六章、忘却の水鏡
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
旅の仲間たちは、丁度すぐそばにあるガラドリエルの住むエルフの森へ逃げ込むように向かった。ネルファンディアは悲しみの深淵にいる自分を引きずり出すのがこの上なく面倒に思え、入場の許可がとれるまでの間も杖に寄りかかって地面を見つめていた。そんな彼女を気遣ってか、レゴラスは間を取り持つエルフのハルディアを叱り飛ばすようになった。
「ハルディア。まだなのか?一刻も早く許可を出してほしいと奥方様にお伝えしろ」
だが、ハルディアは一向に急ごうとはしない。それどころか、兵がやって来てネルファンディアを捕らえようとし始めた。
「止めろ!彼女が何をしたというんだ」
「この者は裏切り者、サルマンの娘です。このまま牢に入れて然るべきでしょう」
両脇に兵が来てからようやく、ネルファンディアは口を開いた。
「これは、奥方様の命ですか?」
「それは……」
「隊長独自の判断なのであれば、今すぐこの手を離しなさい」
その気迫があまりに物凄かったので、ハルディアは捕らえるどころか勢いを無くしてしまった。ネルファンディアはもう一度彼に向き直り、目を細めながら言った。
「……私は良いとして、彼らは関係ありません。一刻も早く休む場所を提供するのが筋では?」
ハルディアは、ネルファンディアの瞳が苦手だった。エルフと同じ目をしているというのに、その鋭さは父親譲りの光を秘めている。エルフでもなく、人間でもなく、精霊でもない彼女の存在は畏怖の対象でもあった。ネルファンディアにもその感情は伝わっていた。だから何も恐れないトーリン・オーケンシールドという男が好きだった。
何とも言えない空気から逃げるために二人が目を逸らそうとした時だった。執事が現れて一行に告げた。
「お待たせしました。お行きになってください」
「……行こう、みんな」
レゴラスの言葉で、全員が重い腰を上げる。一方で、ネルファンディアの心中は複雑だった。今、果たして叔母に合わせる顔があろうか。本当に誰にも聞こえないように小さくついたため息を、意外にも気づいたのはフロドだった。
「……大丈夫ですよ。きっと」
「あら……あなたに慰めてもらうなんて、何だか申し訳ないわ」
フロドは首を横に振ると、硝子のように透き通った瞳でネルファンディアに笑いかけた。
「あなたは、立派な方です。とても立派な方です。あなたほど立派な方のお父上なら、きっと何か考えがあるのでしょう。……少なくとも、そう思わないと」
目頭が熱くなるのを感じながら、ネルファンディアは口許を緩めた。ホビットに慰めてもらうのは何度目だろうか。きっとこの種族には何かとてつもない力があるに違いない。そう思いながら彼女はフロドと共に、叔母に会いに行く道を辿り始めるのだった。
優れた余地能力と洞察力があるガラドリエルに、一行はガンダルフを失ったことを伝えることさえ必要なかった。彼女は一人ずつに労いの言葉をかけると、一番最後にネルファンディアの前で立ち止まった。
「……ネルファンディア、そのような顔はそなたには似合いませんよ」
「むしろ今、私にどのような表情をお望みですか?」
エレボール遠征を見送ったとき以来、姪と会っていなかったガラドリエルはその語気に確かな成熟した強さを感じて驚いた。喪失と耐え難い悲しみが与える痛みは、彼女も充分過ぎるほどに知っていた。だからこそ姪の手を取って、ガラドリエルは囁くような声でこう言った。
「────後で、水鏡の間に来なさい」
そして、ガラドリエルは何事もなかったかのように背を向けて去ってしまった。ネルファンディアはもちろん、結構だとも答えることが出来なかった。
霧降山脈よりはるか遠く
地中深くに眠る故郷
我らは目覚めねばならぬ
かつての栄光を取り戻すべく
「忘れ去られし宝を探すべく……」
「それは、何の歌なの?」
ネルファンディアは突然背後からかけられた言葉に驚くと、その人物を見て胸を撫で下ろした。フロドは僅かに瞳を曇らせて、彼女の隣に腰かけた。
「……私、歌ってたの?」
「ええ。歌っていましたよ。……とても、哀しい歌ですね」
