コログとアストル
【コログとアストルその2】
古い言い伝え曰く、夕暮れの桜には魔が宿るらしい。
黄昏の光によって影の世界より迷いでたソレが、居場所を求めて桜の花に身を寄せるのだという。
その時間帯の桜が、他の時とは違う妖しい色を帯びるのはそのせいなのだそうだ。
◆
―――ハイラル大森林、コログの森
カラスもねぐらに戻り始める日暮れ時、退魔の剣が納められている台座前の広場に程近い木陰で星見の男がまた一人で眠っていた。
舞い落ちる桜の花びらは森に満ちる茜を吸い込んで燃えるような紅へと色を変え、男を独り占めするかの如く彼の纏う宵闇色のローブを埋め尽くしている。
花びら達がまるで厄災の吐き出す泥のように妖しく艶めく様は、よくないモノが真綿で優しく首を締めるように少しずつ彼を――そしてこの森全体を浸食していくようであった。
◆ ◆
「…っ……」
夕暮れ時の肌寒い風に首筋をするりと撫でられ、目が覚める。
木陰から覗く空は既に朱色を帯び、遠くからカラスのくたびれた鳴き声が聞こえてきた。
今日は日が落ちてから森を出るつもりだったのだが、いつぞやのように予定より早く起きてしまったようだ。
「また、か……」
それでも予定より遅くなるよりかはマシだ。
イーガの者達は一見愉快でおおらかなように見えるが、実際約束事や時間にはとても厳しい。
ある程度彼らの信頼を得てきたとは言え、あそこの参謀は未だに私を露骨に警戒する。
現状を考えれば早めに行動できる方が都合が良い。
「……ふぅ」
息を吐いて、また目を閉じ直す。
体を休ませる時間をほんの少し引き伸ばしながら、最近の出来事をぼんやり思い返した。
◆
――イーガとの協力体制は今の所良好である。
先日あの組織内の研究者らと共に進めていたモリブリンに炎の属性を宿す実験にようやく成功して一段落したところだ。
ファイヤウィズローブが使う杖の宝玉の欠片をいくつか体内に埋め込むという物理的でごく単純なものだったが、殊の外上手くいった。
改造方法も簡易なものだから今後増やす必要が出てきても困ることはないだろう。
イーガの研究者達は今後は他の属性や違う種の魔物でも試してみると言う。
電気の属性を持つモリブリンを多く作りだせれば、対ゾーラ族への切り札にもなりえる。
ライネルやヒノックス等の元々強力な魔物にも付与出来ればなお心強い。
今後の研究の進み具合が楽しみでならない。
この森で幻影らに指導させている魔物達の戦闘訓練の進捗も良好である。
最初こそ難色を示した彼らだったが、私の命令は絶対だ。渋々ではあるが一応真面目に取り組んでいるのは訓練を受けている魔物の様子を見れば一目瞭然だった。
元より優れた戦士の姿と記憶を模した彼らは教え方も上手いようで、既に単体で森周辺の偵察さえ任せられる程の魔物が数匹育ち上がっているとの報告も受けた。
大変良い傾向だ。
――現状を一言で表すならかねがね順調…というところである。
厄災復活という祝福すべき約束の日を、より良い状況で迎える準備は着々と進んでいる。驚くべきことに大きな問題は未だに一つも起こっていない。
幾度か退魔の剣の安置されている迷いの森を奪還しようとハイリア軍が攻めて来たが、地の利はこちらにある為撃退は容易であった。
星見の結果でさえ悪い兆しは全く見えない。
順調過ぎて逆に怖い位ではあるが、今のこの状況が厄災復活の日まで崩れないまま続くことを願うばかりである。
◆
「タララ〜♪ タララ〜♪ タリラリラ〜♪」
(……っ!)
