薔薇を贈り合う二人
【青薔薇散りて】
―――厄災封印から十一年後、タバンタ辺境某所
「――久しぶりだね」
防寒用に繕われた厚手の黒いローブの裾がシャリバ山から吹き降りる涼風にふわりとなびく。
眼下に飛行訓練場を臨む小高い丘の端、ぽつんと据え置かれた小さな青い石碑の前に私はいた。
周りには誰もいない。
今回のヘブラ地方への長旅に同行してもらっているセゴンにはリトの村で待ってもらっている。
ここだけはどうしても一人で訪れたかったから。
「ふぅ……」
フードを降ろす。
降雪地方特有のひんやりとした空気が村からこの丘まで歩いてきて若干熱を帯びた私の体を優しく冷やしていく。
ゾーラの里からここに辿り着くまで、とても長い道のりだった。
ハイラル王国は他国と比べ小国だと聞くけれど、実際自分の足で旅をしてみたらかなり広い方なのではないかと思う。
里から川を下って終焉の谷近くまで泳ぎ、マリッタ馬宿〜タバンタ村経由でリトの村まで到着するのに結構な日数がかかってしまった。
終焉の谷以降はゾーラ族 が移動に使えそうな川や湖もないので、途中馬車を借りたり慣れない乗馬に四苦八苦しながらようやく辿り着いたのだ。
シーカータワーの機能を利用すればあっという間だったけど、今回この地方をじっくり見て周りたかったから敢えて使わなかった。
すぐ行けるだけの心の準備が終わっていなかったとも言うけれど。
「綺麗……」
空を見上げる。今日は雲一つない快晴だ。
リトの族長さんには天気が荒れやすい冬近いこの時期にここまで空が晴れ渡るのはとても珍しいのだと聞かされた。
「ずっと見てると吸い込まれそう……」
英傑の衣より澄んだ薄青の中をシマオタカが濃い紫の翼を広げて悠々と滑空し、甲高くも心地よい声で鳴く。
背後からクツクツと木の実を転がすような音がして振り返れば、少し離れた所でマシロバトが赤いトサカをキョロキョロ忙しなくさせて食べられそうなものを探していた。
この石碑の先、丘の崖下にある飛行訓練場からはあの地で猛る上昇気流の唸り声に混じり、時折弓の弦がばしんとしなる音や射られた矢が的に刺さる快音が聞こえてくる。
きっと戦士を目指すリト族の少年や青年達が修練中なのだろう。
その音には修練に取り組む彼らの真剣さや熱意がこもっているようだった。
南の方に目をやれば辛うじてだがリトの村の様子も伺える。
目を凝らすと村に設けられた階段をリトの子ども達がよちよち歩きで元気に登り降りする姿が見えて、思わず笑みがこぼれた。
「ここ、とっても良い場所だね」
飛行訓練場もすぐそこに在り、村の様子も分かる。
何より風が心地よい。
この場所なら何かとこだわりの強かった"あの人"でも文句は言わないだろう。
もしかして"彼"自身がここが良いと指定したのかもしれないけど、それを村の人に訊くのはなんとなくはばかられた。
一通り辺りを見回して、石碑の前でしゃがむ。
石板に積もった雪を指でそっと払うと、そこに刻まれていた文字が顔を出した。
『 空を愛し風に愛されし稀代の戦士
リトの英傑リーバル ここに眠る 』
「お参りに来たよ、リーバルさん」
なるべくいつも通りの声で、今は亡きリトの英傑の――昔私を好きだと言ってくれた人の名を呼んだ。
◇ ◇
本当に唐突だった。
彼の死が知らされたのは。
今からおよそ一年前、恐ろしい流行り病が突如としてヘブラ地方を襲った。
でもまさか、厄災討伐の折に活躍したリトの英傑の命までもがそれで奪われるなんて誰が思っただろう。
感染力も致死率も高いその流行り病はまたたく間にリトの村やタバンタ村で広まり、あの地方との境に簡易的な関が設けられ人の出入りも流通も制限されるまで十日とかからなかった。
王家はすぐさまシーカー族に病の原因解明と特効薬の開発を指示し、古代研究所は一時的にその研究の為の場となった。
私達ゾーラ族でも物資を送ったり出来得る限りの支援をしたが、それはゲルドやゴロンも同じだった。
王家との対立は止めたが今なおカルサー谷のアジトに引きこもっているイーガ団までもが、報せを受けて大好きなバナナを大量にリトの村やタバンタ村へ送ったと聞いて、胸が温かくなったのが懐かしい。
しばらく経って件 の病はリト族が特に重篤化しやすい事が判明したのを知り、私は気が気じゃなくなる思いだった。
私の治癒の力には直接病気を根治する力はない。
でも病によって負ってしまう体の各器官の痛みや負担を和らげることはできる。
病魔に苦しむ人達を知らぬふりなんて出来ない……。
そんな思いから、自分の力を少しでも役立てて欲しくてリトの族長宛に手紙で村への訪問を願い出た。
けれど返事は色良いものではなかった。
他種族のしかも王族である御身を危険にさらす訳にはいかないと固辞され、リーバルさんからも別途『絶対に来るな』と殴り書きの手紙までが届いて釘を刺されてしまった。
手紙をもらってすぐは言われた通りにしようと一応我慢はした。けど四日後にはいても立ってもいられなくなり、結局私は御父様達に黙って里を飛び出した。
そうして一人でハイラル城まで赴き、ヘブラ地方への通行許可を得ようと姫様に頼み込んでいる矢先だったと思う。
彼の訃報を聞いたのは……。
殴り書きの手紙を受け取って、およそ一週間後のことだった。
急遽ハイラル城城下の大聖堂にて病魔に倒れたリトの英傑の国葬が執り行われたが、棺には彼の愛弓であるオオワシの弓の[[rb:模造品 > レプリカ]]しか入っていなかった。
――棺に彼の亡骸がなかったのは感染対策の一環で既に火葬済だったから。
私達はかの戦士の死に顔さえ見ることが出来ないまま、死んだ事実だけを突きつけられた。
