箱庭~話の花束~Episode1〜
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『浴衣』
中間、期末といったテスト期間中は、部活もなく下校も早い。
しかし、それはテニスを学校でやらないというだけで、毎日自宅でやる基礎トレーニングメニューに何ら変わりはない。
そんな日の帰り道だった。ノートを買い足そうと手塚が商店街に足を踏み入れると、それは目に入った。
色鮮やかで涼しげな浴衣をまとったマネキン達が、洋品店の入り口を飾っている。
今までそんな物に目を奪われたことなどなかった。
だが、今日は視線を捕まえられてしまった。
足が止まった。一体のマネキンの浴衣をじっと眺める。
(…似合いそうだな…)
手塚の脳裏に一人の少女が浮かぶ。
知らずに眼差しが細まり穏やかになる。
「手塚先輩?」
(…え…)
不意に背後からかけられた声は、たった今手塚の中で微笑んだ少女のものだった。
「お買い物ですか?」
少女が手塚の隣りに並んだ。
「…ああ、ノートを買いに…」
自分でも声がかすれるのがわかった。
「お前は…?」
取り繕うように少女にも会話を向けた。
「あたしも、明日が英語なので単語帳を買いに…」
そう言いかけた少女の目にも浴衣が映る。
「わぁ…」
憧れるような輝きがその瞳に宿る。
「…着るのか?」
ポツリと手塚が聞いた。
「去年は着ていませんが、毎年お祭や花火大会に着ています」
浴衣のマネキンに近づきながら少女は答えた。
「…今年は…?」
またかすれる。
「着たいですね」
マネキンから手塚に視線が動き、眩しい笑顔が自分を見た。
「…そうか」
もっと気の利いた言葉を…と思ったが、出ては来ないものだ。胸の内には熱い想いが幾重にも渦を巻き、あらゆる言葉も埋まっているというのに、いざとなると、誰にでも言える使い慣れたものばかりが出て来てしまう。
「ふぅ…」
小さいため息で少女はハンカチを取り出すと汗を抑えた。
「…何か冷たい物でも飲んで行くか?」
一瞬少女は驚いたような顔をしたが、すぐさま明るい微笑みに変わった。
「はい」
「…何ならついでに英語も教えようか?」
ファーストフードの店内で、氷の入った紙カップにストローを差した時、つぶやくように手塚が言った。
「え…でも教科書がありません」
嬉しさよりも驚きが大きく入り混じった表情で、少女は手塚を見た。
「1年の教科書くらいは覚えている」
軽く言うと手塚は、バッグからルーズリーフを取り出し用紙を一枚外した。
結局、臨時家庭教師に明日の教科を全部叩き込まれてしまった。
頭が飽和状態な感じで、少女は手塚から記入された用紙、10枚あまりを受け取った。
「すまない、つい夢中になった」
氷もすっかり溶け、空になったカップに気がつくとようやく手塚は焦った。
「いえ、助かりました。家に帰ったら先輩に教えて頂いたことをまとめるだけで大丈夫ですから」
少女は手にした用紙を抱えると嬉しそうに笑った。
手塚は自分の腕時計をそっと見た。時間は昼食からおやつへとすでに移動している。
「…腹減らないか?」
うっかりしていた、もあるが、手塚はまだこの少女と一緒にいたかった。
「実はかなり…」
少女は照れくさそうに笑みをこぼした。
他愛もない話が出来た。
テストのこと、授業のこと、担当教師のこと、クラスメイトのこと、そして…部活のこと。
外へ出て驚いた。そんなに時間が経ったとは思えないのに、辺りはすっかり黄昏ていたのだ。
ただ、手塚に湧いた気持ちは、こんなにも長い時間少女を独占出来たことが嬉しかった。
「今日はありがとうございました。手塚先輩のお陰で、明日はどんな問題でも凄くいい点が取れそうです」
別れしな、少女が楽しそうに笑い手塚に頭を下げた。
「いや、役に立ててよかった」
明日はテスト最終日だ。明日から再び部活が再開される。
「明日、よかったら見に来るといい」
「はい、今日のお礼に伺います」
もう一度少女は深く頭を下げた。
別れ道で、黄昏色に染まる少女の後ろ姿をずっと見送った。
「明日…」
手塚の瞳も黄昏色に優しく溶け込んだ。
fin.