五章、三度目の喪失
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坑道のような道を歩き続けて、ようやく現れた部屋の中央には一つの石棺が安置してあった。ギムリは斧を取り落としそうになるのを必死で堪えて、よろめく足で部屋に駆け込んだ。
「そんな……嘘だ!嘘だぁ!バーリン!!」
「ギムリ!!」
アラゴルンの制止も振り切り、ギムリは部屋に飛び込んで従兄弟の身体代わりに棺を抱き締めてむせび泣いた。突然のバーリンの死をこのような形で知ったネルファンディアは、ただ入り口で呆然と立ち尽くすしかなかった。
「バーリン……フンディの息子……ドワーリンの兄……」
ギムリの哀しみを邪魔しないように注意しながら、ネルファンディアはそっとバーリンの墓の刻み文字をなぞった。最期の会話は、何だっただろうか。
そうだ。トーリンの剣────オルクリストをくれたときだった。どうせ会うなら、もっと別の形で会いたかった。ネルファンディアの頬を自然と涙が伝う。
「……何故、あなたが泣かれるのですか?」
「私のよき理解者でもあり、友でも……あったからです」
涙を拭って立ち上がった彼女は、ガンダルフが一冊の本を拾い上げていることに目を留めた。覗き込んでみると、それは日記のようなものであることがみてとれる。
「これは……」
「オーリが、遺したものじゃ。立派な戦士に成長したようじゃ」
最期の文は、恐怖でペン先が震えていた。
『怖い。ここももうすぐお仕舞いだ。僕はここで死ぬだろう。でも、やっぱり怖くなんてない。トーリンに会える。山の下の王、トーリン・オーケンシールド王にようやく……
でも、あの人に謝らなきゃならない。あの人よりも若い僕が先にトーリンに会うことを。蒼の姫、賢者の娘。トーリンが誰よりも深く愛したあの人に……』
「……謝らなくてもいいのよ、オーリ。会ってきなさい、あの人に」
ネルファンディアはその本を置こうとしたガンダルフを止めて、自らの荷物の中に包んだ。
「何をしておる」
「ここに置いていても、どうしようもないわ。どこか安全な場所で保管する」
また一人、仲間を失った。あと何回このような出来事を経験すれば、終わりは来るのだろうか。悠久にも等しい命を心の中で呪ったその時だった。石造りの部屋に、ひときわ大きな音が響いた。皆が音のした方向を振り向く。そこには案の定、苦笑いするピピンがいた。
「愚か者が!今度なにかやらかせば、ネズミにでも変えてやる!」
「す、すみません……」
誰もがため息をついて肩をすくめた。だが、ネルファンディアとレゴラスだけは静まり返った部屋の異変に気づいた。二人は息を殺して耳を澄ませ、その正体を悟った。
「太鼓の音がする……」
「一体何が?」
「いかん……太鼓の音と共に進軍が……」
ガンダルフが先程の日記の一節を諳じるより前に、フロドがビルボから譲り受けた"貫き丸"が光っていることに目を留めた。
「────オークだ!」
フロドの言葉に、ボロミアとアラゴルンがその場にある武器をかき集めて戸に栓をした。だが、それでも持ちこたえそうになはい。
「これだけ石造りの建物を建てられる種族なのに、お前の先祖はどうして戸も石造りにしなかった!」
「私からすれば、石造りの入り口も難ありだけどね」
ボロミアの気の効いた不満にネルファンディアが軽口を叩いていると、その鼻先をオークの矢がすり抜けた。
「ねぇ、どうするの?」
「戦うしかなかろう」
「ボロミアはホビットを守れ!」
一同は剣を抜き、構えた。そして門が破られる。ネルファンディアは剣の柄に額をつけて祈った。
────トーリン、私に皆を守る力を下さい
グンダバドのオークたちを制した彼女にとって、モリアのオークはすばしっこい以外には手こずる要因がなかった。だが一通り片付けたその後に、真の敵が現れる。唐突な静けさの中に、先程とは違う太鼓の音が響いたのだ。