深い空の色をした艷やかな翼も風を封じ込めたような翡翠の瞳も、既に煙となってヘブラの寒空に消えてしまった後の……形だけの別れ。
あの国葬はつまる所、突然置いていかれた私達の気持ちを納得させる為のけじめの儀式だった。
『――今日は単に、君への気持ちにけじめをつけたかっただけなんだよ』
昔、彼が私に言った言葉が頭の中をずっと逡巡していた。リトの村の上空をぐるりぐるりと飛んでいたかつてのメドーのように。
国葬の日は雨が降っていた。
あの人が嫌いだった――空がしくしく泣いているような、冷たい霧雨。
葬儀中、ダルケルさんは丸くて青い目から涙を沢山溢れさせて号泣していたし、ウルボザさんは年上の私達より先に逝くやつがあるかと涙を滲ませていた。
リンクは泣いてこそいなかったけど、とても辛そうな顔をしていた。
酷い怪我を負った時でさえこんなに苦しそうな顔をする幼馴染を私は見たことがなかった。
リトの英傑という存在は彼にとっても大きなものだったのだと、あの時やっと悟ったように思う。
姫様は葬儀の直前までテラコを抱き締めて涙を零していたが、その後は王家の次期王女としての顔を一切崩すことなく粛々と己の役目をこなしていた。
葬儀が終わった後、こういうことは慣れていますからと呟いた彼女の声はひどく渇いていた。
――ちなみに私は……どういう訳か、一切涙が出なかった。
とても悲しいのに涙が出ないなんて生まれて初めてだったように思う。
ショックが大き過ぎたのだろうと皆は私を心配してくれたけれど、理由は今なお分からず終いだ。
◇ ◇
「これ、プルアさんとロベリーさんが貴方のお墓にって」
墓前でのお祈りを終え、サファイアのように深い青色の薔薇の花束を彼の墓石に供える。
数は五本とやや少なめだけど、ようやく咲いた十本の内の半分らしいので彼も満足するだろう。
「貴方の羽色とよく似て、とっても綺麗でしょう?」
人為的に作り出された青い薔薇は日が落ちるとシノビ草のように淡く光るのだという。
「これも古代シーカー族の叡智の一端……らしいよ」
ロベリーさん曰く、"いでんしそうさ"というらしい。
難しいことはよく分からないけど、他の植物が持つ青い花色の素を作る遺伝子を薔薇にうまく組み込んで、本来自然界ではありえない青色の薔薇を咲かせることに成功したのだそうだ。
古代シーカー族の叡智の平和利用――厄災封印後に掲げていた彼らの研究の一つが遂に完成したのである。
「今度の厄災封印記念の城での式典には、姫しずかとこの薔薇を城内に沢山飾る予定なんだって」
本当なら皆で揃ってその様子を見たかったという言葉は口に出さずに飲み込んだ。
◇ ◇
彼の国葬後しばらくして、プルアさんらシーカー族の研究者達の手によって特効薬が完成した。
この薬のお陰であの地方を襲った病魔の嵐はようやく止んだのだった。
ロベリーさんはあともう少し薬の完成が早ければと悔しさと悲しさを声音に滲ませていた。
プルアさんはこれだからせっかちなヤツは困るのヨと、眼鏡の奥の赤い瞳を少しだけ潤ませて苦笑いしていたのが今は懐かしい。
◇ ◇
「――――」
また空を見上げる。
村の上空には、遠くセラの滝やラルート大橋からも見ることが出来た風の神獣の姿はもうない。
繰り手を亡くした巨鳥は現在タバンタ雪原の白銀の上で翼を休めている。
彼が病を患ってすぐ、万が一の時を考えて急遽そこに停めてそのままらしい。
もし今後あの神獣を雪原から移動させる必要が出てきたら、私達他の英傑の誰かがテラコの力を借りて動かすことになるだろうと姫様は言っていた。
その第一候補になり得るのは私だとも。
今も続けられている四神獣の最新の調査結果によれば、私もあの巨鳥を繰る適性が高いと判明したらしい。
理由はまだよく分かっていないが、何かあればミファーにあの神獣を繰ってもらうことになるでしょうと言われた。
異国には空を飛ぶのを止めて海を泳ぐようになった鳥もいると聞いたことがある。
水と風――異なるものの中を泳ぎあるいは翔けた私とリーバルさんだけど、水の中を泳ぐのも空を飛ぶのも根っこの部分はもしかしてあまり変わりがないのかもしれない。
でも、メドー のことは出来ればそっとしてあげたいと私は思う。
道中、少しだけ寄り道をして南タバンタ雪原にその身を横たえているメドーに会いに行ったのだけど、"彼女"はこちらの呼びかけに全く応じてくれなかった。
主の死を受け止めその喪に服すように、あの神獣は眠ったように動かなかったのだ。
あれを見て、風の神獣はやはり風に愛された蒼翼と共に在るべきだと改めて強く思った。
出来るなら彼らの絆を侵したくない。
メドーを繰らなければならない事態が今後一切来ないことを祈るばかりだ。
◇ ◇
「そういえば結局、リンクに好きって言えないままになっちゃったな」
リーバルさんの告白を断った後、私はリンクに想いを告げられないまま十年以上時が過ぎてしまった。
あの人が遊びに来てくれた日、運悪く私達の里は魔物達の奇襲を受けた。
魔物達を倒した後に鎧だけは渡すことが出来たのだけど、奇襲によって傷ついたゾーラの兵の怪我の対応に追われて肝心の彼への想いは言えず終いとなった。
後日改めて告白しようと考えたけれど、もし断られて先に渡した鎧を返されたらと考えたらひどく怖くなって、そのまま長い年数を重ねてしまったのだ。
リーバルさんにはいつか『君がそれで良いんなら』と言われたけど、どこか納得していない顔をしていた。
「ごめんね、勇気づけてもらったのに」
結局、あの夕暮れ時のセラの滝で彼に分けてもらったはずの勇気は泡のように消え、勇気を分けてくれた彼もまた風のように消えてしまった。