そのフロドの口調を聞いて、ネルファンディアは何故か無性に心を開きたいと思った。だから静かに首からかけていた指輪を外すと、彼女はフロドに渡した。
「──昔ね、ある旅に出たの。今回の旅のような、中つ国の未来を背負う程の重さは無かったけれど、あの人────私の愛した人にとっては何よりも重要な使命だった。私は彼とその仲間を手伝い、ときには助けられ、ついに使命を果たした。……けれども」
ネルファンディアの脳裏に、トーリンの死の瞬間がよぎる。そこからはもう堰を切った激流のように、感情が言葉と共に彼女を責めた。
「けれども、彼は財宝への執着のせいで自分を見失ってしまった。そして、私への愛も尽きたように思えた。私はただ、怖かった。忘れられ、捨てられることが。だから私は逃げたの。あの山から、あの人から逃れるために……でも、それは間違いだった。逃げるべきではなかった。私は……私の方が、あの人を捨てたの」
ネルファンディアの心はいつのまにか、六十年もの歳月の間に溜まった贖罪の念で溺れきっていた。心が息をできずとも、彼女は続けた。
「それで……それで……今度は無性に別のことが怖くなった。この先続く長すぎる人生に、このことが影を落とすことが。耐えられないと思った。だから……だからただ愛していると言いたくて、私は戻った。でも……」
もうとっくに枯れたはずの涙が両目から溢れる。フロドは最後まで黙って、トーリンの指輪を持ちながら聞いていた。
「遅すぎたの。何もかも、遅すぎた。あの人は死んだ。私は……許されないことをしてしまった。だから……」
フロドはそんなネルファンディアの肩を抱いて、いかにもホビットらしい言葉で慰めてくれた。それはとても暖かくて、彼女はまた涙が出そうになった。
「ビルボから聞きました。実はあなたのことも、知っています。だから、このミスリルを着た僕を抱き締めて泣いているのを見たとき、『ああ、この人は本当にトーリン王のことを愛していたんだな』って思ったんです。誰でも逃げたくなるときはあります。でも、あなたは戻ったんだ。しかも王との愛を守るために」
ネルファンディアは顔をあげて、ぽかんとした顔でフロドをみている。まさかビルボが自分の話をしていたとは、と言いたげな顔だ。彼は黙ってトーリンの指輪を返した。ネルファンディアは愛する人を見るのと同じ眼差しをそれに向けながら、再び受け取ってあるべき場所にかけ直した。
「……トーリンを、今も愛してる。私はあの人を愛してる。ただ、あの人との愛を貫くためだけに生きている。そんな単純なことも忘れていた私を許してちょうだい、バキンズ殿」
賢者の娘は微笑むと、フロドに深々と頭を下げた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「いいえ、いいんです。私も、あなたと一度お会いしてみたかったんです。良ければ、叔父の話も聞かせてください」
「ええ、もちろんよ。教えてあげる。沢山あるんだけど、どれから話そうかしら……」
「叔父は、道中であなたから剣術を教わったと聞きました。本当ですか?」
「まぁ、間違いではないけれど……」
自らの心の中にある旅の憧憬を振り返りながら語り始めたネルファンディアの瞳は、確かに輝いていた。フロドはその色と光を見て、かつての彼女の姿を伺い知った。
二人の旅の話は、ガラドリエルの従者がネルファンディアを呼ぶまで続いた。従者に大人しくついていくと、行き先は予想通り水鏡の間だった。姪を待ちわびていたガラドリエルは、大理石で造られた平たい受け皿に水を注ぎ、ミステリアスな微笑みを浮かべた。
「……見なさい、ネルファンディア。過去と今と未来、そしてあなたの望むものが見えるはず」
「まだ、己の宿命に背は向けていません」
「いいえ、あなたは背を向けています。愛する者の死、母の死、そして生きながらにして自分を殺した父から」
ネルファンディアは耳を塞ぎたい思いに駈られたが、魔女とも呼ばれている叔母の声は脳に侵食してくるので無駄だった。彼女は続けた。