思考に耽っていると、急に調子の外れた鼻歌と葉音のカラコロ鳴る音が聞こえてきたので思わず身構える。
「アー、ホシミのオニーサンまたネテるー」
(あのコログ……)
近寄ってきたのはいつか私に集ろうとしていた毛虫を追い払ってくれたコログだった。
「コマったナ……またオコさないト……」
あの日以降このコログとは二~三言言葉を交わすようになってはいたのだが、最近になって挨拶もそこそこにそそくさとどこかに行ってしまうようになった。
飽きられたのか怖がられたのかは定かではない。
コログにそっけなくされて仲良くなりたい気持ちが芽生えた訳では決してない。
ただ、急によそよそしい態度を取り始めたこのコログに対して釈然としない気持ちが日に日に増していたのは確かだった。
(今更、また何の用があるというのか……)
あちらから話しかけられていた頃はその度にうんざりしていたはずなのに、久々に自分のもとまでやってきたコログの声にホッとするような不思議な安堵感を覚えた。
「ねぇねぇ、オニーサ……」
「何用だ」
この間のように枝で突かれたくなかったのでさっさと起き上がれば、件のコログは驚き後ろにひっくり返りそうになる。
「ワワッ、気づかれタ……?!」
「また枝で叩き起こされるのは困るのでな」
「さ、サスガにあんな事もうしないヨ!」
コログは飛び跳ねながら怒りを表明する。
プンプン!と実際の音として聞こえてきそうな勢いで、どこぞの頭領が怒った時の様子によく似ていてなんとも言えない気持ちになった。
「ふん、信用ならん。何をしに来た。今日はすぐ森を発つ故、話し相手は出来ぬぞ」
「えっと、チガウの! 何度もお話してくれたオレイ、したくテ」
「礼だと……?」
「ウン!」
はいコレ!と先程から大事そうに持っていた手提げ袋を渡された。
「これは……」
渡された袋は森に自生している葉や蔦で出来ていた。
少し重い。
中には赤赤としたリンゴ6個と40個程の焼きドングリが入っている。
「オニーサンのタメにアツめたの! ドングリはヤいてるからヒモチするし、コウバシくておいしーヨ!」
最近こそこそどこかに行っていたのは、どうもこれが原因のようだ。
「タベれそうなドングリヘっちゃってコマってたんだケド、ミンナがテツダッテくれてこれだけアツまったんダヨ〜」
周囲をさり気なく見回すと、このコログに協力したらしき沢山のコログ達がこちらの様子をじいっと窺っていた。
(何かの見世物ではないかこれでは)
彼らの刺さるような視線に羞恥心を大いに刺激される。
「……わざわざこのような事をして、私を懐柔する気か? その手には乗らんぞ」
「か、カイジューなんてカンガえてないっテ!」
「では一体何を考えて」
「ソノ……オニーサン、すごくヤセてるから、シンパイで……」
「――――」
イーガの根城に訪れる度にあそこの頭領や幹部――果ては下っ端の構成員にまで似たような事を言われては大量のバナナを押し付けられて辟易していた所だったが、まさかコログにさえ健康状態を心配されるとは思わなかった。
(チッ……)
堂々と健康だと言い切れない自分に若干の苛立ちを覚えた。
「ドロドロのオニーサンたちはゴハンたべなくていいらしいケド、ホシミのオニーサンはチガウんだよネ?」
「まぁ、そうなるが……」
一人、必要ないのに気持ちが落ち着かないというただそれだけの理由で未だに岩をかじる輩がいるにはいるが、あれは特例中の特例だから除外して答えた。
「ならこれ食べテ! ゼッタイおいしーカラ!」
「……」
「もっとちゃんとゴハン食べてネ〜!」
「お、おい待て……!」
最後にそれだけ言って、コログは私が止める間もなくカラコロ足音を立ててデクの樹の方に戻っていった。
「はぁ……」
置いていかれた可愛らしい手提げ袋に目を落として、大きくため息を吐く。
(――余計なことを)
私はこの森を占拠し侵した人間だ。
だというのに彼らは一々構ってくる。
特にあのコログは好奇心を満たす為だけでなく、こちらの健康状態にまで気にかけてくる始末である。
確かに以前の毛虫の件は一応助かったが、今回のコレは正直言ってお節介そのものだった。
(このまま捨て置いても良いが……)
周りのコログの目もある。
本人に直接返品するのが一番無難だろう。
(いや、待てよ)
本人に返しに行く為に一瞬腰を浮かせようとして、はたと思い直す。
――食べ物は行商に売ればいくばくかの金になる。
イーガ団のアジトを出る度に押し付けられる土産のバナナも足がつかぬ程度に売っては路銀の足しにしている。
コログから押し付けられたコレも同じようにすれば、金に替わるし厄介な手荷物も消える。まさに一石二鳥だ。
もらったものをどう扱おうが私の勝手な筈だ。
利用出来るものは利用させてもらおう。
(そろそろ森を出なければ)