ついでに言えば、あの時押し付けられた大きな赤い薔薇ももう残っていない。
「今からでも、リンクに告白した方がいいと思う?」
返事は当然ない。
万が一あったとしても、流石に呆れられて『好きにすれば』と言われてしまいそうだ。
「ごめん、今のは忘れて……」
墓参りに来てまでこんな話をしてしまう自身の弱さに若干嫌気がさした。
◇ ◇
そろそろ村に戻ろうかと考え始めた時、突如大きな風の柱が訓練場の方で立ち昇ったのが見えた。
「! あれは……」
思わず、訓練場を覗き込む。
風の柱はその後すぐ消えてしまったが、あの上へ上へと風が勢いよく昇っていく様はリトの英傑の大技、リーバルトルネードを思い起こさせた。
風が巻き起こっていた訓練場の桟橋近くでは、黒い羽毛のリト族の青年が一人脚を投げ出して肩でぜいぜいと息をしている。
どうも、あの青年がさっきの大きな風の柱を生み出していたようだ。おそらくその後の制御がうまくいかず、気流が霧散してしまったのだろう。
怪我をした様子はなさそうでひとまずホッとする。
「あの技に挑戦してる人、初めて見た」
挑戦者は後を絶たないという話は聞いてはいたけど、実際見るのは初めてだった。
厄災封印後すぐ、彼はあの技の詳しい仕組みや実際行った修練法等を全て本に記し、村の族長に託したと聞いた。
他のリトの戦士にもあの技を広める為に。
リーバルさんはよく『この技を僕だけの専売特許にするつもりは毛頭ないよ』と言っていた。
『今後他の連中が使えるようになっても、最初にこの技を編み出したのが僕だという事実は例え百年経ってもずっと変わらないからね』とも。
しかしながらあの技は危険と隣り合わせの大技だ。
技の全てがリトの皆に広まって十年以上経っても彼以外の使い手が現れない程には、上昇気流の制御が難しいようだ。
今は特に唯一の使い手だったリーバルさんがいない為、直接アドバイスを聞くことさえ出来なくなった。
「リトの男の人達って、皆勇敢だね」
にも関わらず、未だに果敢に挑戦する人達が絶えないことに彼もきっと喜んでいるに違いない。
「…………」
感心するのと同時に、それとは関係のないことで少し胸が痛んだ。
「あんなに、違うんだ」
先程のあの風はリーバルさんが操るソレとは形も音も異なっていた。
たとえ練習中の未完成な状態であったとしても、扱う人が違えばこうも変わってしまうのかと愕然とする。
リーバルさんの――リトの英傑のあの鮮烈かつ猛々しい風の巡りは、まさしく唯一彼にだけ与えられたものだったようだ。
あの人の風は既に舞い翔けるのを止めてしまってもうこの世界のどこにも存在しない。
至極当たり前の事実を今になって改めて突きつけられた心地だった。
「リーバルさん……」
今更ながら、それがひどく悲しくて急に胸が苦しくなる。
今までずっと、心のどこかであの人の死を受け入れられていなかったのかもしれない。
国葬の時も彼の姿を見ることは出来なかったから、余計に。
リトの村に来さえすればメドーが上空を緩やかに巡る中、彼が出迎えてくれるものだと愚かしくもほのかに期待していた。
何者にも縛られず軽やかに空を舞い翔けていた蒼翼が、病という魔手に絡み取られて逝ってしまうなんて信じたくなかったのだと思う。
でもそれが今日、完膚無きまでに打ち砕かれた。
風の神獣は既にこの空になく、リトの村から遠く離れた雪原に翼を広げたまま眠ったように動かない。
村を訪れた私とセゴンを出迎えてくれたのはリトの族長さんだった。
そして当のリトの英傑は一年も前からこの小さなお墓の下で眠っている。
どこにも言い逃れの出来ない、現実だった。
「本当に、いなくなっちゃったんだね」
彼が死んでしまった事実をようやく心の底から理解した。
否、理解せざるを得なかった。
「――っ――」
目頭が焼け付くように熱くなり、じわじわと目尻に涙が溜まっていく。
一年近く出てくれなかった涙が今、ようやく溢れ始めた。
《――全く……》
溢れた涙が一筋頬を滑り落ちた時、どこからともなく聞き覚えのある呆れ声が聞こえた気がした。
《君は相変わらず泣き虫だねぇ……》
ヘブラの寒風のように凛として、やや低くも伸びやかな美しい調べ 。
「えっ……? きゃっ……!」
急に周囲の大気が荒れ始め、着ていたローブもバタバタ騒ぎ出す。
墓石の上に生まれたつむじ風はどんどん勢いを増し、大きな竜巻みたいな形を成していく。
強風に煽られ暴れるローブを抱きしめるように抑えながら、その様に思わず息を飲んだ。
「この風……」
このつむじ風には憶えがあった。
暴れまわる空気の塊をかき集めたような空のさざめき。
キンと冷え切ったヘブラの山々を思わせる透明な雪の匂い。
そしてこの猛々しくも柔らかい、懐かしい風の感触――。
リトの英傑だけが織り上げられる唯一無二の風の猛り。
「あっ、花束が……!」
先程墓石の上に供えた花束が烈風の渦に巻き込まれ、宙に浮き上がる。
こちらが手を伸ばすより早く、薔薇を包んでいた紙やリボンがあっという間に吹き飛ばされていく。
剥き身になってしまった青薔薇は猛風の勢いに当然勝てず、糸がほどけるように千切れた花びら達が空高く舞い上がっていった。
「……っ!」
ついでのように、目から僅かに零れた涙は一際冷たい突風の指先に拭われた。
ここで泣いてくれるなと、言われた気がした。
「――――」
巻き起こった猛風はその後すぐ、幻のようにパタリと止んだ。
花束を包んでいた浅葱色の紙や群青のリボンも、薔薇の茎や葉さえ見当たらない。全部どこかに吹き飛ばされてしまったようだ。