「……またオークか?」
「いいえ────トロルよ!」
ネルファンディアは杖を握り直して、柱の影に隠れた。案の定トロルは全力で飛び込んで来ると、目の前にいたボロミアを吹き飛ばした。その勢いは止まることなく、アラゴルンとギムリも壁に叩きつけられた。
彼は何かを探しているように見えた。彼女は指輪の存在をやつらも気づいているのだろうかと思い、慌ててフロドの方を見た。既に彼は一人追い詰められており、恐怖に怯えた表情で息を潜めている。ネルファンディアはその注意を引き付けるために石を投げようと構えたが、既に遅かった。フロドを見つけたトロルは、その醜悪な怪力を以てフロドの身体を槍で突いた。
「止めて!!!」
また守ることができなかった。ネルファンディアは自身への怒りをその身体にたぎらせ、トロルに飛びかかった。
「フロドから離れろ!この化け物が!」
フロドから引き剥がすことに成功した彼女は、トロルと対峙して一騎討ちを始めた。鎖を使って足元を掬ってこようとする攻撃を巧みに避けながら、ネルファンディアは確実にトロルとの距離を縮めている。
「レゴラス!今よ!」
レゴラスはその声に反応して、即座に弓を構えた。正確な軌道を描いてトロルに刺さった矢は、思った以上に効果がある。レゴラスに攻撃を向けようとしたトロルの足止めをするために、ネルファンディアは青い光線を目に放った。
「なかなかやるじゃねぇか、あの姫様は」
「当然のことよ。誰の娘じゃと思うておる。白の賢者サルマンじゃ」
目眩ましが効いたのか、トロルはよろめいている。その隙にレゴラスが最期の一撃を見舞い、見事な勝利を納めることが出来た。だが、勝利の空気は重かった。フロドは目を閉じたまま動かない。ネルファンディアは慌てて彼に駆け寄ると、肩を揺さぶって叫んだ。
「フロド!しっかりするのよ!フロド!」
駄目だ。また仲間を失うのか。彼女が絶望したその時だった。フロドがなんと目を覚ましたのだ。これにはさすがに一同も驚いた。
「フロド!無事だったのか?」
「一体────」
ギムリが事の次第を尋ねようとしたが、あることに気づいて声を詰まらせた。その視線は、彼の襟から顔を僅かに出して輝くものに向けられている。
「……それは、ミスリルじゃないか!」
「ミスリル?」
「そうだ!ドワーフが誇る最高の鎖かたびら。いや、どんなものよりも軽くて強いものだ」
彼はフロドに近づいて、まじまじとミスリルを観察し始めた。確かにフロドは傷ひとつ負っていない。だが、ネルファンディアを驚かせたのはそれだけではなかった。
「これは……トーリン王が、ビルボ・バキンズ殿に贈ったものでは?」
「そうです。裂け谷でビルボから……」
後の言葉は、ネルファンディアの耳には届いていなかった。彼女は震える手でフロドの両手を握って、涙を流しながら何度も頷いた。
────トーリン、あなたが守ってくれたのね。あなたが、フロドを守ってくれたのね……
その様子はガンダルフとレゴラスを除いた仲間たちには、仲間思いの優しい娘に映っていた。だが、ガンダルフにとってはとても苦しい瞬間だった。トーリンの死は、残されたものにとっては六十年経った今でも終わっていないのだ。
ネルファンディアは涙を拭いて、フロドを立ち上がらせるとガンダルフに次の提案をした。
「ガンダルフ。今のうちに出ましょう」
「そうじゃな。坑道を抜けることができれば、外に出られるはずじゃ」
一行はこうして難を切り抜けることができた。だが、ここからが真の苦難の道になろうとは、一体誰が想像できただろうか。
サルマンは古書を開きながら目を細めた。そのページには、大きく黒い魔物が描かれている。
「……モリアの闇を、果たして倒すことができるかな?灰色のガンダルフよ」
彼は立ち上がると、自分が魔術と知恵を駆使して養成した光の中でも動くことができるウルク=ハイの軍勢を見渡した。
────今に見ておれ、ガンダルフ。必ずやこの悲願を達成する!