改めて立ち上がり、コログからもらった袋を肩に下げて天球儀を小脇に抱えた。
「――っ――」
やはりというか、やや袋が重たく感じる。
今はまだ良いが、数年後には私も戦闘の矢面に立たされる可能性がある。
己の体も少しは鍛えておいた方がよいのかもしれない。
(とても気が重い話だが……)
考慮する価値は高いだろう。
今後のことに思案を巡らせながら足早に広場を去った。
◆ ◆
「…………はぁ」
広場と森の境まで来た時、とある人物の姿が目に写って思わずまた大きなため息が出た。
だが丁度いい。
今日偽のリト族から報告を受けた苦情の件も含めてあの者にきっちり忠告しておかなければ。
「おっ、お努めご苦労さん!」
偽のゴロンの猛者が私に気づき、暢気に手を振ってくる。
その巨躯は所々赤黒い泥に覆われ、絶えずマグマが流れるデスマウンテンの尾根と似た模様を形作っていた。
「おめぇもう森を出るのか? 相変わらず忙しいヤツだなァ!」
もう片方の手には大きなハンマーのような剣ではなく、岩が握られていた。おそらく迷いの森の外れで採ってきたものだろう。
それを齧りながら見張りをしていたようだ。
(不真面目なやつめ……)
持ち場を離れて勝手な行動をとる点といい、見張りをしながら間食する点といい、怠慢極まりない。
この偽のゴロンの猛者……ゲルドの女やリトの戦士のように口はそこまで回らないが、岩を食べる・押し付けてくるという二点のみだけであの二人と同レベルかそれ以上に厄介だった。
他の幻影から聞いた話ではやれ料理をすり替えられて酷い目に遭っただとか、やれ会う度馬鹿デカイ岩を押し付けられそうになって辟易しただとか散々な言い様だった。
未だに会話が覚束ない偽のゾーラの王女でさえ『あれは……うん、ひどかった』と顔をしかめて厳しい口調で言い切るのだから相当のものだったのだろう。
実際何度も何度も如何に岩が美味しいか暑苦しく語られた上にそれをしつこく勧められれば、心底うんざりする気持ちも十二分に理解出来た。
「――おい、見張り中に岩をかじるな。何度言わせる気だ」
「おっと、すまねぇ! この辺の岩はデスマウンテンに近ぇから旨くてつい、な!」
偽のゴロンは食べた岩カス――もとい噛み砕いた砂利を周りに飛び散らかしながら豪放に笑う。
「……っ……」
飛んできた砂利が顔に当たって少しばかり痛い。
米粒程のごく小さな石つぶてが至近距離で顔にぶつけられていると言えば、この痛さも想像しやすいだろうか。
オクタが放ってくる岩ほどのダメージはないが、精神的なソレはこちらの方が上である。
「……岩のカスを飛ばしながら話すな。あまり勝手をやっているとお前だけ食事禁止の縛りを追加するぞ」
「なぁっ?!」
きつめの脅し文句に偽のゴロンは分かりやすく眉をハの字にさせた。
「そ、それだけは勘弁してくれ!!」
涙混じりに私の両肩を大きな両手でガッシと掴んで揺さぶり始める。
「森の見張りやら魔物達への指導やらで忙し過ぎて余裕ねぇんだよ! 後生だから今の俺様の唯一の楽しみを奪わないでくれぇっ!」
「痛っ……! えぇい、手を離せ! 私の肩を粉微塵にするつもりかっ……!」
「! おぉっと悪ぃ悪ぃ! 思わず手が出ちまって……」
あと少し私が声を上げるのが遅かったら肩が粉砕骨折する所だった。
「だ、大丈夫か……?」
「……安心しろ。骨は折れとらん」
少しだけ乱れたローブを整えながら、こちらを心配そうな顔で見てくる赤黒いゴロンに目をやる。
「全く……命じた役目を果たしてさえいれば、岩を食べても構わんと以前も言った筈だ」
強い口調で言い切る。
「ただし見張り中は止めろ。加えて言えば我々だけでなくボコブリンやリザルフォス達に岩を食べるよう何度も強要するのもだ。方方から苦情が来ている」
「げっ、そんなに苦情来てるのか?」
「ああ。あのおしゃべりなリト族がひどく言いづらそうに私に陳情してくる程度にはな」
「あーー………そこまで苦情来てンなら仕方ねぇ。俺も善処するぜ」
「その言葉、信じてやるからくれぐれも忘れるなよ?」
「へーいへい。ありゃ……?」
話も一段落した所で、偽のゴロンは唐突に何かに気付いたような声をあげた。
「? 一体どうした」
「それ、コログからの差し入れか? 」
指差したのはさっきコログから押し付けられた手提げ袋だった。
何か事情を知っているようだが……。
「そうだが貴様、どうしてそれを」
「少し前、ちっこいコログからおめぇに何か贈り物をしてぇって相談されてな」
食べ物でもやれば喜ぶだろうとアドバイスしてやったらしい。
「良かったじゃねぇか。コログから食いもんもらえるなんて早々あることじゃねぇしな!」
「――――」
共犯者は得意顔で大きく笑い、あくびれる様子は当然ない。
(まさかこやつが元凶だったとは……!)