一方、風に巻き上げられて空に散った青い花びら達はやがて力を失い、墓石の周りにゆっくりと舞い落ちてくる。
ふわりふわりと。
抜け落ちた鳥の羽根か、音も無く降り落ちる雪のように。
その様をただじっと見守った。
そういえば一つ、思い出したことがあった。
リーバルさんは雨が嫌いだったけれど、雨と同じくらい涙が嫌いだということを。
「――やっと、出てくれた涙だったのにな」
今日くらい、泣かせてくれても良かったのに。
それさえ許してくれないらしい。
……ひどく自分勝手な人だ。
「貴方って、やっぱりズルい人」
私の独り言に応えるように、冷えた向かい風が頭を撫ぜ、頭飾りをシャラリと鳴らす。
僕の墓を参るなら相応の覚悟でいてよねとでも言いそうな、上から目線のため息のような風。
でも、この風には私の涙をどうにか引っ込ませたそうな意思を感じる。
あからさまな冷たさでこちらを突き放すくせに、どこか柔らかい。
嫌味と優しさの両極端が混ざりあった不可思議な肌触りがくすぐったかった。
「折角プルアさん達が貴方の為にって贈ってくれた貴重な薔薇をこんな風にしちゃって……」
叱るように呟けばまた風が吹き降りる。
今度はやや拗ねたような開き直ったような小さな突風が私の頬をツンと突ついてきた。
君が泣こうとするから仕方がなかったんだよと、彼の言い訳がブツブツ聞こえてくるようだった。
「もう、人のせいにして」
呆れから苦笑が漏れる。
目頭の熱も既に失せ、涙はとっくに目の奥に引っ込んでいた。
ややあって、また頭飾りがゆらゆら揺れる。
今度はごくごく弱いつむじ風が私の全身を包むように巡り始めた。ローブが微かに風を帯びて黒い布地がさわさわと波立つ。
さっきのような二律背反の風ではない。
どこまでも穏やかな、彼の心の透明な部分そのもののような……。木漏れ日みたいに軽やかで、鳥の翼のように柔らかな小春風。
もしあの人に抱きしめられたら、こんな感触だったのかもしれない。
頭飾りを僅かに揺らして私の耳元をくすぐる吐息のような風は『わざわざここまで来てくれて嬉しいよ』と言っているようだった。
「私こそ、来るのが遅れてごめんね」
前方を見上げると、風を封じ込めたような翡翠色の光が私を見守るように煌めいていた。
その光にそっと手を伸ばす。
仄かな黄緑の灯火は僅かばかり熱を帯びていた。
この世に人魂というものが存在するなら、もしかしてこんな形をしているのかもしれない。
「ありがとう、待っててくれて」
また少しばかり涙が出そうになったけど、なんとか零さずに感謝の言葉を伝えられたと思う。
翡翠色の光は次第に弱まり、やがて空に溶けるように消えていく。
それに呼応するように、さっきから吹いたり止んだりを繰り返していた風の気配はこの場からすっかり失せていた。
◇ ◇
「――――」
雲一つない空の下、静寂が訪れる。
先程の風の音に耳が一時的に麻痺してしまったのか、私のいる場所だけ周りから切り取られてしまったようにとても静かだった。
近くに落ちていた青い花びらを一枚拾い上げる。
手に取った花びらはスベスベで雪の冷たさを帯びてひんやり心地良かった。
「本当に、ありがとう……」
一秒だけそれをギュッと握りしめ、墓石の上にそっと供えた。
「――また、お参りに来るよ」
宣誓するように呟く。
「五十年後でも、百年後でも」
その時にはお参りに行かなければならない所がうんと増えてしまうかもしれないけれど。
「仲間として友人として、貴方のことを誇りに思うから」
厄災復活前後の僅かな間を共に駆け抜けただけだった。
あの人の想いには応えられず止めを刺した。
それからたった十年後、彼は病によって空より高い処へと逝ってしまった。
救いの手を差し伸べる暇さえ私達に与えずに。
まるで生き急ぐ駿馬のように。
(けど……)
リーバルさんの織り上げた猛々しい風は、私達の胸の内で今も確かに息づいている。
さっきの風が教えてくれた。
だから、もう大丈夫。
「あと、リンクへの告白……ちょっと遅いかもしれないけど、また頑張ってみる」
次ここを訪れた時には、結果もちゃんと報告出来るようにしておかなければと決意を新たにした。
◇ ◇
びゅるりと、肌を刺すような冷たい寒風が吹き降りる。
青一色だった空には朱が混じり、雲が湧き始めていた。
セツゲンオオカミの遠吠えが随分近くから聞こえてくる。ここも危険かもしれない。オオカミに遅れを取ることはまずないけど、無用な争いは避けるべきだろう。
「そろそろ村に戻らないと」
セゴンはとても真面目な人だから、きっとずっと村の門前で私の帰りを待っているはずだ。
これ以上待たせる訳にはいかない。
訓練場の方にまた目を向けるが、リト族の青年達はまだ村に帰る様子はない。
ぎりぎりまで修練を続けるようだ。
それとも夜は夜目を鍛える為の特訓を行う予定なのかもしれない。
彼らの修練に向ける熱意が、かつてのリトの英傑の意外と努力家な一面と重なった。
リトの村の方からは微かにお魚の焼ける美味しそうな香りが漂ってくる。
焼かれているのはマックスサーモンだろうか。
今日は村で一泊させてもらうことになっている。
もしかしてあれが私達の今晩のご馳走になるのかもしれない。
「ふふっ、楽しみだなぁ」
あのお魚のパリパリに焼けた香ばしい皮の味を思い出し、自然と頬が緩んでいくのが分かった。
「また来るね、リーバルさん」
最後に、リトの英傑のお墓に別れの言葉を告げてフードをかぶる。
そうして振り返らずに村への道を引き返した。
墓石の周りに散った青薔薇の花びらは、既にいない筈のリトの英傑がこの地から空に飛び立って落としていった羽根のようだった。