その瞳は、狂気に歪んでいた。 だが、どこか悲壮な決意を秘めているようにも見えるのだった。
坑道までの道のりを行く一行を執拗に追ってきたオークたちは、想像以上に大軍だった。
「ねぇ!このままでは囲まれてしまうわ」
「走れ!走るしかない!」
ネルファンディアは後ろから必死でついてくるホビットたちを気にかけながら、自分も必死で足を動かした。だが、突然低い地響きがひとしきり回廊を震わせたと思うと、それまで追いかけてきたオークたちは潮の満ち引きのようにさっと消えてしまった。これを好機と思うか、次なる災厄と取るか。ボロミアは後者を選んだ。
「……今度は何の化け物だ?」
「……少なくとも、トロルではなさそう」
けれども、進むしかない。出口は坑道にしかないのだから。一行が橋に差し掛かったとき、その化け物は姿を現した。
それは、ネルファンディアも母と父から聞いたことのある奴だった。黒々とした焔に燃えるその身体、獣のような瞳。悪魔のような翼と、赤い焔の鞭。その姿に付く名は1つしかなかった。
「堕落したマイアール、バルログ……!」
「ドゥリンの禍……」
果敢にも交戦しようとするレゴラスを杖で制したネルファンディアは、ガンダルフを除く仲間たちにこう告げた。
「精霊は精霊で以てでしか倒せません。ここは我らにお任せを」
先にバルログと交戦するガンダルフの隣に立ち、彼女は目を閉じて水の流れを想像した。モリアの深淵より湧き出でる地下水が波打ちたつ。それは大きな轟音となって、橋の上まで岩盤を突き破ってかの化け物を打った。
高熱の水蒸気がその場を灼熱に包む。仲間たちを守るために、ネルファンディアは杖を振り上げて即座に水のバリアを作り上げた。バルログが言葉とはとても思えない声で吠える。
「────私は、ネルファンディア。白の賢者サルマンの娘であり、フィナルフィンの娘エルミラエルの子、エンディアンの水の使い手である!」
バルログを睨み付けるその毅然とした眼差しに、かつての友の面影を見たガンダルフは感慨深いものを感じた。
────エルミラエルの奥方。あなたの遺志は、生きておられる。あなたの忘れ形見はとても、勇敢でお美しい。
彼は杖を握り直すと、剣と共に持って大きく頭の上に振り上げて叫んだ。
「わしはアノールの焔の使い手、灰色のガンダルフじゃ!」
────もう、わしの起こしたことで誰かが欠けることは許されん。わしがけじめをつける。
「ここは、断じて通さん!」
サルマンよりも強く響く威厳のこもった声で、ガンダルフは杖を真っ直ぐ振り下ろした。魔力の振動でバルログの立っている場所が崩れる。
「やった……!」
赤黒い禍は真っ直ぐと落ちていく。ネルファンディアがほっと胸を撫で下ろそうとした時だった。バルログの最期の足掻きが彼女を直撃しようとした。その瞬間はとてもゆっくりで、ネルファンディアは一体何が起きたのかをはかりかねた。
バルログの焔の鞭が捉えたのは、なんとガンダルフだった。ネルファンディアはその少し向こうに倒れている。
「────ガンダルフ!!」
悲痛な叫びが響く。彼女は身体を起こして必死でガンダルフに近づこうと試み、何とか途切れた橋に掴まる彼に手を掴むことができる距離までやって来た。
「ガンダルフ!この手を!私の手を掴んで!」
だが、ネルファンディアの手は空を掴んだ。ガンダルフは首を静かに横に振って、瞳に涙をためながら力を振り絞ってこう言った。
「ネルファンディア……許してほしい。わしが……わしが鍵なんぞ持ってこなければ……トーリンは……」
「違う……」
「わしがもっと早くに……罠のことを……警告しておれば……トーリンは……お主の……お主の婚約者は……」
「違う!あなたのせいなんかじゃない!ガンダルフ!お願い!私を独りにしないで!この手をとって!」
必死に首を横に振るネルファンディアがあまりに気の毒で、フロドは無理にでもガンダルフの身体を引き上げようと駆け出した。だが、ボロミアに羽交い締めにされて動くことができない。
これ以上の猶予は無用。ガンダルフはそう思ったのか、最期の一踏ん張りを決めてネルファンディアに微笑みかけた。
「行け──────馬鹿者」