頭を抱えた。
「それで、そのもらった食いもん……もう食べてやったのか?」
自分に寄越せとまでは言わないが貰った食べ物が気になるようで、偽のゴロンはどこかワクワクした顔で私に訊ねてくる。
「いや、元より食べるつもりはない。行商人にでも売って路銀の足しにするまでよ」
「なんだよ勿体無ぇなぁ。こういうのは歩きながら食べるのもオツなもんなのに」
いつも岩を食べ歩いているような奴に言われても説得力などないわと言いたい所だったが、時間も惜しいので心の中に留めておいた。
「ふん、くだらぬ。そもそも保存食として受け取ったものを今すぐ食べるなぞ卑しいにも……」
そこまで言って、急にお腹がグゥと鳴る。
「っ……?!」
反射的に手で腹を抑える。
そういえば半日以上胃に何も入れてなかった事を今更になって思い出した。
「……ブッ、ハッハッハッ! お前さんの腹は本人と違って随分素直なヤツだなァ!!」
リーバルのヤツもお前さんの腹くらい素直だったら良いんだけどよと、偽のゴロンはまたガハハと豪快に笑っていた。
「貴様、私を愚弄する気か」
「おいおい、ただの冗談にそんなカッカすんなって」
言いながら、目の前の巨岩は私の肩に大きな手をそっと置いてくる。
「――――」
それがまるで子どもを諭す父親のようで小さな苛立ちを覚えた。
「コログの奴らもお前さんの為にここ最近ずっとドングリ集め頑張ってたからよ。一粒位食ってやってもバチは当たらねぇと思うぜ?」
少しだけ手に力が入る。
もしここでバカ正直に嫌だと言えばしつこく食い下がってきそうな暑苦しい表情である。
「…………。善処はしよう」
問答を繰り返すのも面倒なので、先程目の前の巨岩が言った事と似たような返事を返してやった。
「ははっ! また森に来た時にでも食べた感想聞かせてくれよな!」
偽のゴロンは笑って肩から手を離す。
私の皮肉を込めたその場しのぎの嘘に気づいた様子はなかった。
「……では私は行く。しっかりここを護っていろよ」
「おう、オメェも気を付けてな!」
偽のゴロンと別れ、ようやく迷いの森に足を踏み入れる。
森の中に入ると僅かに残っていた日の光も失せ、真夜中のようにひんやりとしていた。
◆
「そうだ」
しばらく森の中を歩いて、とある事を思いつく。
「ちゃんと食べられるかどうか、確認しておかねば……」
あの偽のゴロンに言われたから食べようと思った訳では勿論ない。
もらった食べ物を売り払うにしても、しっかり中身を検分しておかなければ損をするからだ。
とりあえず、焼きドングリを袋から一粒取り出し、小さめのソレを口に放り込む。
「……ん…」
ドングリを噛めば芳ばしくもほのかに甘い香りが口の中に広がり鼻に抜けていく。
ドングリの実がやや小粒な為か、本来堅くて食べにくい皮までカリカリに焼けていて素晴らしく美味であった。
塩でもかけて食べればまた違う味が楽しめそうだ。
「――意外と美味いものだな」
焼きドングリを小袋から今度は二粒ほど取り出し、また口に放り込む。
「――――」
やはりとてつもなく美味い。
田舎の安い食堂で酒のあてなどに付いてくるような渋いソレと同じものだとは到底思えなかった。
森の中を歩きながらたまに焼きドングリを口に放り込むのを繰り返していたら段々喉が渇いてきた。
「確か、リンゴも入っていたな……」
袋の中を更にさぐれば瑞々しい香りを放つ真っ赤なリンゴが顔を出す。
一口かじってみればシャクリと小気味良い音が鳴り、口の中には新鮮で甘酸っぱい果汁が広がった。
(――ほう)
ここまで実がしっかり熟したリンゴも中々お目にかからない。流石退魔の剣を護る森で育ったリンゴだと感心する。
その森を侵し汚しているのが外でもない自分だと言うことに、僅かばかり罪悪感に苛まれた。
「…っ……」
事実を振り払うようにリンゴをまた齧る。
二口目は先程より酸味の効いた味がしたような気がした。
リンゴの甘酸っぱさに再び焼きドングリが欲しくなり、今度は三粒まとめて口に放り込みながら迷いの森の入口を目指した。
