一章、想いの思い出
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目を閉じて、息を吸い込む。身体中にみずみずしく、心地よい森の空気が満たされる。
一人の美しく長い髪を持つ女性が、そこそこに大きな木にもたれかかりながらファンゴルンの森で読書をしていた。
「大きくなったわね………彼のことを想って植えたのに。彼はそんなに大きくないわよ」
息を呑むほど美しい彼女──ネルファンディアは木のうろを軽く叩くと、にこりと笑った。そう、この木は彼女がかつてビルボからもらったどんぐりなのだ。普通なら成長するのに何十年もかかるはずの大きさなのだが、ここファンゴルンの水には特別な魔法がかけられており、それを使って成長した木たちは一気に成長をし、言葉を覚え、やがてエント(木の精)となる。彼女が可愛がっているこの木も既にエント化を始めていた。
「………我に、登るか、蒼の、姫よ」
「いいえ、やめておくわ。木に登るのはワーグに追いかけられる時くらいで充分」
まだ言葉こそたどたどしいが、既に賢者の心を持ち合わせている不思議な友に、ネルファンディアは感心していた。茶の魔法使いのラダガストが動物に傾倒していると言うならば、彼女は木々に傾倒していると言えよう。程なくして別のエントである木の髭がやってきた。彼もまたネルファンディアの良き友だ。
「蒼の姫よ」
「ごきげんよう、木の髭。……どうかしましたか?」
「最近父上の姿を見ぬ。何かあったのか」
彼女はちらっとオルサンクの塔を見て、ため息をついた。
「………家を勝手に要塞化したりしてるけど、元気よ」
「そうか………奥方様との思い出の場所というに、どうされたことやら」
そういえば最近、部屋にこもることが多くなった気がする。
そう思うと急に父が心配となり、ネルファンディアは立ち上がった。
「ごめんなさい、ちょっと父の様子を見てくるわ」
「今日はもう来ない方がいい」
「え?どうして?」
木の髭の言葉に質問をした瞬間、彼女の頬に冷たい雨が落ちた。
「…………雨が降る。」
「…………それはどうも」
それからしばらくして、本当に雨が降り始めた。すっかり雨に当たり、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れのネルファンディアはただいまと大きめの声で言った。
しかし、返事はない。最近はいつもそうだった。サルマンはこのところ湯水のようにワインをあおり、以前は嫌っていたパイプ草を密かに愛用している。それだけならばいいのだが、彼女にはもう一つ気になることがあった。
近頃、夜ネルファンディアが寝静まった時間にサルマンの部屋から何やら話し声が聞こえてくるのだ。彼女の父は根っからの健康思考なので、夜更かしをするたちではなかった。
────なにかがおかしい。
彼女は地面を睨みつけながら考えたが、思い切って聞いてみる自信もない。仕方が無いので彼女は父がいない時を見計らって部屋に入ってみることにした。
サルマンが外出することはなかなか無いことだが、珍しくその日は家を数日空けると言ってそのまま出ていった。ネルファンディアは見送ると、すぐさま部屋へ向かった。幸い鍵はかかっておらず、彼女は重い石でできた扉を開けた。改装されてからは全く立ち入ったことのない彼の部屋は、重苦しい雰囲気を醸し出していた。身震いしながら辺りを見回すと、ひときわ怪しげな円卓が目に留まった。
祭壇のように中央に置かれて布で隠されているが、その形からなにか球体の様なものであることは見て取れた。
彼女は恐る恐る布を外した。すると………
「────!!?何故……何故これがここに……?」
それは鈍い光を放つ危険なものだった。───パランティア。全てを見透かし、全てを教える代わりに自らの居場所と姿も他の所有者に明かすこととなる代物だ。彼女はあわてて布を被せ直した。
過去、今、未来を見ることの出来るものにガラドリエルの水鏡があるが、そんなものとは比べ物にならない危険物を持っている父が心配になった。ネルファンディアは自室へ向かうと古代の書を読み漁り始めた。そこである一つの詩が彼女の目を引いた。
