「……そうか」
瞳を輝かせて星を見ているネルファンディアの横顔を見て、トーリンはその奥にどんな思い出を隠しているのかを知りたくなった。そこで彼は、まずアイゼンガルドのことについて聞いてみることにした。
「そなたの故郷、アイゼンガルドとはどのような場所なのだ?」
ネルファンディアは目を閉じて、アイゼンガルドの景色を辿り始めた。
「ローハンの平原を抜けて、大きなファンゴルンの森を南に下っていくの。そうすれば開けた場所に出てくる。入り口には石でできたアーチ状の城壁と門があって、その中にはすり鉢状の庭が広がってる」
息を吸えば、咲き乱れる花々の香りが感じられる。ネルファンディアは両親と共に手を繋いで歩いた庭のことを思い出しながら続けた。
「庭には果樹と花がたくさん植えてあって、季節それぞれに咲く植物が植えられているの。池もあって、小さな小川もあるわ」
「随分自然豊かな場所なのだな」
「ええ。夜には一面の星空が広がって、家の塔の最上階にある展望台から見るのがとても綺麗なの」
それを聞いて、トーリンは目を丸くした。
「そなたの家は、城か何かなのか?」
「いいえ。ゴンドールからお借りしているオルサンクの塔なの。黒曜石で出来た、ほぼ天然の要塞よ。エレボールには敵わないと思うけどね」
故郷の話を聞いて、トーリンはネルファンディアが伸び伸びと自然に恵まれた環境に育ったことを知った。更に彼女はファンゴルンの森のことも話した。
「森にはエント族がいるの」
「エント?何だそれは」
「木の姿をしている……そうね、木が生きてるの。ファンゴルンの森の木は生きてる。お話だって出来るし、肩に乗せてもらって散歩することも出来るわ」
まだ見ぬアイゼンガルドの話に、トーリンはいつの間にかすっかり魅せられていた。いや、正確にはそれを楽しそうに話しているネルファンディアに魅せられていた。彼は何となく家族のことについて聞いてみたくなって、試しに尋ねてみた。
「そなたの両親は、どんな人なのだ?」
「両親?」
その話が気になっていたのか、バーリンも薪を追加するついでに話に加わった。
「お父上は、どのようなお方で?」
「父は、とても優しい人よ。いつも厳格で威厳ある方だけど、本当は皆と何一つ変わらないわ。歌と自然と、美味しい食事が大好きなの」
「ドワーフ語はお父上に習ったと言っていたな」
ネルファンディアは頷いて、自分が他に習ったことを思い出し始めた。
「他にはシンダール語、エルフ語、北方の諸言語……それから、黒の言葉も知っているわ」
「黒の言葉って?」
寝入り支度をしていたビルボが、素直な疑問を投げつけた。ネルファンディアがやや躊躇ってから答える。
「……かつて、と言っても私の幼い頃だけれど、闇が世界を支配していたときの言葉。暗黒語とも言うわ」
彼女の瞳にわずかな影が射した。トーリンは幼い頃という言葉に引っ掛かった。
「……それは中つ国の第二紀に起きた出来事であろう。そなたはまだ見たところ、20にも満たないと思うが──」
ネルファンディアは薪の位置を変えながら、不思議がるトーリンに平然と言った。
「ええ。見た目はね」
「……え?」
「私、今年で3941歳なの」
「なっ────」
これには流石の寝入りかけだった、他の仲間たちも飛び起きて耳を疑った。トーリンに至っては、開いた口が塞がらない間抜け顔を浮かべている。
「だから、私の方がここにいる誰よりも人生の先輩ってこと。ま、そんなことで威張ったりはしないけどね」
「ま、待て。そなたの寿命はいつ頃になる予定なのだ?」
トーリンが投げ掛けた興味深い質問に、ネルファンディアは上を向いて考えた。
「わからない。でも、確かに言えることはあるわ。今すぐ刺されたりしなければ、ここにいる誰よりも一番長生きするってこと」
トーリンは苦笑いした。自分よりもとんでもなく年上の女性に、今まで年長者を気取っていたというのか。強烈に恥ずかしい思いに駈られる。
ショックを受けているトーリンを置いて、バーリンが先程の会話を続けた。
「では、お母上は?あの賢者サルマン殿がお心を決められた方なのですし、あなたもお美しい。きっとさぞ綺麗な方なのでしょうな」
ネルファンディアは母という言葉を聞いて、懐かしさに目を細めた。自分が失った故郷や家族との思い出を振り返るときと同じその反応に、トーリンは全てを察した。
「ええ、そうだったと……思う。もう、どんな顔だったのかも忘れてしまったわ。声だけがたまに過ることがあるけれど、朧気で……」
バーリンはネルファンディアの返事を聞いて、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「お許しを。余計な愚問で、辛いことを思い出させてしまいましたな……」
「いいえ、いいの。私こそ、きちんと覚えていなくてごめんなさいね。まだ人間でいうところの6歳くらいだったから」
それを聞いて、トーリンがため息交じりに言った。
「……私が母を失ったときよりも、まだ幼かったのだな」
「あなたも、お母様を?」
「ああ。妹を産み、すぐに亡くなった」
沈黙が続いた。会話が尽きたとき、いつも何か話題を探すのはネルファンディアの役目だった。だが、今回は珍しくトーリンの方から話を続けてきた。
「だが、そなたは立派だ。いつも笑顔を忘れず、前向きに生きている。その笑顔は、きっと皆を幸せをもたらすことだろう」
「じゃあ私が笑っていたら、トラブルなくエレボールに着けるかしら?」
その冗談に、トーリンが僅かに目尻を下げて笑った。その後は、焚き火の木がはぜる音だけが野営地に響き続けた。堪えきれなくなったネルファンディアが、両手で口を覆いながらあくびをした。トーリンの意識は依然と冴えており、眠たそうなネルファンディアの頬を枝で突っついて遊んでいる。
「……楽しい?」
「ああ。暇潰しには丁度良い」
「私も、眠気覚ましにはちょうど良いわ」
二人は顔を見合わせ、笑った。そんな風に見張りを楽しんでいると、交代の時間がやって来た。流石の二人も、既に瞼が引っ付きそうな顔をしている。次の見張りに当たっているキーリは、トーリンとのすれ違い様に小声で尋ねた。
「叔父上、如何でしたか?」
「……何がだ」
「いえ、何でも。お顔が随分と幸せそうなので」
「そなたは全く……」
けらけらと笑うキーリにあきれながらも、トーリンは自分の頬を叩いた。
────気を引き締めねば。私には皆を導く責任があるのだから。
けれどその口許は終始、ネルファンディアとの一時の思い出に浸りながら緩んだままだった。そして彼女もまた、この旅の一員に成れたことを、微睡みながらも幸せだと思うのだった。