◆
そうしてもらった焼きドングリとリンゴを食べ歩いていたら迷いの森を出る頃には焼きドングリは30個になり、ゲルドキャニオン入口に到着した時にはドングリはおろかリンゴさえもがアストルの胃の中に消えていた。
行商人に売れるものは既になく、彼は仕方なく空になった袋を持ってイーガ団のアジトに赴く羽目になったのである。
ちなみにアストルが再びアジトを出る時、例の袋にツルギバナナが山のように入れられていたのは言うまでもないことだった。
古い言い伝え曰く、夕暮れの桜には魔が宿るらしい。
黄昏の光によって影の世界より迷いでたソレが、居場所を求めて桜の花に身を寄せるのだという。
その時間帯の桜が、他の時とは違う妖しい色を帯びるのはそのせいなのだそうだ。
◆
―――ハイラル大森林、コログの森
カラスもねぐらに戻り始める日暮れ時、退魔の剣が納められている台座前の広場に程近い木陰で星見の男がまた一人で眠っていた。
舞い落ちる桜の花びらは森に満ちる茜を吸い込んで燃えるような紅へと色を変え、男を独り占めするかの如く彼の纏う宵闇色のローブを埋め尽くしている。
花びら達がまるで厄災の吐き出す泥のように妖しく艶めく様は、よくないモノが真綿で優しく首を締めるように少しずつ彼を――そしてこの森全体を浸食していくようであった。
◆ ◆
「…っ……」
夕暮れ時の肌寒い風に首筋をするりと撫でられ、目が覚める。
木陰から覗く空は既に朱色を帯び、遠くからカラスのくたびれた鳴き声が聞こえてきた。
今日は日が落ちてから森を出るつもりだったのだが、いつぞやのように予定より早く起きてしまったようだ。
「また、か……」
それでも予定より遅くなるよりかはマシだ。
イーガの者達は一見愉快でおおらかなように見えるが、実際約束事や時間にはとても厳しい。
ある程度彼らの信頼を得てきたとは言え、あそこの参謀は未だに私を露骨に警戒する。
現状を考えれば早めに行動できる方が都合が良い。
「……ふぅ」
息を吐いて、また目を閉じ直す。
体を休ませる時間をほんの少し引き伸ばしながら、最近の出来事をぼんやり思い返した。
◆
――イーガとの協力体制は今の所良好である。
先日あの組織内の研究者らと共に進めていたモリブリンに炎の属性を宿す実験にようやく成功して一段落したところだ。
ファイヤウィズローブが使う杖の宝玉の欠片をいくつか体内に埋め込むという物理的でごく単純なものだったが、殊の外上手くいった。
改造方法も簡易なものだから今後増やす必要が出てきても困ることはないだろう。
イーガの研究者達は今後は他の属性や違う種の魔物でも試してみると言う。
電気の属性を持つモリブリンを多く作りだせれば、対ゾーラ族への切り札にもなりえる。
ライネルやヒノックス等の元々強力な魔物にも付与出来ればなお心強い。
今後の研究の進み具合が楽しみでならない。
この森で幻影らに指導させている魔物達の戦闘訓練の進捗も良好である。
最初こそ難色を示した彼らだったが、私の命令は絶対だ。渋々ではあるが一応真面目に取り組んでいるのは訓練を受けている魔物の様子を見れば一目瞭然だった。
元より優れた戦士の姿と記憶を模した彼らは教え方も上手いようで、既に単体で森周辺の偵察さえ任せられる程の魔物が数匹育ち上がっているとの報告も受けた。
大変良い傾向だ。
――現状を一言で表すならかねがね順調…というところである。
厄災復活という祝福すべき約束の日を、より良い状況で迎える準備は着々と進んでいる。驚くべきことに大きな問題は未だに一つも起こっていない。
幾度か退魔の剣の安置されている迷いの森を奪還しようとハイリア軍が攻めて来たが、地の利はこちらにある為撃退は容易であった。
星見の結果でさえ悪い兆しは全く見えない。
順調過ぎて逆に怖い位ではあるが、今のこの状況が厄災復活の日まで崩れないまま続くことを願うばかりである。
◆
「タララ〜♪ タララ〜♪ タリラリラ〜♪」
(……っ!)