『時には全てを見透かす水鏡のように
お前の世界をご覧に入れよう
時には漆黒の闇に浮かぶ真実のように
お前の未来を教えよう
時には肌に落ちる冷たき雪のように
お前の心を捉えてみせよう
私が見せるのは 過去と 未来と 今と 昔
永久の知恵と先見を得たいならばその手を我にかざすのだ
何が見える 何が聞こえる 何があった
私を見た者は皆知ったように口をきく
"永遠の叡智を得た!"と
叫ぶが良い
そしてまた止められぬ知識という名の己の欲に忠実に従うのだ
だが 奴らは知らない
真に見透かしているのはお前の全て
我こそが全てを知っている』
─────パランティア。
見透かしの球と題されたものだが、すぐに彼女は例のものを謳った詩だと悟った。
部屋から杖を持ってきて構えると、彼女はパランティアの前に立った。布をもう1度外し、息を整えて手をかざす。すると、映ったのは意外にも過去の栄光ある日々のエレボールの風景だった。それから、若きドワーフの王子だったトーリンの姿が映し出される。
「ああ………」
ネルファンディアは危うく杖を置いてもう片方の手で映し出された幻影となった想い人の頬をなぞる所だった。すぐにこれは危険な道具だと思いとどまった彼女だったが、思慕の念から湧き出る悲哀のため息がもれる。
「…………トーリン…………」
けれどそれはすぐに炎に包まれた。今度は彼女が見た事のない場所になる。その暗く、すすけた場所に見覚えがないため、彼女は目を細めて注意深く見入った。右端には大きな火山が見える。そしてどんどん映像は前に進んでいく。それからまたある場所に来ると、今度は上にあがり始めた。今までにない程の早さで登っていく風景からネルファンディアは目を逸らすことが出来なくなっていた。そして、気づいた時には既に塔の上になっていた。突然、熱さを感じた彼女は既にパランティアの世界と一帯となっていたため、映し出された世界の中で直に振り向いた。
その正体は炎ではなく、燃え盛る一つの"目"だった。その目はしっかりとネルファンディアの姿を捉えると、低く邪悪な声でささやいた。
「────ネルファンディア───蒼の姫………」
「あなたは誰!?」
「我が名は……………サウロン。冥王サウロンだ」
「サウロン………」
その名前には聞き覚えがあった。遠い昔、ヴァラールをモルゴスと共に見限って中つ国を支配しようと企んだ死人使いだ。そして、力の指輪を用いて世界を支配しかけた。彼女は毅然とした態度で彼に挑んだ。
「私の父を、一体どんな手を使って勧惑したの」
「あの男も力の指輪を求めている。……あれがあれば、人の死さえ超越できる」
「超越?指輪の幽鬼として囚われることが?」
彼女はサウロンの口車には乗らなかった。だが、それも彼がネルファンディアに興味を持つ理由の一つだった。彼は思い出したような声で今度は優しく誘惑し始めた。
「……ああ、そうか。お前はたしか、婚約者を失ったのだな。………お前ほどの力の持ち主であれば、我が秘術を使いこなせよう」
トーリン…………
ネルファンディアの目前に想い人の幻影が映る。彼女は憂いをたたえた瞳でゆっくりと近づいてくる。サウロンはその様子を見てほくそ笑んだ。だが…………
「な…………何をする!?」
彼女は杖でトーリンの影を切り裂いた。影は一気に姿を消した。再びサウロンを見据えたその目は、先ほどよりも明らかに怒りに燃えている。彼女は見た目からは想像し難いほどに低く、恐ろしい声で言った。
「……………トーリンは死んだ。トーリン・オーケンシールドは死んだ!貴様の見せる幻影の彼は、彼ではない。………あの者を利用し、影に貶めようとしたその罪、必ずや償わせてやる」
彼女はそこまで言うと目を閉じた。再び目を開けた時は、既に元の世界に戻っていた。しばらく自失呆然となっていた彼女だったが、すぐにパランティアに布を被せると何も無かったように戻した。
夜になっても、彼女の脳裏からあのおぞましい炎の目が消えることはなかった。だが、彼女の疑問はこれで解けた。
────父がおかしいのはきっとサウロンのせいだわ!