────そしてその悲しみが楽になるまで、空っぽになるまで恨むのじゃ。バーリンら同様、先にトーリンに会うこのわしを。
ガンダルフの身体が、カザド=ドゥムの赤い深淵に落ちていく。ネルファンディアの咆哮が響いた。
それからのことは覚えていなかった。自分のせいだとひたすら己を責めるピピンと、モリアに行こうと勧めたことを悔いて泣くギムリの声が反響していた気がするが、ネルファンディアは空っぽだった。空を見上げても、自由を失った空に鳥は飛んでいない。
──────お母様。私は、独りにならねばならぬ定めなのですか?教えてください、私の生きる意味を。
彼女は目を閉じてオルクリストを抱き締めた。それはとても、酷く冷たい感触がするのだった。
「そんな……嘘だ!嘘だぁ!バーリン!!」
「ギムリ!!」
アラゴルンの制止も振り切り、ギムリは部屋に飛び込んで従兄弟の身体代わりに棺を抱き締めてむせび泣いた。突然のバーリンの死をこのような形で知ったネルファンディアは、ただ入り口で呆然と立ち尽くすしかなかった。
「バーリン……フンディの息子……ドワーリンの兄……」
ギムリの哀しみを邪魔しないように注意しながら、ネルファンディアはそっとバーリンの墓の刻み文字をなぞった。最期の会話は、何だっただろうか。
そうだ。トーリンの剣────オルクリストをくれたときだった。どうせ会うなら、もっと別の形で会いたかった。ネルファンディアの頬を自然と涙が伝う。
「……何故、あなたが泣かれるのですか?」
「私のよき理解者でもあり、友でも……あったからです」
涙を拭って立ち上がった彼女は、ガンダルフが一冊の本を拾い上げていることに目を留めた。覗き込んでみると、それは日記のようなものであることがみてとれる。
「これは……」
「オーリが、遺したものじゃ。立派な戦士に成長したようじゃ」
最期の文は、恐怖でペン先が震えていた。
『怖い。ここももうすぐお仕舞いだ。僕はここで死ぬだろう。でも、やっぱり怖くなんてない。トーリンに会える。山の下の王、トーリン・オーケンシールド王にようやく……
でも、あの人に謝らなきゃならない。あの人よりも若い僕が先にトーリンに会うことを。蒼の姫、賢者の娘。トーリンが誰よりも深く愛したあの人に……』
「……謝らなくてもいいのよ、オーリ。会ってきなさい、あの人に」
ネルファンディアはその本を置こうとしたガンダルフを止めて、自らの荷物の中に包んだ。
「何をしておる」
「ここに置いていても、どうしようもないわ。どこか安全な場所で保管する」
また一人、仲間を失った。あと何回このような出来事を経験すれば、終わりは来るのだろうか。悠久にも等しい命を心の中で呪ったその時だった。石造りの部屋に、ひときわ大きな音が響いた。皆が音のした方向を振り向く。そこには案の定、苦笑いするピピンがいた。
「愚か者が!今度なにかやらかせば、ネズミにでも変えてやる!」
「す、すみません……」
誰もがため息をついて肩をすくめた。だが、ネルファンディアとレゴラスだけは静まり返った部屋の異変に気づいた。二人は息を殺して耳を澄ませ、その正体を悟った。
「太鼓の音がする……」
「一体何が?」
「いかん……太鼓の音と共に進軍が……」
ガンダルフが先程の日記の一節を諳じるより前に、フロドがビルボから譲り受けた"貫き丸"が光っていることに目を留めた。
「────オークだ!」
フロドの言葉に、ボロミアとアラゴルンがその場にある武器をかき集めて戸に栓をした。だが、それでも持ちこたえそうになはい。
「これだけ石造りの建物を建てられる種族なのに、お前の先祖はどうして戸も石造りにしなかった!」
「私からすれば、石造りの入り口も難ありだけどね」
ボロミアの気の効いた不満にネルファンディアが軽口を叩いていると、その鼻先をオークの矢がすり抜けた。
「ねぇ、どうするの?」
「戦うしかなかろう」
「ボロミアはホビットを守れ!」
一同は剣を抜き、構えた。そして門が破られる。ネルファンディアは剣の柄に額をつけて祈った。
────トーリン、私に皆を守る力を下さい