「────あなたは、イスタリ。生まれながらにしてヴァラールの召命を受けた者。そなたの名の真の意味を思い出しなさい、ネルファンディア。そなたは、静寂の一滴。闇の中に取り込まれた中つ国に賢者として投じられる、最後の希望の光です」
ガラドリエルは水鏡の水面を指先で震わせた。そこにはネルファンディアの母であり、ガラドリエル自身の妹であり、唯一の友でもあったエルミラエルの姿が映っている。
「そなたの母──エルミラエルは、その定めを断ち切ろうとしてオルサンクにあなたを縛り付けました。そしてそなたの父も、娘の受けた残酷な召命を代わりに全うしようと試みました」
ネルファンディアはその言葉に、ようやく顔を上げて叔母を睨み付けた。その瞳に込められた意思の強さは、父親譲りのそのものだった。
「私が、父と母を死に追いやったと?」
「いいえ、そうではありません。宿命からは逃れられぬのです。あなたが己の使命と向き合わねば、力の指輪も捨て去れぬでしょう」
「では、教えてください。母と父。そしてトーリン・オーケンシールドを死に追いやった張本人を。私でないというなら、誰が彼らの死を仕組んだのですか?使命に気づかせるために、ヴァラールたちが仕組んだというのですか?」
ガラドリエルはネルファンディアを手招きし、鏡を覗くように促した。疑いよりも真実を知りたい思いが先行し、彼女は真実を映し出す水面と向き合った。
そこに映し出されたのは、遠い過去の記憶だった。父と母と共に手を繋いで歩いた、アイゼンガルドの緑生い茂る庭。幼い頃はよく父が肩車をしてファンゴルンの森に連れていってくれた。毎日が楽しくて、家族と日々を過ごすだけで幸せだった。将来のことも沢山語り合って、父と結婚すると言ったこともあった。あのときの嬉しそうに笑う父の姿は────
どんな瞬間にも笑い声が絶えることはなかった。けれど、母の死が全てを変えてしまった。明るかった家からは光が失われ、父も外との接触を拒むようになり始めた。それでも楽しくなかったという訳ではない。
妻を失ってからのサルマンは、ますますネルファンディアのことを気遣うようになっていた。だから、気分転換に裂け谷で暮らすことを提案してくれたのだ。いつも父は、不器用だった。彼女の母は、生前にこんなことを言っていた。
────あの人は、とても不器用なの。誰かのためにしたことでも、自分のためだけにしたかのように嘘をつくときがあるのよ。だから、ネルファンディアもわかってあげてね。あの人は、決してあなたを悲しませるようなことはしないから。
でも、結局自分のためだったじゃない。ネルファンディアは手を伸ばしても届きそうにない父の笑顔に、無言で眉をひそめた。
次に現れたのは、トーリンだった。ネルファンディアの両目に涙がたまっていく。
「トー……リン……」
吐息に混じってやっとのことで呼んだ名前は、水面に吸い込まれていく。鏡の中の彼は、とても優しい顔をしていた。最初に互いの心を通わせたのはいつだったのだろうか。もちろん、鏡はその望んだ瞬間を映してくれた。
そうだった。共に初めての見張りについたときだった。慣れていないであろうネルファンディアを気遣って、トーリンはわざわざ自分の睡眠時間を削ってでも傍に居てくれた。そのときに聞いた彼の故郷と家族の話を、ネルファンディアは今でも一言一句忘れてはいなかった。
そしてついに、エレボール奪還の時に二人は言葉でも心を交わした。あの時の喜びは、生涯忘れることが出来ないだろう。素直になるのが苦手だったにも関わらず、トーリンは精一杯惜しみ無く愛を注いでくれた。
なのに、手を離さねばならない瞬間が来てしまった。ネルファンディアは未だにあの時の選択を悔やんでいる。
まだ、手と心にはあの時の痛みが残っていた。鏡がその瞬間を映し出す。
────な…………ネルファンディア…………?
──目を覚まして下さい、トーリン。あの人たちもあなた達と同じ、故郷を失った者達なのです。人の痛みを解さぬ王など、ただ王座に座り、王冠を載せて喜ぶ愚か者でしかありません
──私に逆らう気か!?ネルファンディア!!!そうか、読めたぞ。そなたが私から財宝をせびらぬ訳を。私をその純情な眼差しで騙し、全ての金銀財宝を奪おうという魂胆か。この、泥棒猫め!!