彼女は不安よりも父をどうすれば良いのか、なにか力にはなれないだろうかと思考を巡らせた。その度に忌まわしい60年前の記憶が蘇る。
雪の中に、うずくまるネルファンディア。吹雪は激しくなるばかりだが、それでも彼女は動こうとはしない。よく見ると彼女の身体の下に、一人の男が横たわっている。血の気の失せた表情とその一帯だけに広がる紅い雪が、彼が既にこの世の人ではないことを物語っている。
「………………まだ、暖かい………」
彼女は少し身体を起こすと、愛しげに男の頬を撫でた。ほんの少しだけ微笑んでいるように見える男は、目覚めることはない。彼女は震える声で彼に話しかけた。声が震えるのは寒さからではない。世界に取り残された怯えからだった。
「…………トーリン………ねぇ、起きて。もう………起きる時間………だから………ねぇ………トーリン………」
喉がぐっと締め付けられるような感覚を抑えながら、彼女は愛しい婚約者の名───トーリン・オーケンシールドの名を呼び続けた。
「ねぇ…………トーリン…………起きてよ………ねぇ………………目を……覚まして…………」
頬に冷たく当たっていく雪を気にもとめず、彼女はいつまでも彼の名前を呼び続けるのだった。
───あのときも、力になれなかった。
彼女は白む空を虚ろに眺めながら、ため息をついた。肌身離さず紐を通して首にかけ身につけているトーリンの指輪を取り出すと、彼女は手の中でそれを弄ばせた。2度目のため息をつく前に、彼女は父親がいつ帰ってきてもいいように、久しぶりに二人分の朝食を支度しようと思い立った。
料理と研究をしているときだけが、彼女の悩みも苦悶もどこかへ取り去ってくれた。手際よく卵を片手で割ると、母がかつて教えてくれたように目玉焼きを作り始めた。ふと、料理の最中には珍しく、彼女はトーリンのことを思い出した。
旅の途中で偶然卵が手に入り、彼女は目玉焼きを焼いたのだ。焚き火では火加減が難しかったが、昔から作り慣れていたため美味しく出来上がった。周りにはトーリン以外の全員が集まっており、彼らは一人ずつ目玉焼きを渡されると美味しいと褒めちぎりながら食べ始めた。
ネルファンディアはトーリンをちらりと横目で見た。その様子を見逃さなかったバーリンは彼女の隣に来ると、微笑んだ。
「持って行って差し上げれば良いではないですか」
「……お口に合えば良いのですが…」
と言ったものの、彼女はトーリンのことが気にかかって仕方がなかった。勇気を振り絞って彼女は彼のそばまで近づいた。手にはもちろん、目玉焼きとパンの載った木皿が二つ、握られている。緊張で手が震えた。声にならない声で彼女はトーリンの名を呼んだ。
「ト、、ト………トー…………リン…………」
「………ん?」
彼は仏頂面だったが、どこか待っていたというような口調だった。ネルファンディアは息を吸い込むと、彼の目の前に木皿を差し出した。驚きで彼の目が見開かれる。
「────食べてください。………私が、作りました。口に合わないなら………捨ててもいいから」
目をつぶって彼女はトーリンの返答を待った。意外に彼は珍しく素直に受け取った。目を開けた時、そこにあったのは笑顔の想い人だった。自然と抑えきれない笑顔がネルファンディアからこぼれる。
並んで座った二人はお互い少しだけ肩を寄せ合いながら黙々と食べた。先に沈黙を破ったのはトーリンの方だった。
「………美味い」
「え?」
「二度も言わせるでない。………美味い。そう言ったのだ」
彼は照れくさそうに目玉焼きを口に運びながらそう言った。
そのときの言葉が嬉しくて、今でも彼女の耳に残っていた。
今でも、鮮明に覚えている。彼と話した一言一句、表情、癖。その全てら60年という長い歳月を経てもまだ色褪せずに残っていた。ずっと蓋をしていた喪失感が60年分むせ返るように溢れ始めたのに気がついたネルファンディアは、慌てて思考を変えた。
「だめだめ。………もう、ただの思い出なんだから」
トーリンは死んだ。そのことを思い出してしまう目玉焼きはもう焼かないでおこうと彼女は思うのだった。