◇ ◇
鎌風に青薔薇散りて白雪に
舞い落つ花弁 汝 の羽根のごと
白薔薇を敷き詰めたような雪原にて
蒼翼 を想いて神鳥 は眠る
―――厄災封印から十一年後、タバンタ辺境某所
「――久しぶりだね」
防寒用に繕われた厚手の黒いローブの裾がシャリバ山から吹き降りる涼風にふわりとなびく。
眼下に飛行訓練場を臨む小高い丘の端、ぽつんと据え置かれた小さな青い石碑の前に私はいた。
周りには誰もいない。
今回のヘブラ地方への長旅に同行してもらっているセゴンにはリトの村で待ってもらっている。
ここだけはどうしても一人で訪れたかったから。
「ふぅ……」
フードを降ろす。
降雪地方特有のひんやりとした空気が村からこの丘まで歩いてきて若干熱を帯びた私の体を優しく冷やしていく。
ゾーラの里からここに辿り着くまで、とても長い道のりだった。
ハイラル王国は他国と比べ小国だと聞くけれど、実際自分の足で旅をしてみたらかなり広い方なのではないかと思う。
里から川を下って終焉の谷近くまで泳ぎ、マリッタ馬宿〜タバンタ村経由でリトの村まで到着するのに結構な日数がかかってしまった。
終焉の谷以降は
シーカータワーの機能を利用すればあっという間だったけど、今回この地方をじっくり見て周りたかったから敢えて使わなかった。
すぐ行けるだけの心の準備が終わっていなかったとも言うけれど。
「綺麗……」
空を見上げる。今日は雲一つない快晴だ。
リトの族長さんには天気が荒れやすい冬近いこの時期にここまで空が晴れ渡るのはとても珍しいのだと聞かされた。
「ずっと見てると吸い込まれそう……」
英傑の衣より澄んだ薄青の中をシマオタカが濃い紫の翼を広げて悠々と滑空し、甲高くも心地よい声で鳴く。
背後からクツクツと木の実を転がすような音がして振り返れば、少し離れた所でマシロバトが赤いトサカをキョロキョロ忙しなくさせて食べられそうなものを探していた。
この石碑の先、丘の崖下にある飛行訓練場からはあの地で猛る上昇気流の唸り声に混じり、時折弓の弦がばしんとしなる音や射られた矢が的に刺さる快音が聞こえてくる。
きっと戦士を目指すリト族の少年や青年達が修練中なのだろう。
その音には修練に取り組む彼らの真剣さや熱意がこもっているようだった。
南の方に目をやれば辛うじてだがリトの村の様子も伺える。
目を凝らすと村に設けられた階段をリトの子ども達がよちよち歩きで元気に登り降りする姿が見えて、思わず笑みがこぼれた。
「ここ、とっても良い場所だね」
飛行訓練場もすぐそこに在り、村の様子も分かる。
何より風が心地よい。
この場所なら何かとこだわりの強かった"あの人"でも文句は言わないだろう。
もしかして"彼"自身がここが良いと指定したのかもしれないけど、それを村の人に訊くのはなんとなくはばかられた。
一通り辺りを見回して、石碑の前でしゃがむ。
石板に積もった雪を指でそっと払うと、そこに刻まれていた文字が顔を出した。
『 空を愛し風に愛されし稀代の戦士
リトの英傑リーバル ここに眠る 』
「お参りに来たよ、リーバルさん」
なるべくいつも通りの声で、今は亡きリトの英傑の――昔私を好きだと言ってくれた人の名を呼んだ。
◇ ◇
本当に唐突だった。
彼の死が知らされたのは。
今からおよそ一年前、恐ろしい流行り病が突如としてヘブラ地方を襲った。
でもまさか、厄災討伐の折に活躍したリトの英傑の命までもがそれで奪われるなんて誰が思っただろう。
感染力も致死率も高いその流行り病はまたたく間にリトの村やタバンタ村で広まり、あの地方との境に簡易的な関が設けられ人の出入りも流通も制限されるまで十日とかからなかった。
王家はすぐさまシーカー族に病の原因解明と特効薬の開発を指示し、古代研究所は一時的にその研究の為の場となった。
私達ゾーラ族でも物資を送ったり出来得る限りの支援をしたが、それはゲルドやゴロンも同じだった。
王家との対立は止めたが今なおカルサー谷のアジトに引きこもっているイーガ団までもが、報せを受けて大好きなバナナを大量にリトの村やタバンタ村へ送ったと聞いて、胸が温かくなったのが懐かしい。
しばらく経って
私の治癒の力には直接病気を根治する力はない。
でも病によって負ってしまう体の各器官の痛みや負担を和らげることはできる。
病魔に苦しむ人達を知らぬふりなんて出来ない……。
そんな思いから、自分の力を少しでも役立てて欲しくてリトの族長宛に手紙で村への訪問を願い出た。
けれど返事は色良いものではなかった。
他種族のしかも王族である御身を危険にさらす訳にはいかないと固辞され、リーバルさんからも別途『絶対に来るな』と殴り書きの手紙までが届いて釘を刺されてしまった。
手紙をもらってすぐは言われた通りにしようと一応我慢はした。けど四日後にはいても立ってもいられなくなり、結局私は御父様達に黙って里を飛び出した。
そうして一人でハイラル城まで赴き、ヘブラ地方への通行許可を得ようと姫様に頼み込んでいる矢先だったと思う。
彼の訃報を聞いたのは……。
殴り書きの手紙を受け取って、およそ一週間後のことだった。
急遽ハイラル城城下の大聖堂にて病魔に倒れたリトの英傑の国葬が執り行われたが、棺には彼の愛弓であるオオワシの弓の[[rb:模造品 > レプリカ]]しか入っていなかった。
――棺に彼の亡骸がなかったのは感染対策の一環で既に火葬済だったから。
私達はかの戦士の死に顔さえ見ることが出来ないまま、死んだ事実だけを突きつけられた。