思考に耽っていると、急に調子の外れた鼻歌と葉音のカラコロ鳴る音が聞こえてきたので思わず身構える。
「アー、ホシミのオニーサンまたネテるー」
(あのコログ……)
近寄ってきたのはいつか私に集ろうとしていた毛虫を追い払ってくれたコログだった。
「コマったナ……またオコさないト……」
あの日以降このコログとは二~三言言葉を交わすようになってはいたのだが、最近になって挨拶もそこそこにそそくさとどこかに行ってしまうようになった。
飽きられたのか怖がられたのかは定かではない。
コログにそっけなくされて仲良くなりたい気持ちが芽生えた訳では決してない。
ただ、急によそよそしい態度を取り始めたこのコログに対して釈然としない気持ちが日に日に増していたのは確かだった。
(今更、また何の用があるというのか……)
あちらから話しかけられていた頃はその度にうんざりしていたはずなのに、久々に自分のもとまでやってきたコログの声にホッとするような不思議な安堵感を覚えた。
「ねぇねぇ、オニーサ……」
「何用だ」
この間のように枝で突かれたくなかったのでさっさと起き上がれば、件のコログは驚き後ろにひっくり返りそうになる。
「ワワッ、気づかれタ……?!」
「また枝で叩き起こされるのは困るのでな」
「さ、サスガにあんな事もうしないヨ!」
コログは飛び跳ねながら怒りを表明する。
プンプン!と実際の音として聞こえてきそうな勢いで、どこぞの頭領が怒った時の様子によく似ていてなんとも言えない気持ちになった。
「ふん、信用ならん。何をしに来た。今日はすぐ森を発つ故、話し相手は出来ぬぞ」
「えっと、チガウの! 何度もお話してくれたオレイ、したくテ」
「礼だと……?」
「ウン!」
はいコレ!と先程から大事そうに持っていた手提げ袋を渡された。
「これは……」
渡された袋は森に自生している葉や蔦で出来ていた。
少し重い。
中には赤赤としたリンゴ6個と40個程の焼きドングリが入っている。
「オニーサンのタメにアツめたの! ドングリはヤいてるからヒモチするし、コウバシくておいしーヨ!」
最近こそこそどこかに行っていたのは、どうもこれが原因のようだ。
「タベれそうなドングリヘっちゃってコマってたんだケド、ミンナがテツダッテくれてこれだけアツまったんダヨ〜」
周囲をさり気なく見回すと、このコログに協力したらしき沢山のコログ達がこちらの様子をじいっと窺っていた。
(何かの見世物ではないかこれでは)
彼らの刺さるような視線に羞恥心を大いに刺激される。
「……わざわざこのような事をして、私を懐柔する気か? その手には乗らんぞ」
「か、カイジューなんてカンガえてないっテ!」
「では一体何を考えて」
「ソノ……オニーサン、すごくヤセてるから、シンパイで……」
「――――」
イーガの根城に訪れる度にあそこの頭領や幹部――果ては下っ端の構成員にまで似たような事を言われては大量のバナナを押し付けられて辟易していた所だったが、まさかコログにさえ健康状態を心配されるとは思わなかった。
(チッ……)
堂々と健康だと言い切れない自分に若干の苛立ちを覚えた。
「ドロドロのオニーサンたちはゴハンたべなくていいらしいケド、ホシミのオニーサンはチガウんだよネ?」
「まぁ、そうなるが……」
一人、必要ないのに気持ちが落ち着かないというただそれだけの理由で未だに岩をかじる輩がいるにはいるが、あれは特例中の特例だから除外して答えた。
「ならこれ食べテ! ゼッタイおいしーカラ!」
「……」
「もっとちゃんとゴハン食べてネ〜!」
「お、おい待て……!」
最後にそれだけ言って、コログは私が止める間もなくカラコロ足音を立ててデクの樹の方に戻っていった。
「はぁ……」
置いていかれた可愛らしい手提げ袋に目を落として、大きくため息を吐く。
(――余計なことを)
私はこの森を占拠し侵した人間だ。
だというのに彼らは一々構ってくる。
特にあのコログは好奇心を満たす為だけでなく、こちらの健康状態にまで気にかけてくる始末である。
確かに以前の毛虫の件は一応助かったが、今回のコレは正直言ってお節介そのものだった。
(このまま捨て置いても良いが……)
周りのコログの目もある。
本人に直接返品するのが一番無難だろう。
(いや、待てよ)
本人に返しに行く為に一瞬腰を浮かせようとして、はたと思い直す。
――食べ物は行商に売ればいくばくかの金になる。
イーガ団のアジトを出る度に押し付けられる土産のバナナも足がつかぬ程度に売っては路銀の足しにしている。
コログから押し付けられたコレも同じようにすれば、金に替わるし厄介な手荷物も消える。まさに一石二鳥だ。
もらったものをどう扱おうが私の勝手な筈だ。
利用出来るものは利用させてもらおう。
(そろそろ森を出なければ)