一人の美しく長い髪を持つ女性が、そこそこに大きな木にもたれかかりながらファンゴルンの森で読書をしていた。
「大きくなったわね………彼のことを想って植えたのに。彼はそんなに大きくないわよ」
息を呑むほど美しい彼女──ネルファンディアは木のうろを軽く叩くと、にこりと笑った。そう、この木は彼女がかつてビルボからもらったどんぐりなのだ。普通なら成長するのに何十年もかかるはずの大きさなのだが、ここファンゴルンの水には特別な魔法がかけられており、それを使って成長した木たちは一気に成長をし、言葉を覚え、やがてエント(木の精)となる。彼女が可愛がっているこの木も既にエント化を始めていた。
「………我に、登るか、蒼の、姫よ」
「いいえ、やめておくわ。木に登るのはワーグに追いかけられる時くらいで充分」
まだ言葉こそたどたどしいが、既に賢者の心を持ち合わせている不思議な友に、ネルファンディアは感心していた。茶の魔法使いのラダガストが動物に傾倒していると言うならば、彼女は木々に傾倒していると言えよう。程なくして別のエントである木の髭がやってきた。彼もまたネルファンディアの良き友だ。
「蒼の姫よ」
「ごきげんよう、木の髭。……どうかしましたか?」
「最近父上の姿を見ぬ。何かあったのか」
彼女はちらっとオルサンクの塔を見て、ため息をついた。
「………家を勝手に要塞化したりしてるけど、元気よ」
「そうか………奥方様との思い出の場所というに、どうされたことやら」
そういえば最近、部屋にこもることが多くなった気がする。
そう思うと急に父が心配となり、ネルファンディアは立ち上がった。
「ごめんなさい、ちょっと父の様子を見てくるわ」
「今日はもう来ない方がいい」
「え?どうして?」
木の髭の言葉に質問をした瞬間、彼女の頬に冷たい雨が落ちた。
「…………雨が降る。」
「…………それはどうも」
それからしばらくして、本当に雨が降り始めた。すっかり雨に当たり、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れのネルファンディアはただいまと大きめの声で言った。
しかし、返事はない。最近はいつもそうだった。サルマンはこのところ湯水のようにワインをあおり、以前は嫌っていたパイプ草を密かに愛用している。それだけならばいいのだが、彼女にはもう一つ気になることがあった。
近頃、夜ネルファンディアが寝静まった時間にサルマンの部屋から何やら話し声が聞こえてくるのだ。彼女の父は根っからの健康思考なので、夜更かしをするたちではなかった。
────なにかがおかしい。
彼女は地面を睨みつけながら考えたが、思い切って聞いてみる自信もない。仕方が無いので彼女は父がいない時を見計らって部屋に入ってみることにした。
サルマンが外出することはなかなか無いことだが、珍しくその日は家を数日空けると言ってそのまま出ていった。ネルファンディアは見送ると、すぐさま部屋へ向かった。幸い鍵はかかっておらず、彼女は重い石でできた扉を開けた。改装されてからは全く立ち入ったことのない彼の部屋は、重苦しい雰囲気を醸し出していた。身震いしながら辺りを見回すと、ひときわ怪しげな円卓が目に留まった。
祭壇のように中央に置かれて布で隠されているが、その形からなにか球体の様なものであることは見て取れた。
彼女は恐る恐る布を外した。すると………
「────!!?何故……何故これがここに……?」
それは鈍い光を放つ危険なものだった。───パランティア。全てを見透かし、全てを教える代わりに自らの居場所と姿も他の所有者に明かすこととなる代物だ。彼女はあわてて布を被せ直した。
過去、今、未来を見ることの出来るものにガラドリエルの水鏡があるが、そんなものとは比べ物にならない危険物を持っている父が心配になった。ネルファンディアは自室へ向かうと古代の書を読み漁り始めた。そこである一つの詩が彼女の目を引いた。
『時には全てを見透かす水鏡のように