とても悲しかった。だから去った。とても単純な理由だったが、それが真相だった。あの後、我に返って引き留めた彼の言葉には嘘はなかった。
──私は、そなたを愛している。だから、だから………私の元から去っていかないでほしい!
それなのに自分は去ってしまった。受け止められず、受け入れられず。どうしてあの時、共に手を携えて助け合って行こうと思えなかったのか。そうしていれば、あの悲劇は防げていたのだろうか。
そして鏡は、悪夢のような結末を映し出した。吹雪の中、未来の夫になるはずだった人が伏し、永遠に醒めることのない眠りにつく。もう見ていられなかった。
ネルファンディアは嗚咽を漏らしながら地面に膝をつき、声にならない声で謝罪の言葉を繰り返し続けた。
「許して……ごめんなさい…ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……トーリン……いいえ、私を……許さないで……」
ガラドリエルは痛ましい様子に耐えられなくなったのか、姪の両肩を掴んで瞳を見据えた。
「立ち上がりなさい。そして、見なさい。泣くのはそれからにしなさい」
ネルファンディアは涙をふき、よろよろと立ち上がった。そしてもう一度、苦痛の眼差しで水鏡に向き合った。
そこに新たに映し出されたのは、彼女が望み、思い描いていた理想の未来だった。成長したネルファンディアの髪をときながら、母と二人で理想の男性について話し合う。他愛もない会話だ。
それから、トーリンとの婚礼。エレボールの民の祝福を受けながら、隣には愛する男性がいる。ネルファンディアは王妃としてトーリンを支えていく覚悟と、二人の子を設ける未来に思いを馳せていた。
産まれた初孫となる王子を両親に見せ、ここが父に似ているとか似ていないとか、下らない話で笑いあうことも夢見ていた。
幸せになれたよ、と。ただ両親に見せてみたかった。そして自身も、愛する人と彼の故郷で生きてみたかった。
トーリンが父になったら、どんな人になったのだろうか。鏡はそれも映し出した。
『父上!』
『我が愛する王子よ。こちらへ来なさい』
息子を肩車して、少年のように無邪気に笑うトーリンがそこには居た。横ではもちろん、ネルファンディアが無茶をしないでくださいよ、と諫めつつも笑っている。
もし一つでも何かが違えば、こんな未来があったのか。いや、それともこれは自分の都合のよい夢なのだろうか。そんな風にネルファンディアが思っていると、突然その幸せな光景が炎に包まれた。現れたのは、高くそびえ立つ塔だった。オルサンクとも違うその塔に、彼女は見覚えがあった。
「────サウロン……!」
バラド=ドゥアの塔を一気に登った幻影は、その頂上に座する者とネルファンディアを再び対峙させた。
『全ては、お前が仕組んだことだったのね』
『そうだ。さぁ、この私に立ち向かうことが出来るか?堕落した賢者の娘よ』
『父はそうかもしれない。だが……』
幻影が終わる。そして、ネルファンディアは顔を上げてガラドリエルを鋭い眼差しで見た。
「────私は、父じゃない。私は、ネルファンディア」
彼女は水鏡から離れ、叔母と対峙した。
「教えてください。私は自らの召命を、どのようにすれば悟ることが出来ますか?」
「────仲間が離散するその時に、独り草原を駆ける騎士の国へ向かいなさい。後は必ず、エンディアンの人魚の民が遺した光が、己の向き合うべき宿命にそなたを導くでしょう」
ネルファンディアは揺るぎない決意のこもった瞳で頷き、踵を返した。その背に、これ以上助言してはならないとわかってはいても、ガラドリエルが最後の言葉を投げ掛けた。
「ネルファンディア!これより先は、そなた一人の歩むべき道です。ですが、忘れないでください。あなたを命よりも愛した人たちは皆、何時でも見えずともそなたと共に歩んでくれています」
「ありがとうございます、お姉さま。私は、己の道を行きます。ですが仰る通り、独りでありません」
ネルファンディアは首にかけているトーリンの指輪を見せ、にこりと微笑みかけた。