改めて立ち上がり、コログからもらった袋を肩に下げて天球儀を小脇に抱えた。
「――っ――」
やはりというか、やや袋が重たく感じる。
今はまだ良いが、数年後には私も戦闘の矢面に立たされる可能性がある。
己の体も少しは鍛えておいた方がよいのかもしれない。
(とても気が重い話だが……)
考慮する価値は高いだろう。
今後のことに思案を巡らせながら足早に広場を去った。
◆ ◆
「…………はぁ」
広場と森の境まで来た時、とある人物の姿が目に写って思わずまた大きなため息が出た。
だが丁度いい。
今日偽のリト族から報告を受けた苦情の件も含めてあの者にきっちり忠告しておかなければ。
「おっ、お努めご苦労さん!」
偽のゴロンの猛者が私に気づき、暢気に手を振ってくる。
その巨躯は所々赤黒い泥に覆われ、絶えずマグマが流れるデスマウンテンの尾根と似た模様を形作っていた。
「おめぇもう森を出るのか? 相変わらず忙しいヤツだなァ!」
もう片方の手には大きなハンマーのような剣ではなく、岩が握られていた。おそらく迷いの森の外れで採ってきたものだろう。
それを齧りながら見張りをしていたようだ。
(不真面目なやつめ……)
持ち場を離れて勝手な行動をとる点といい、見張りをしながら間食する点といい、怠慢極まりない。
この偽のゴロンの猛者……ゲルドの女やリトの戦士のように口はそこまで回らないが、岩を食べる・押し付けてくるという二点のみだけであの二人と同レベルかそれ以上に厄介だった。
他の幻影から聞いた話ではやれ料理をすり替えられて酷い目に遭っただとか、やれ会う度馬鹿デカイ岩を押し付けられそうになって辟易しただとか散々な言い様だった。
未だに会話が覚束ない偽のゾーラの王女でさえ『あれは……うん、ひどかった』と顔をしかめて厳しい口調で言い切るのだから相当のものだったのだろう。
実際何度も何度も如何に岩が美味しいか暑苦しく語られた上にそれをしつこく勧められれば、心底うんざりする気持ちも十二分に理解出来た。
「――おい、見張り中に岩をかじるな。何度言わせる気だ」
「おっと、すまねぇ! この辺の岩はデスマウンテンに近ぇから旨くてつい、な!」
偽のゴロンは食べた岩カス――もとい噛み砕いた砂利を周りに飛び散らかしながら豪放に笑う。
「……っ……」
飛んできた砂利が顔に当たって少しばかり痛い。
米粒程のごく小さな石つぶてが至近距離で顔にぶつけられていると言えば、この痛さも想像しやすいだろうか。
オクタが放ってくる岩ほどのダメージはないが、精神的なソレはこちらの方が上である。
「……岩のカスを飛ばしながら話すな。あまり勝手をやっているとお前だけ食事禁止の縛りを追加するぞ」
「なぁっ?!」
きつめの脅し文句に偽のゴロンは分かりやすく眉をハの字にさせた。
「そ、それだけは勘弁してくれ!!」
涙混じりに私の両肩を大きな両手でガッシと掴んで揺さぶり始める。
「森の見張りやら魔物達への指導やらで忙し過ぎて余裕ねぇんだよ! 後生だから今の俺様の唯一の楽しみを奪わないでくれぇっ!」
「痛っ……! えぇい、手を離せ! 私の肩を粉微塵にするつもりかっ……!」
「! おぉっと悪ぃ悪ぃ! 思わず手が出ちまって……」
あと少し私が声を上げるのが遅かったら肩が粉砕骨折する所だった。
「だ、大丈夫か……?」
「……安心しろ。骨は折れとらん」
少しだけ乱れたローブを整えながら、こちらを心配そうな顔で見てくる赤黒いゴロンに目をやる。
「全く……命じた役目を果たしてさえいれば、岩を食べても構わんと以前も言った筈だ」
強い口調で言い切る。
「ただし見張り中は止めろ。加えて言えば我々だけでなくボコブリンやリザルフォス達に岩を食べるよう何度も強要するのもだ。方方から苦情が来ている」
「げっ、そんなに苦情来てるのか?」
「ああ。あのおしゃべりなリト族がひどく言いづらそうに私に陳情してくる程度にはな」
「あーー………そこまで苦情来てンなら仕方ねぇ。俺も善処するぜ」
「その言葉、信じてやるからくれぐれも忘れるなよ?」
「へーいへい。ありゃ……?」
話も一段落した所で、偽のゴロンは唐突に何かに気付いたような声をあげた。
「? 一体どうした」
「それ、コログからの差し入れか? 」
指差したのはさっきコログから押し付けられた手提げ袋だった。
何か事情を知っているようだが……。
「そうだが貴様、どうしてそれを」
「少し前、ちっこいコログからおめぇに何か贈り物をしてぇって相談されてな」
食べ物でもやれば喜ぶだろうとアドバイスしてやったらしい。
「良かったじゃねぇか。コログから食いもんもらえるなんて早々あることじゃねぇしな!」
「――――」
共犯者は得意顔で大きく笑い、あくびれる様子は当然ない。
(まさかこやつが元凶だったとは……!)