お前の世界をご覧に入れよう
時には漆黒の闇に浮かぶ真実のように
お前の未来を教えよう
時には肌に落ちる冷たき雪のように
お前の心を捉えてみせよう
私が見せるのは 過去と 未来と 今と 昔
永久の知恵と先見を得たいならばその手を我にかざすのだ
何が見える 何が聞こえる 何があった
私を見た者は皆知ったように口をきく
"永遠の叡智を得た!"と
叫ぶが良い
そしてまた止められぬ知識という名の己の欲に忠実に従うのだ
だが 奴らは知らない
真に見透かしているのはお前の全て
我こそが全てを知っている』
─────パランティア。
見透かしの球と題されたものだが、すぐに彼女は例のものを謳った詩だと悟った。
部屋から杖を持ってきて構えると、彼女はパランティアの前に立った。布をもう1度外し、息を整えて手をかざす。すると、映ったのは意外にも過去の栄光ある日々のエレボールの風景だった。それから、若きドワーフの王子だったトーリンの姿が映し出される。
「ああ………」
ネルファンディアは危うく杖を置いてもう片方の手で映し出された幻影となった想い人の頬をなぞる所だった。すぐにこれは危険な道具だと思いとどまった彼女だったが、思慕の念から湧き出る悲哀のため息がもれる。
「…………トーリン…………」
けれどそれはすぐに炎に包まれた。今度は彼女が見た事のない場所になる。その暗く、すすけた場所に見覚えがないため、彼女は目を細めて注意深く見入った。右端には大きな火山が見える。そしてどんどん映像は前に進んでいく。それからまたある場所に来ると、今度は上にあがり始めた。今までにない程の早さで登っていく風景からネルファンディアは目を逸らすことが出来なくなっていた。そして、気づいた時には既に塔の上になっていた。突然、熱さを感じた彼女は既にパランティアの世界と一帯となっていたため、映し出された世界の中で直に振り向いた。
その正体は炎ではなく、燃え盛る一つの"目"だった。その目はしっかりとネルファンディアの姿を捉えると、低く邪悪な声でささやいた。
「────ネルファンディア───蒼の姫………」
「あなたは誰!?」
「我が名は……………サウロン。冥王サウロンだ」
「サウロン………」
その名前には聞き覚えがあった。遠い昔、ヴァラールをモルゴスと共に見限って中つ国を支配しようと企んだ死人使いだ。そして、力の指輪を用いて世界を支配しかけた。彼女は毅然とした態度で彼に挑んだ。
「私の父を、一体どんな手を使って勧惑したの」
「あの男も力の指輪を求めている。……あれがあれば、人の死さえ超越できる」
「超越?指輪の幽鬼として囚われることが?」
彼女はサウロンの口車には乗らなかった。だが、それも彼がネルファンディアに興味を持つ理由の一つだった。彼は思い出したような声で今度は優しく誘惑し始めた。
「……ああ、そうか。お前はたしか、婚約者を失ったのだな。………お前ほどの力の持ち主であれば、我が秘術を使いこなせよう」
トーリン…………
ネルファンディアの目前に想い人の幻影が映る。彼女は憂いをたたえた瞳でゆっくりと近づいてくる。サウロンはその様子を見てほくそ笑んだ。だが…………
「な…………何をする!?」
彼女は杖でトーリンの影を切り裂いた。影は一気に姿を消した。再びサウロンを見据えたその目は、先ほどよりも明らかに怒りに燃えている。彼女は見た目からは想像し難いほどに低く、恐ろしい声で言った。
「……………トーリンは死んだ。トーリン・オーケンシールドは死んだ!貴様の見せる幻影の彼は、彼ではない。………あの者を利用し、影に貶めようとしたその罪、必ずや償わせてやる」
彼女はそこまで言うと目を閉じた。再び目を開けた時は、既に元の世界に戻っていた。しばらく自失呆然となっていた彼女だったが、すぐにパランティアに布を被せると何も無かったように戻した。
夜になっても、彼女の脳裏からあのおぞましい炎の目が消えることはなかった。だが、彼女の疑問はこれで解けた。
────父がおかしいのはきっとサウロンのせいだわ!