「私の旅は、いつでも独りではありませんから」
そう言い残し、とうとう本当に行ってしまったその背にガラドリエルは祈るような思いを向けた。その祈りは、まだ美しさが僅かに残る中つ国の夜空に吸い込まれて消えていくのだった。
「ハルディア。まだなのか?一刻も早く許可を出してほしいと奥方様にお伝えしろ」
だが、ハルディアは一向に急ごうとはしない。それどころか、兵がやって来てネルファンディアを捕らえようとし始めた。
「止めろ!彼女が何をしたというんだ」
「この者は裏切り者、サルマンの娘です。このまま牢に入れて然るべきでしょう」
両脇に兵が来てからようやく、ネルファンディアは口を開いた。
「これは、奥方様の命ですか?」
「それは……」
「隊長独自の判断なのであれば、今すぐこの手を離しなさい」
その気迫があまりに物凄かったので、ハルディアは捕らえるどころか勢いを無くしてしまった。ネルファンディアはもう一度彼に向き直り、目を細めながら言った。
「……私は良いとして、彼らは関係ありません。一刻も早く休む場所を提供するのが筋では?」
ハルディアは、ネルファンディアの瞳が苦手だった。エルフと同じ目をしているというのに、その鋭さは父親譲りの光を秘めている。エルフでもなく、人間でもなく、精霊でもない彼女の存在は畏怖の対象でもあった。ネルファンディアにもその感情は伝わっていた。だから何も恐れないトーリン・オーケンシールドという男が好きだった。
何とも言えない空気から逃げるために二人が目を逸らそうとした時だった。執事が現れて一行に告げた。
「お待たせしました。お行きになってください」
「……行こう、みんな」
レゴラスの言葉で、全員が重い腰を上げる。一方で、ネルファンディアの心中は複雑だった。今、果たして叔母に合わせる顔があろうか。本当に誰にも聞こえないように小さくついたため息を、意外にも気づいたのはフロドだった。
「……大丈夫ですよ。きっと」
「あら……あなたに慰めてもらうなんて、何だか申し訳ないわ」
フロドは首を横に振ると、硝子のように透き通った瞳でネルファンディアに笑いかけた。
「あなたは、立派な方です。とても立派な方です。あなたほど立派な方のお父上なら、きっと何か考えがあるのでしょう。……少なくとも、そう思わないと」
目頭が熱くなるのを感じながら、ネルファンディアは口許を緩めた。ホビットに慰めてもらうのは何度目だろうか。きっとこの種族には何かとてつもない力があるに違いない。そう思いながら彼女はフロドと共に、叔母に会いに行く道を辿り始めるのだった。
優れた余地能力と洞察力があるガラドリエルに、一行はガンダルフを失ったことを伝えることさえ必要なかった。彼女は一人ずつに労いの言葉をかけると、一番最後にネルファンディアの前で立ち止まった。
「……ネルファンディア、そのような顔はそなたには似合いませんよ」
「むしろ今、私にどのような表情をお望みですか?」
エレボール遠征を見送ったとき以来、姪と会っていなかったガラドリエルはその語気に確かな成熟した強さを感じて驚いた。喪失と耐え難い悲しみが与える痛みは、彼女も充分過ぎるほどに知っていた。だからこそ姪の手を取って、ガラドリエルは囁くような声でこう言った。
「────後で、水鏡の間に来なさい」
そして、ガラドリエルは何事もなかったかのように背を向けて去ってしまった。ネルファンディアはもちろん、結構だとも答えることが出来なかった。
霧降山脈よりはるか遠く
地中深くに眠る故郷
我らは目覚めねばならぬ
かつての栄光を取り戻すべく
「忘れ去られし宝を探すべく……」
「それは、何の歌なの?」
ネルファンディアは突然背後からかけられた言葉に驚くと、その人物を見て胸を撫で下ろした。フロドは僅かに瞳を曇らせて、彼女の隣に腰かけた。
「……私、歌ってたの?」
「ええ。歌っていましたよ。……とても、哀しい歌ですね」
そのフロドの口調を聞いて、ネルファンディアは何故か無性に心を開きたいと思った。だから静かに首からかけていた指輪を外すと、彼女はフロドに渡した。