深い空の色をした艷やかな翼も風を封じ込めたような翡翠の瞳も、既に煙となってヘブラの寒空に消えてしまった後の……形だけの別れ。
あの国葬はつまる所、突然置いていかれた私達の気持ちを納得させる為のけじめの儀式だった。
『――今日は単に、君への気持ちにけじめをつけたかっただけなんだよ』
昔、彼が私に言った言葉が頭の中をずっと逡巡していた。リトの村の上空をぐるりぐるりと飛んでいたかつてのメドーのように。
国葬の日は雨が降っていた。
あの人が嫌いだった――空がしくしく泣いているような、冷たい霧雨。
葬儀中、ダルケルさんは丸くて青い目から涙を沢山溢れさせて号泣していたし、ウルボザさんは年上の私達より先に逝くやつがあるかと涙を滲ませていた。
リンクは泣いてこそいなかったけど、とても辛そうな顔をしていた。
酷い怪我を負った時でさえこんなに苦しそうな顔をする幼馴染を私は見たことがなかった。
リトの英傑という存在は彼にとっても大きなものだったのだと、あの時やっと悟ったように思う。
姫様は葬儀の直前までテラコを抱き締めて涙を零していたが、その後は王家の次期王女としての顔を一切崩すことなく粛々と己の役目をこなしていた。
葬儀が終わった後、こういうことは慣れていますからと呟いた彼女の声はひどく渇いていた。
――ちなみに私は……どういう訳か、一切涙が出なかった。
とても悲しいのに涙が出ないなんて生まれて初めてだったように思う。
ショックが大き過ぎたのだろうと皆は私を心配してくれたけれど、理由は今なお分からず終いだ。
◇ ◇
「これ、プルアさんとロベリーさんが貴方のお墓にって」
墓前でのお祈りを終え、サファイアのように深い青色の薔薇の花束を彼の墓石に供える。
数は五本とやや少なめだけど、ようやく咲いた十本の内の半分らしいので彼も満足するだろう。
「貴方の羽色とよく似て、とっても綺麗でしょう?」
人為的に作り出された青い薔薇は日が落ちるとシノビ草のように淡く光るのだという。
「これも古代シーカー族の叡智の一端……らしいよ」
ロベリーさん曰く、"いでんしそうさ"というらしい。
難しいことはよく分からないけど、他の植物が持つ青い花色の素を作る遺伝子を薔薇にうまく組み込んで、本来自然界ではありえない青色の薔薇を咲かせることに成功したのだそうだ。
古代シーカー族の叡智の平和利用――厄災封印後に掲げていた彼らの研究の一つが遂に完成したのである。
「今度の厄災封印記念の城での式典には、姫しずかとこの薔薇を城内に沢山飾る予定なんだって」
本当なら皆で揃ってその様子を見たかったという言葉は口に出さずに飲み込んだ。
◇ ◇
彼の国葬後しばらくして、プルアさんらシーカー族の研究者達の手によって特効薬が完成した。
この薬のお陰であの地方を襲った病魔の嵐はようやく止んだのだった。
ロベリーさんはあともう少し薬の完成が早ければと悔しさと悲しさを声音に滲ませていた。
プルアさんはこれだからせっかちなヤツは困るのヨと、眼鏡の奥の赤い瞳を少しだけ潤ませて苦笑いしていたのが今は懐かしい。
◇ ◇
「――――」
また空を見上げる。
村の上空には、遠くセラの滝やラルート大橋からも見ることが出来た風の神獣の姿はもうない。
繰り手を亡くした巨鳥は現在タバンタ雪原の白銀の上で翼を休めている。
彼が病を患ってすぐ、万が一の時を考えて急遽そこに停めてそのままらしい。
もし今後あの神獣を雪原から移動させる必要が出てきたら、私達他の英傑の誰かがテラコの力を借りて動かすことになるだろうと姫様は言っていた。
その第一候補になり得るのは私だとも。
今も続けられている四神獣の最新の調査結果によれば、私もあの巨鳥を繰る適性が高いと判明したらしい。
理由はまだよく分かっていないが、何かあればミファーにあの神獣を繰ってもらうことになるでしょうと言われた。
異国には空を飛ぶのを止めて海を泳ぐようになった鳥もいると聞いたことがある。
水と風――異なるものの中を泳ぎあるいは翔けた私とリーバルさんだけど、水の中を泳ぐのも空を飛ぶのも根っこの部分はもしかしてあまり変わりがないのかもしれない。
でも、
道中、少しだけ寄り道をして南タバンタ雪原にその身を横たえているメドーに会いに行ったのだけど、"彼女"はこちらの呼びかけに全く応じてくれなかった。
主の死を受け止めその喪に服すように、あの神獣は眠ったように動かなかったのだ。
あれを見て、風の神獣はやはり風に愛された蒼翼と共に在るべきだと改めて強く思った。
出来るなら彼らの絆を侵したくない。
メドーを繰らなければならない事態が今後一切来ないことを祈るばかりだ。
◇ ◇
「そういえば結局、リンクに好きって言えないままになっちゃったな」
リーバルさんの告白を断った後、私はリンクに想いを告げられないまま十年以上時が過ぎてしまった。
あの人が遊びに来てくれた日、運悪く私達の里は魔物達の奇襲を受けた。
魔物達を倒した後に鎧だけは渡すことが出来たのだけど、奇襲によって傷ついたゾーラの兵の怪我の対応に追われて肝心の彼への想いは言えず終いとなった。
後日改めて告白しようと考えたけれど、もし断られて先に渡した鎧を返されたらと考えたらひどく怖くなって、そのまま長い年数を重ねてしまったのだ。
リーバルさんにはいつか『君がそれで良いんなら』と言われたけど、どこか納得していない顔をしていた。
「ごめんね、勇気づけてもらったのに」
結局、あの夕暮れ時のセラの滝で彼に分けてもらったはずの勇気は泡のように消え、勇気を分けてくれた彼もまた風のように消えてしまった。
ついでに言えば、あの時押し付けられた大きな赤い薔薇ももう残っていない。