彼女は不安よりも父をどうすれば良いのか、なにか力にはなれないだろうかと思考を巡らせた。その度に忌まわしい60年前の記憶が蘇る。
雪の中に、うずくまるネルファンディア。吹雪は激しくなるばかりだが、それでも彼女は動こうとはしない。よく見ると彼女の身体の下に、一人の男が横たわっている。血の気の失せた表情とその一帯だけに広がる紅い雪が、彼が既にこの世の人ではないことを物語っている。
「………………まだ、暖かい………」
彼女は少し身体を起こすと、愛しげに男の頬を撫でた。ほんの少しだけ微笑んでいるように見える男は、目覚めることはない。彼女は震える声で彼に話しかけた。声が震えるのは寒さからではない。世界に取り残された怯えからだった。
「…………トーリン………ねぇ、起きて。もう………起きる時間………だから………ねぇ………トーリン………」
喉がぐっと締め付けられるような感覚を抑えながら、彼女は愛しい婚約者の名───トーリン・オーケンシールドの名を呼び続けた。
「ねぇ…………トーリン…………起きてよ………ねぇ………………目を……覚まして…………」
頬に冷たく当たっていく雪を気にもとめず、彼女はいつまでも彼の名前を呼び続けるのだった。
───あのときも、力になれなかった。
彼女は白む空を虚ろに眺めながら、ため息をついた。肌身離さず紐を通して首にかけ身につけているトーリンの指輪を取り出すと、彼女は手の中でそれを弄ばせた。2度目のため息をつく前に、彼女は父親がいつ帰ってきてもいいように、久しぶりに二人分の朝食を支度しようと思い立った。
料理と研究をしているときだけが、彼女の悩みも苦悶もどこかへ取り去ってくれた。手際よく卵を片手で割ると、母がかつて教えてくれたように目玉焼きを作り始めた。ふと、料理の最中には珍しく、彼女はトーリンのことを思い出した。
旅の途中で偶然卵が手に入り、彼女は目玉焼きを焼いたのだ。焚き火では火加減が難しかったが、昔から作り慣れていたため美味しく出来上がった。周りにはトーリン以外の全員が集まっており、彼らは一人ずつ目玉焼きを渡されると美味しいと褒めちぎりながら食べ始めた。
ネルファンディアはトーリンをちらりと横目で見た。その様子を見逃さなかったバーリンは彼女の隣に来ると、微笑んだ。
「持って行って差し上げれば良いではないですか」
「……お口に合えば良いのですが…」
と言ったものの、彼女はトーリンのことが気にかかって仕方がなかった。勇気を振り絞って彼女は彼のそばまで近づいた。手にはもちろん、目玉焼きとパンの載った木皿が二つ、握られている。緊張で手が震えた。声にならない声で彼女はトーリンの名を呼んだ。
「ト、、ト………トー…………リン…………」
「………ん?」
彼は仏頂面だったが、どこか待っていたというような口調だった。ネルファンディアは息を吸い込むと、彼の目の前に木皿を差し出した。驚きで彼の目が見開かれる。
「────食べてください。………私が、作りました。口に合わないなら………捨ててもいいから」
目をつぶって彼女はトーリンの返答を待った。意外に彼は珍しく素直に受け取った。目を開けた時、そこにあったのは笑顔の想い人だった。自然と抑えきれない笑顔がネルファンディアからこぼれる。
並んで座った二人はお互い少しだけ肩を寄せ合いながら黙々と食べた。先に沈黙を破ったのはトーリンの方だった。
「………美味い」
「え?」
「二度も言わせるでない。………美味い。そう言ったのだ」
彼は照れくさそうに目玉焼きを口に運びながらそう言った。
そのときの言葉が嬉しくて、今でも彼女の耳に残っていた。
今でも、鮮明に覚えている。彼と話した一言一句、表情、癖。その全てら60年という長い歳月を経てもまだ色褪せずに残っていた。ずっと蓋をしていた喪失感が60年分むせ返るように溢れ始めたのに気がついたネルファンディアは、慌てて思考を変えた。
「だめだめ。………もう、ただの思い出なんだから」
トーリンは死んだ。そのことを思い出してしまう目玉焼きはもう焼かないでおこうと彼女は思うのだった。