「──昔ね、ある旅に出たの。今回の旅のような、中つ国の未来を背負う程の重さは無かったけれど、あの人────私の愛した人にとっては何よりも重要な使命だった。私は彼とその仲間を手伝い、ときには助けられ、ついに使命を果たした。……けれども」
ネルファンディアの脳裏に、トーリンの死の瞬間がよぎる。そこからはもう堰を切った激流のように、感情が言葉と共に彼女を責めた。
「けれども、彼は財宝への執着のせいで自分を見失ってしまった。そして、私への愛も尽きたように思えた。私はただ、怖かった。忘れられ、捨てられることが。だから私は逃げたの。あの山から、あの人から逃れるために……でも、それは間違いだった。逃げるべきではなかった。私は……私の方が、あの人を捨てたの」
ネルファンディアの心はいつのまにか、六十年もの歳月の間に溜まった贖罪の念で溺れきっていた。心が息をできずとも、彼女は続けた。
「それで……それで……今度は無性に別のことが怖くなった。この先続く長すぎる人生に、このことが影を落とすことが。耐えられないと思った。だから……だからただ愛していると言いたくて、私は戻った。でも……」
もうとっくに枯れたはずの涙が両目から溢れる。フロドは最後まで黙って、トーリンの指輪を持ちながら聞いていた。
「遅すぎたの。何もかも、遅すぎた。あの人は死んだ。私は……許されないことをしてしまった。だから……」
フロドはそんなネルファンディアの肩を抱いて、いかにもホビットらしい言葉で慰めてくれた。それはとても暖かくて、彼女はまた涙が出そうになった。
「ビルボから聞きました。実はあなたのことも、知っています。だから、このミスリルを着た僕を抱き締めて泣いているのを見たとき、『ああ、この人は本当にトーリン王のことを愛していたんだな』って思ったんです。誰でも逃げたくなるときはあります。でも、あなたは戻ったんだ。しかも王との愛を守るために」
ネルファンディアは顔をあげて、ぽかんとした顔でフロドをみている。まさかビルボが自分の話をしていたとは、と言いたげな顔だ。彼は黙ってトーリンの指輪を返した。ネルファンディアは愛する人を見るのと同じ眼差しをそれに向けながら、再び受け取ってあるべき場所にかけ直した。
「……トーリンを、今も愛してる。私はあの人を愛してる。ただ、あの人との愛を貫くためだけに生きている。そんな単純なことも忘れていた私を許してちょうだい、バキンズ殿」
賢者の娘は微笑むと、フロドに深々と頭を下げた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「いいえ、いいんです。私も、あなたと一度お会いしてみたかったんです。良ければ、叔父の話も聞かせてください」
「ええ、もちろんよ。教えてあげる。沢山あるんだけど、どれから話そうかしら……」
「叔父は、道中であなたから剣術を教わったと聞きました。本当ですか?」
「まぁ、間違いではないけれど……」
自らの心の中にある旅の憧憬を振り返りながら語り始めたネルファンディアの瞳は、確かに輝いていた。フロドはその色と光を見て、かつての彼女の姿を伺い知った。
二人の旅の話は、ガラドリエルの従者がネルファンディアを呼ぶまで続いた。従者に大人しくついていくと、行き先は予想通り水鏡の間だった。姪を待ちわびていたガラドリエルは、大理石で造られた平たい受け皿に水を注ぎ、ミステリアスな微笑みを浮かべた。
「……見なさい、ネルファンディア。過去と今と未来、そしてあなたの望むものが見えるはず」
「まだ、己の宿命に背は向けていません」
「いいえ、あなたは背を向けています。愛する者の死、母の死、そして生きながらにして自分を殺した父から」
ネルファンディアは耳を塞ぎたい思いに駈られたが、魔女とも呼ばれている叔母の声は脳に侵食してくるので無駄だった。彼女は続けた。
「────あなたは、イスタリ。生まれながらにしてヴァラールの召命を受けた者。そなたの名の真の意味を思い出しなさい、ネルファンディア。そなたは、静寂の一滴。闇の中に取り込まれた中つ国に賢者として投じられる、最後の希望の光です」