「今からでも、リンクに告白した方がいいと思う?」
返事は当然ない。
万が一あったとしても、流石に呆れられて『好きにすれば』と言われてしまいそうだ。
「ごめん、今のは忘れて……」
墓参りに来てまでこんな話をしてしまう自身の弱さに若干嫌気がさした。
◇ ◇
そろそろ村に戻ろうかと考え始めた時、突如大きな風の柱が訓練場の方で立ち昇ったのが見えた。
「! あれは……」
思わず、訓練場を覗き込む。
風の柱はその後すぐ消えてしまったが、あの上へ上へと風が勢いよく昇っていく様はリトの英傑の大技、リーバルトルネードを思い起こさせた。
風が巻き起こっていた訓練場の桟橋近くでは、黒い羽毛のリト族の青年が一人脚を投げ出して肩でぜいぜいと息をしている。
どうも、あの青年がさっきの大きな風の柱を生み出していたようだ。おそらくその後の制御がうまくいかず、気流が霧散してしまったのだろう。
怪我をした様子はなさそうでひとまずホッとする。
「あの技に挑戦してる人、初めて見た」
挑戦者は後を絶たないという話は聞いてはいたけど、実際見るのは初めてだった。
厄災封印後すぐ、彼はあの技の詳しい仕組みや実際行った修練法等を全て本に記し、村の族長に託したと聞いた。
他のリトの戦士にもあの技を広める為に。
リーバルさんはよく『この技を僕だけの専売特許にするつもりは毛頭ないよ』と言っていた。
『今後他の連中が使えるようになっても、最初にこの技を編み出したのが僕だという事実は例え百年経ってもずっと変わらないからね』とも。
しかしながらあの技は危険と隣り合わせの大技だ。
技の全てがリトの皆に広まって十年以上経っても彼以外の使い手が現れない程には、上昇気流の制御が難しいようだ。
今は特に唯一の使い手だったリーバルさんがいない為、直接アドバイスを聞くことさえ出来なくなった。
「リトの男の人達って、皆勇敢だね」
にも関わらず、未だに果敢に挑戦する人達が絶えないことに彼もきっと喜んでいるに違いない。
「…………」
感心するのと同時に、それとは関係のないことで少し胸が痛んだ。
「あんなに、違うんだ」
先程のあの風はリーバルさんが操るソレとは形も音も異なっていた。
たとえ練習中の未完成な状態であったとしても、扱う人が違えばこうも変わってしまうのかと愕然とする。
リーバルさんの――リトの英傑のあの鮮烈かつ猛々しい風の巡りは、まさしく唯一彼にだけ与えられたものだったようだ。
あの人の風は既に舞い翔けるのを止めてしまってもうこの世界のどこにも存在しない。
至極当たり前の事実を今になって改めて突きつけられた心地だった。
「リーバルさん……」
今更ながら、それがひどく悲しくて急に胸が苦しくなる。
今までずっと、心のどこかであの人の死を受け入れられていなかったのかもしれない。
国葬の時も彼の姿を見ることは出来なかったから、余計に。
リトの村に来さえすればメドーが上空を緩やかに巡る中、彼が出迎えてくれるものだと愚かしくもほのかに期待していた。
何者にも縛られず軽やかに空を舞い翔けていた蒼翼が、病という魔手に絡み取られて逝ってしまうなんて信じたくなかったのだと思う。
でもそれが今日、完膚無きまでに打ち砕かれた。
風の神獣は既にこの空になく、リトの村から遠く離れた雪原に翼を広げたまま眠ったように動かない。
村を訪れた私とセゴンを出迎えてくれたのはリトの族長さんだった。
そして当のリトの英傑は一年も前からこの小さなお墓の下で眠っている。
どこにも言い逃れの出来ない、現実だった。
「本当に、いなくなっちゃったんだね」
彼が死んでしまった事実をようやく心の底から理解した。
否、理解せざるを得なかった。
「――っ――」
目頭が焼け付くように熱くなり、じわじわと目尻に涙が溜まっていく。
一年近く出てくれなかった涙が今、ようやく溢れ始めた。
《――全く……》
溢れた涙が一筋頬を滑り落ちた時、どこからともなく聞き覚えのある呆れ声が聞こえた気がした。
《君は相変わらず泣き虫だねぇ……》
ヘブラの寒風のように凛として、やや低くも伸びやかな美しい
「えっ……? きゃっ……!」
急に周囲の大気が荒れ始め、着ていたローブもバタバタ騒ぎ出す。
墓石の上に生まれたつむじ風はどんどん勢いを増し、大きな竜巻みたいな形を成していく。
強風に煽られ暴れるローブを抱きしめるように抑えながら、その様に思わず息を飲んだ。
「この風……」
このつむじ風には憶えがあった。
暴れまわる空気の塊をかき集めたような空のさざめき。
キンと冷え切ったヘブラの山々を思わせる透明な雪の匂い。
そしてこの猛々しくも柔らかい、懐かしい風の感触――。
リトの英傑だけが織り上げられる唯一無二の風の猛り。
「あっ、花束が……!」
先程墓石の上に供えた花束が烈風の渦に巻き込まれ、宙に浮き上がる。
こちらが手を伸ばすより早く、薔薇を包んでいた紙やリボンがあっという間に吹き飛ばされていく。
剥き身になってしまった青薔薇は猛風の勢いに当然勝てず、糸がほどけるように千切れた花びら達が空高く舞い上がっていった。
「……っ!」
ついでのように、目から僅かに零れた涙は一際冷たい突風の指先に拭われた。
ここで泣いてくれるなと、言われた気がした。
「――――」
巻き起こった猛風はその後すぐ、幻のようにパタリと止んだ。
花束を包んでいた浅葱色の紙や群青のリボンも、薔薇の茎や葉さえ見当たらない。全部どこかに吹き飛ばされてしまったようだ。
一方、風に巻き上げられて空に散った青い花びら達はやがて力を失い、墓石の周りにゆっくりと舞い落ちてくる。