頭を抱えた。
「それで、そのもらった食いもん……もう食べてやったのか?」
自分に寄越せとまでは言わないが貰った食べ物が気になるようで、偽のゴロンはどこかワクワクした顔で私に訊ねてくる。
「いや、元より食べるつもりはない。行商人にでも売って路銀の足しにするまでよ」
「なんだよ勿体無ぇなぁ。こういうのは歩きながら食べるのもオツなもんなのに」
いつも岩を食べ歩いているような奴に言われても説得力などないわと言いたい所だったが、時間も惜しいので心の中に留めておいた。
「ふん、くだらぬ。そもそも保存食として受け取ったものを今すぐ食べるなぞ卑しいにも……」
そこまで言って、急にお腹がグゥと鳴る。
「っ……?!」
反射的に手で腹を抑える。
そういえば半日以上胃に何も入れてなかった事を今更になって思い出した。
「……ブッ、ハッハッハッ! お前さんの腹は本人と違って随分素直なヤツだなァ!!」
リーバルのヤツもお前さんの腹くらい素直だったら良いんだけどよと、偽のゴロンはまたガハハと豪快に笑っていた。
「貴様、私を愚弄する気か」
「おいおい、ただの冗談にそんなカッカすんなって」
言いながら、目の前の巨岩は私の肩に大きな手をそっと置いてくる。
「――――」
それがまるで子どもを諭す父親のようで小さな苛立ちを覚えた。
「コログの奴らもお前さんの為にここ最近ずっとドングリ集め頑張ってたからよ。一粒位食ってやってもバチは当たらねぇと思うぜ?」
少しだけ手に力が入る。
もしここでバカ正直に嫌だと言えばしつこく食い下がってきそうな暑苦しい表情である。
「…………。善処はしよう」
問答を繰り返すのも面倒なので、先程目の前の巨岩が言った事と似たような返事を返してやった。
「ははっ! また森に来た時にでも食べた感想聞かせてくれよな!」
偽のゴロンは笑って肩から手を離す。
私の皮肉を込めたその場しのぎの嘘に気づいた様子はなかった。
「……では私は行く。しっかりここを護っていろよ」
「おう、オメェも気を付けてな!」
偽のゴロンと別れ、ようやく迷いの森に足を踏み入れる。
森の中に入ると僅かに残っていた日の光も失せ、真夜中のようにひんやりとしていた。
◆
「そうだ」
しばらく森の中を歩いて、とある事を思いつく。
「ちゃんと食べられるかどうか、確認しておかねば……」
あの偽のゴロンに言われたから食べようと思った訳では勿論ない。
もらった食べ物を売り払うにしても、しっかり中身を検分しておかなければ損をするからだ。
とりあえず、焼きドングリを袋から一粒取り出し、小さめのソレを口に放り込む。
「……ん…」
ドングリを噛めば芳ばしくもほのかに甘い香りが口の中に広がり鼻に抜けていく。
ドングリの実がやや小粒な為か、本来堅くて食べにくい皮までカリカリに焼けていて素晴らしく美味であった。
塩でもかけて食べればまた違う味が楽しめそうだ。
「――意外と美味いものだな」
焼きドングリを小袋から今度は二粒ほど取り出し、また口に放り込む。
「――――」
やはりとてつもなく美味い。
田舎の安い食堂で酒のあてなどに付いてくるような渋いソレと同じものだとは到底思えなかった。
森の中を歩きながらたまに焼きドングリを口に放り込むのを繰り返していたら段々喉が渇いてきた。
「確か、リンゴも入っていたな……」
袋の中を更にさぐれば瑞々しい香りを放つ真っ赤なリンゴが顔を出す。
一口かじってみればシャクリと小気味良い音が鳴り、口の中には新鮮で甘酸っぱい果汁が広がった。
(――ほう)
ここまで実がしっかり熟したリンゴも中々お目にかからない。流石退魔の剣を護る森で育ったリンゴだと感心する。
その森を侵し汚しているのが外でもない自分だと言うことに、僅かばかり罪悪感に苛まれた。
「…っ……」
事実を振り払うようにリンゴをまた齧る。
二口目は先程より酸味の効いた味がしたような気がした。
リンゴの甘酸っぱさに再び焼きドングリが欲しくなり、今度は三粒まとめて口に放り込みながら迷いの森の入口を目指した。
◆
そうしてもらった焼きドングリとリンゴを食べ歩いていたら迷いの森を出る頃には焼きドングリは30個になり、ゲルドキャニオン入口に到着した時にはドングリはおろかリンゴさえもがアストルの胃の中に消えていた。
行商人に売れるものは既になく、彼は仕方なく空になった袋を持ってイーガ団のアジトに赴く羽目になったのである。
ちなみにアストルが再びアジトを出る時、例の袋にツルギバナナが山のように入れられていたのは言うまでもないことだった。