グンダバドのオークたちを制した彼女にとって、モリアのオークはすばしっこい以外には手こずる要因がなかった。だが一通り片付けたその後に、真の敵が現れる。唐突な静けさの中に、先程とは違う太鼓の音が響いたのだ。
「……またオークか?」
「いいえ────トロルよ!」
ネルファンディアは杖を握り直して、柱の影に隠れた。案の定トロルは全力で飛び込んで来ると、目の前にいたボロミアを吹き飛ばした。その勢いは止まることなく、アラゴルンとギムリも壁に叩きつけられた。
彼は何かを探しているように見えた。彼女は指輪の存在をやつらも気づいているのだろうかと思い、慌ててフロドの方を見た。既に彼は一人追い詰められており、恐怖に怯えた表情で息を潜めている。ネルファンディアはその注意を引き付けるために石を投げようと構えたが、既に遅かった。フロドを見つけたトロルは、その醜悪な怪力を以てフロドの身体を槍で突いた。
「止めて!!!」
また守ることができなかった。ネルファンディアは自身への怒りをその身体にたぎらせ、トロルに飛びかかった。
「フロドから離れろ!この化け物が!」
フロドから引き剥がすことに成功した彼女は、トロルと対峙して一騎討ちを始めた。鎖を使って足元を掬ってこようとする攻撃を巧みに避けながら、ネルファンディアは確実にトロルとの距離を縮めている。
「レゴラス!今よ!」
レゴラスはその声に反応して、即座に弓を構えた。正確な軌道を描いてトロルに刺さった矢は、思った以上に効果がある。レゴラスに攻撃を向けようとしたトロルの足止めをするために、ネルファンディアは青い光線を目に放った。
「なかなかやるじゃねぇか、あの姫様は」
「当然のことよ。誰の娘じゃと思うておる。白の賢者サルマンじゃ」
目眩ましが効いたのか、トロルはよろめいている。その隙にレゴラスが最期の一撃を見舞い、見事な勝利を納めることが出来た。だが、勝利の空気は重かった。フロドは目を閉じたまま動かない。ネルファンディアは慌てて彼に駆け寄ると、肩を揺さぶって叫んだ。
「フロド!しっかりするのよ!フロド!」
駄目だ。また仲間を失うのか。彼女が絶望したその時だった。フロドがなんと目を覚ましたのだ。これにはさすがに一同も驚いた。
「フロド!無事だったのか?」
「一体────」
ギムリが事の次第を尋ねようとしたが、あることに気づいて声を詰まらせた。その視線は、彼の襟から顔を僅かに出して輝くものに向けられている。
「……それは、ミスリルじゃないか!」
「ミスリル?」
「そうだ!ドワーフが誇る最高の鎖かたびら。いや、どんなものよりも軽くて強いものだ」
彼はフロドに近づいて、まじまじとミスリルを観察し始めた。確かにフロドは傷ひとつ負っていない。だが、ネルファンディアを驚かせたのはそれだけではなかった。
「これは……トーリン王が、ビルボ・バキンズ殿に贈ったものでは?」
「そうです。裂け谷でビルボから……」
後の言葉は、ネルファンディアの耳には届いていなかった。彼女は震える手でフロドの両手を握って、涙を流しながら何度も頷いた。
────トーリン、あなたが守ってくれたのね。あなたが、フロドを守ってくれたのね……
その様子はガンダルフとレゴラスを除いた仲間たちには、仲間思いの優しい娘に映っていた。だが、ガンダルフにとってはとても苦しい瞬間だった。トーリンの死は、残されたものにとっては六十年経った今でも終わっていないのだ。
ネルファンディアは涙を拭いて、フロドを立ち上がらせるとガンダルフに次の提案をした。
「ガンダルフ。今のうちに出ましょう」
「そうじゃな。坑道を抜けることができれば、外に出られるはずじゃ」
一行はこうして難を切り抜けることができた。だが、ここからが真の苦難の道になろうとは、一体誰が想像できただろうか。
サルマンは古書を開きながら目を細めた。そのページには、大きく黒い魔物が描かれている。
「……モリアの闇を、果たして倒すことができるかな?灰色のガンダルフよ」
彼は立ち上がると、自分が魔術と知恵を駆使して養成した光の中でも動くことができるウルク=ハイの軍勢を見渡した。
────今に見ておれ、ガンダルフ。必ずやこの悲願を達成する!