ガラドリエルは水鏡の水面を指先で震わせた。そこにはネルファンディアの母であり、ガラドリエル自身の妹であり、唯一の友でもあったエルミラエルの姿が映っている。
「そなたの母──エルミラエルは、その定めを断ち切ろうとしてオルサンクにあなたを縛り付けました。そしてそなたの父も、娘の受けた残酷な召命を代わりに全うしようと試みました」
ネルファンディアはその言葉に、ようやく顔を上げて叔母を睨み付けた。その瞳に込められた意思の強さは、父親譲りのそのものだった。
「私が、父と母を死に追いやったと?」
「いいえ、そうではありません。宿命からは逃れられぬのです。あなたが己の使命と向き合わねば、力の指輪も捨て去れぬでしょう」
「では、教えてください。母と父。そしてトーリン・オーケンシールドを死に追いやった張本人を。私でないというなら、誰が彼らの死を仕組んだのですか?使命に気づかせるために、ヴァラールたちが仕組んだというのですか?」
ガラドリエルはネルファンディアを手招きし、鏡を覗くように促した。疑いよりも真実を知りたい思いが先行し、彼女は真実を映し出す水面と向き合った。
そこに映し出されたのは、遠い過去の記憶だった。父と母と共に手を繋いで歩いた、アイゼンガルドの緑生い茂る庭。幼い頃はよく父が肩車をしてファンゴルンの森に連れていってくれた。毎日が楽しくて、家族と日々を過ごすだけで幸せだった。将来のことも沢山語り合って、父と結婚すると言ったこともあった。あのときの嬉しそうに笑う父の姿は────
どんな瞬間にも笑い声が絶えることはなかった。けれど、母の死が全てを変えてしまった。明るかった家からは光が失われ、父も外との接触を拒むようになり始めた。それでも楽しくなかったという訳ではない。
妻を失ってからのサルマンは、ますますネルファンディアのことを気遣うようになっていた。だから、気分転換に裂け谷で暮らすことを提案してくれたのだ。いつも父は、不器用だった。彼女の母は、生前にこんなことを言っていた。
────あの人は、とても不器用なの。誰かのためにしたことでも、自分のためだけにしたかのように嘘をつくときがあるのよ。だから、ネルファンディアもわかってあげてね。あの人は、決してあなたを悲しませるようなことはしないから。
でも、結局自分のためだったじゃない。ネルファンディアは手を伸ばしても届きそうにない父の笑顔に、無言で眉をひそめた。
次に現れたのは、トーリンだった。ネルファンディアの両目に涙がたまっていく。
「トー……リン……」
吐息に混じってやっとのことで呼んだ名前は、水面に吸い込まれていく。鏡の中の彼は、とても優しい顔をしていた。最初に互いの心を通わせたのはいつだったのだろうか。もちろん、鏡はその望んだ瞬間を映してくれた。
そうだった。共に初めての見張りについたときだった。慣れていないであろうネルファンディアを気遣って、トーリンはわざわざ自分の睡眠時間を削ってでも傍に居てくれた。そのときに聞いた彼の故郷と家族の話を、ネルファンディアは今でも一言一句忘れてはいなかった。
そしてついに、エレボール奪還の時に二人は言葉でも心を交わした。あの時の喜びは、生涯忘れることが出来ないだろう。素直になるのが苦手だったにも関わらず、トーリンは精一杯惜しみ無く愛を注いでくれた。
なのに、手を離さねばならない瞬間が来てしまった。ネルファンディアは未だにあの時の選択を悔やんでいる。
まだ、手と心にはあの時の痛みが残っていた。鏡がその瞬間を映し出す。
────な…………ネルファンディア…………?
──目を覚まして下さい、トーリン。あの人たちもあなた達と同じ、故郷を失った者達なのです。人の痛みを解さぬ王など、ただ王座に座り、王冠を載せて喜ぶ愚か者でしかありません
──私に逆らう気か!?ネルファンディア!!!そうか、読めたぞ。そなたが私から財宝をせびらぬ訳を。私をその純情な眼差しで騙し、全ての金銀財宝を奪おうという魂胆か。この、泥棒猫め!!