ふわりふわりと。
抜け落ちた鳥の羽根か、音も無く降り落ちる雪のように。
その様をただじっと見守った。
そういえば一つ、思い出したことがあった。
リーバルさんは雨が嫌いだったけれど、雨と同じくらい涙が嫌いだということを。
「――やっと、出てくれた涙だったのにな」
今日くらい、泣かせてくれても良かったのに。
それさえ許してくれないらしい。
……ひどく自分勝手な人だ。
「貴方って、やっぱりズルい人」
私の独り言に応えるように、冷えた向かい風が頭を撫ぜ、頭飾りをシャラリと鳴らす。
僕の墓を参るなら相応の覚悟でいてよねとでも言いそうな、上から目線のため息のような風。
でも、この風には私の涙をどうにか引っ込ませたそうな意思を感じる。
あからさまな冷たさでこちらを突き放すくせに、どこか柔らかい。
嫌味と優しさの両極端が混ざりあった不可思議な肌触りがくすぐったかった。
「折角プルアさん達が貴方の為にって贈ってくれた貴重な薔薇をこんな風にしちゃって……」
叱るように呟けばまた風が吹き降りる。
今度はやや拗ねたような開き直ったような小さな突風が私の頬をツンと突ついてきた。
君が泣こうとするから仕方がなかったんだよと、彼の言い訳がブツブツ聞こえてくるようだった。
「もう、人のせいにして」
呆れから苦笑が漏れる。
目頭の熱も既に失せ、涙はとっくに目の奥に引っ込んでいた。
ややあって、また頭飾りがゆらゆら揺れる。
今度はごくごく弱いつむじ風が私の全身を包むように巡り始めた。ローブが微かに風を帯びて黒い布地がさわさわと波立つ。
さっきのような二律背反の風ではない。
どこまでも穏やかな、彼の心の透明な部分そのもののような……。木漏れ日みたいに軽やかで、鳥の翼のように柔らかな小春風。
もしあの人に抱きしめられたら、こんな感触だったのかもしれない。
頭飾りを僅かに揺らして私の耳元をくすぐる吐息のような風は『わざわざここまで来てくれて嬉しいよ』と言っているようだった。
「私こそ、来るのが遅れてごめんね」
前方を見上げると、風を封じ込めたような翡翠色の光が私を見守るように煌めいていた。
その光にそっと手を伸ばす。
仄かな黄緑の灯火は僅かばかり熱を帯びていた。
この世に人魂というものが存在するなら、もしかしてこんな形をしているのかもしれない。
「ありがとう、待っててくれて」
また少しばかり涙が出そうになったけど、なんとか零さずに感謝の言葉を伝えられたと思う。
翡翠色の光は次第に弱まり、やがて空に溶けるように消えていく。
それに呼応するように、さっきから吹いたり止んだりを繰り返していた風の気配はこの場からすっかり失せていた。
◇ ◇
「――――」
雲一つない空の下、静寂が訪れる。
先程の風の音に耳が一時的に麻痺してしまったのか、私のいる場所だけ周りから切り取られてしまったようにとても静かだった。
近くに落ちていた青い花びらを一枚拾い上げる。
手に取った花びらはスベスベで雪の冷たさを帯びてひんやり心地良かった。
「本当に、ありがとう……」
一秒だけそれをギュッと握りしめ、墓石の上にそっと供えた。
「――また、お参りに来るよ」
宣誓するように呟く。
「五十年後でも、百年後でも」
その時にはお参りに行かなければならない所がうんと増えてしまうかもしれないけれど。
「仲間として友人として、貴方のことを誇りに思うから」
厄災復活前後の僅かな間を共に駆け抜けただけだった。
あの人の想いには応えられず止めを刺した。
それからたった十年後、彼は病によって空より高い処へと逝ってしまった。
救いの手を差し伸べる暇さえ私達に与えずに。
まるで生き急ぐ駿馬のように。
(けど……)
リーバルさんの織り上げた猛々しい風は、私達の胸の内で今も確かに息づいている。
さっきの風が教えてくれた。
だから、もう大丈夫。
「あと、リンクへの告白……ちょっと遅いかもしれないけど、また頑張ってみる」
次ここを訪れた時には、結果もちゃんと報告出来るようにしておかなければと決意を新たにした。
◇ ◇
びゅるりと、肌を刺すような冷たい寒風が吹き降りる。
青一色だった空には朱が混じり、雲が湧き始めていた。
セツゲンオオカミの遠吠えが随分近くから聞こえてくる。ここも危険かもしれない。オオカミに遅れを取ることはまずないけど、無用な争いは避けるべきだろう。
「そろそろ村に戻らないと」
セゴンはとても真面目な人だから、きっとずっと村の門前で私の帰りを待っているはずだ。
これ以上待たせる訳にはいかない。
訓練場の方にまた目を向けるが、リト族の青年達はまだ村に帰る様子はない。
ぎりぎりまで修練を続けるようだ。
それとも夜は夜目を鍛える為の特訓を行う予定なのかもしれない。
彼らの修練に向ける熱意が、かつてのリトの英傑の意外と努力家な一面と重なった。
リトの村の方からは微かにお魚の焼ける美味しそうな香りが漂ってくる。
焼かれているのはマックスサーモンだろうか。
今日は村で一泊させてもらうことになっている。
もしかしてあれが私達の今晩のご馳走になるのかもしれない。
「ふふっ、楽しみだなぁ」
あのお魚のパリパリに焼けた香ばしい皮の味を思い出し、自然と頬が緩んでいくのが分かった。
「また来るね、リーバルさん」
最後に、リトの英傑のお墓に別れの言葉を告げてフードをかぶる。
そうして振り返らずに村への道を引き返した。
墓石の周りに散った青薔薇の花びらは、既にいない筈のリトの英傑がこの地から空に飛び立って落としていった羽根のようだった。
◇ ◇
鎌風に青薔薇散りて白雪に
舞い落つ
白薔薇を敷き詰めたような雪原にて