その瞳は、狂気に歪んでいた。 だが、どこか悲壮な決意を秘めているようにも見えるのだった。
坑道までの道のりを行く一行を執拗に追ってきたオークたちは、想像以上に大軍だった。
「ねぇ!このままでは囲まれてしまうわ」
「走れ!走るしかない!」
ネルファンディアは後ろから必死でついてくるホビットたちを気にかけながら、自分も必死で足を動かした。だが、突然低い地響きがひとしきり回廊を震わせたと思うと、それまで追いかけてきたオークたちは潮の満ち引きのようにさっと消えてしまった。これを好機と思うか、次なる災厄と取るか。ボロミアは後者を選んだ。
「……今度は何の化け物だ?」
「……少なくとも、トロルではなさそう」
けれども、進むしかない。出口は坑道にしかないのだから。一行が橋に差し掛かったとき、その化け物は姿を現した。
それは、ネルファンディアも母と父から聞いたことのある奴だった。黒々とした焔に燃えるその身体、獣のような瞳。悪魔のような翼と、赤い焔の鞭。その姿に付く名は1つしかなかった。
「堕落したマイアール、バルログ……!」
「ドゥリンの禍……」
果敢にも交戦しようとするレゴラスを杖で制したネルファンディアは、ガンダルフを除く仲間たちにこう告げた。
「精霊は精霊で以てでしか倒せません。ここは我らにお任せを」
先にバルログと交戦するガンダルフの隣に立ち、彼女は目を閉じて水の流れを想像した。モリアの深淵より湧き出でる地下水が波打ちたつ。それは大きな轟音となって、橋の上まで岩盤を突き破ってかの化け物を打った。
高熱の水蒸気がその場を灼熱に包む。仲間たちを守るために、ネルファンディアは杖を振り上げて即座に水のバリアを作り上げた。バルログが言葉とはとても思えない声で吠える。
「────私は、ネルファンディア。白の賢者サルマンの娘であり、フィナルフィンの娘エルミラエルの子、エンディアンの水の使い手である!」
バルログを睨み付けるその毅然とした眼差しに、かつての友の面影を見たガンダルフは感慨深いものを感じた。
────エルミラエルの奥方。あなたの遺志は、生きておられる。あなたの忘れ形見はとても、勇敢でお美しい。
彼は杖を握り直すと、剣と共に持って大きく頭の上に振り上げて叫んだ。
「わしはアノールの焔の使い手、灰色のガンダルフじゃ!」
────もう、わしの起こしたことで誰かが欠けることは許されん。わしがけじめをつける。
「ここは、断じて通さん!」
サルマンよりも強く響く威厳のこもった声で、ガンダルフは杖を真っ直ぐ振り下ろした。魔力の振動でバルログの立っている場所が崩れる。
「やった……!」
赤黒い禍は真っ直ぐと落ちていく。ネルファンディアがほっと胸を撫で下ろそうとした時だった。バルログの最期の足掻きが彼女を直撃しようとした。その瞬間はとてもゆっくりで、ネルファンディアは一体何が起きたのかをはかりかねた。
バルログの焔の鞭が捉えたのは、なんとガンダルフだった。ネルファンディアはその少し向こうに倒れている。
「────ガンダルフ!!」
悲痛な叫びが響く。彼女は身体を起こして必死でガンダルフに近づこうと試み、何とか途切れた橋に掴まる彼に手を掴むことができる距離までやって来た。
「ガンダルフ!この手を!私の手を掴んで!」
だが、ネルファンディアの手は空を掴んだ。ガンダルフは首を静かに横に振って、瞳に涙をためながら力を振り絞ってこう言った。
「ネルファンディア……許してほしい。わしが……わしが鍵なんぞ持ってこなければ……トーリンは……」
「違う……」
「わしがもっと早くに……罠のことを……警告しておれば……トーリンは……お主の……お主の婚約者は……」
「違う!あなたのせいなんかじゃない!ガンダルフ!お願い!私を独りにしないで!この手をとって!」
必死に首を横に振るネルファンディアがあまりに気の毒で、フロドは無理にでもガンダルフの身体を引き上げようと駆け出した。だが、ボロミアに羽交い締めにされて動くことができない。
これ以上の猶予は無用。ガンダルフはそう思ったのか、最期の一踏ん張りを決めてネルファンディアに微笑みかけた。
「行け──────馬鹿者」
────そしてその悲しみが楽になるまで、空っぽになるまで恨むのじゃ。バーリンら同様、先にトーリンに会うこのわしを。
ガンダルフの身体が、カザド=ドゥムの赤い深淵に落ちていく。ネルファンディアの咆哮が響いた。
それからのことは覚えていなかった。自分のせいだとひたすら己を責めるピピンと、モリアに行こうと勧めたことを悔いて泣くギムリの声が反響していた気がするが、ネルファンディアは空っぽだった。空を見上げても、自由を失った空に鳥は飛んでいない。
──────お母様。私は、独りにならねばならぬ定めなのですか?教えてください、私の生きる意味を。
彼女は目を閉じてオルクリストを抱き締めた。それはとても、酷く冷たい感触がするのだった。