とても悲しかった。だから去った。とても単純な理由だったが、それが真相だった。あの後、我に返って引き留めた彼の言葉には嘘はなかった。
──私は、そなたを愛している。だから、だから………私の元から去っていかないでほしい!
それなのに自分は去ってしまった。受け止められず、受け入れられず。どうしてあの時、共に手を携えて助け合って行こうと思えなかったのか。そうしていれば、あの悲劇は防げていたのだろうか。
そして鏡は、悪夢のような結末を映し出した。吹雪の中、未来の夫になるはずだった人が伏し、永遠に醒めることのない眠りにつく。もう見ていられなかった。
ネルファンディアは嗚咽を漏らしながら地面に膝をつき、声にならない声で謝罪の言葉を繰り返し続けた。
「許して……ごめんなさい…ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……トーリン……いいえ、私を……許さないで……」
ガラドリエルは痛ましい様子に耐えられなくなったのか、姪の両肩を掴んで瞳を見据えた。
「立ち上がりなさい。そして、見なさい。泣くのはそれからにしなさい」
ネルファンディアは涙をふき、よろよろと立ち上がった。そしてもう一度、苦痛の眼差しで水鏡に向き合った。
そこに新たに映し出されたのは、彼女が望み、思い描いていた理想の未来だった。成長したネルファンディアの髪をときながら、母と二人で理想の男性について話し合う。他愛もない会話だ。
それから、トーリンとの婚礼。エレボールの民の祝福を受けながら、隣には愛する男性がいる。ネルファンディアは王妃としてトーリンを支えていく覚悟と、二人の子を設ける未来に思いを馳せていた。
産まれた初孫となる王子を両親に見せ、ここが父に似ているとか似ていないとか、下らない話で笑いあうことも夢見ていた。
幸せになれたよ、と。ただ両親に見せてみたかった。そして自身も、愛する人と彼の故郷で生きてみたかった。
トーリンが父になったら、どんな人になったのだろうか。鏡はそれも映し出した。
『父上!』
『我が愛する王子よ。こちらへ来なさい』
息子を肩車して、少年のように無邪気に笑うトーリンがそこには居た。横ではもちろん、ネルファンディアが無茶をしないでくださいよ、と諫めつつも笑っている。
もし一つでも何かが違えば、こんな未来があったのか。いや、それともこれは自分の都合のよい夢なのだろうか。そんな風にネルファンディアが思っていると、突然その幸せな光景が炎に包まれた。現れたのは、高くそびえ立つ塔だった。オルサンクとも違うその塔に、彼女は見覚えがあった。
「────サウロン……!」
バラド=ドゥアの塔を一気に登った幻影は、その頂上に座する者とネルファンディアを再び対峙させた。
『全ては、お前が仕組んだことだったのね』
『そうだ。さぁ、この私に立ち向かうことが出来るか?堕落した賢者の娘よ』
『父はそうかもしれない。だが……』
幻影が終わる。そして、ネルファンディアは顔を上げてガラドリエルを鋭い眼差しで見た。
「────私は、父じゃない。私は、ネルファンディア」
彼女は水鏡から離れ、叔母と対峙した。
「教えてください。私は自らの召命を、どのようにすれば悟ることが出来ますか?」
「────仲間が離散するその時に、独り草原を駆ける騎士の国へ向かいなさい。後は必ず、エンディアンの人魚の民が遺した光が、己の向き合うべき宿命にそなたを導くでしょう」
ネルファンディアは揺るぎない決意のこもった瞳で頷き、踵を返した。その背に、これ以上助言してはならないとわかってはいても、ガラドリエルが最後の言葉を投げ掛けた。
「ネルファンディア!これより先は、そなた一人の歩むべき道です。ですが、忘れないでください。あなたを命よりも愛した人たちは皆、何時でも見えずともそなたと共に歩んでくれています」
「ありがとうございます、お姉さま。私は、己の道を行きます。ですが仰る通り、独りでありません」
ネルファンディアは首にかけているトーリンの指輪を見せ、にこりと微笑みかけた。
「私の旅は、いつでも独りではありませんから」
そう言い残し、とうとう本当に行ってしまったその背にガラドリエルは祈るような思いを向けた。その祈りは、まだ美しさが僅かに残る中つ国の夜空に吸い込まれて消えていくのだった。