赤月夜のロンド


 ――赤い満月はひとの心を狂わせる。

 狂わせるのは嫉妬か、怒りか、はたまた叶わぬ恋の悲哀故か……。
 今宵もまた、一際大きな赤い満月がハイラルの空に昇りゆく。


氷嚢ひょうのうは二度、ひざに落ちる】


 ◇ ◇ ◇


 赤い月とは……それが天頂に至る時、その邪悪な魔力で魔物を復活させる極めて危険で謎の多い月だ。
 血の滴るような満月が発する毒気は、直視したりその光に曝されるだけで身体や精神に多大な影響を及ぼす。

 この国では真っ赤な満月が東の空から上がり始めると、その月の毒気に曝されないように村や街では家の中でカーテンを閉め切って過ごしたりする。
 旅人であれば宿等を利用して深夜零時を過ぎて月が元の輝きを取り戻すまで静かに待つのだ。
 最近じゃ真っ昼間に赤い月を見たなんて騒ぐ奴まで出てきて、これも厄災復活の予兆なのではとまことしやかに囁かれていた。

 ――月の毒気の心身への影響は様々である。

 発熱したり情緒不安定になったり、ふらついて倒れたりするのはわりとよくある症状だ。
 この毒気の特に厄介な事に、重度の毒気に冒された者はその時の赤い月の夜の記憶がごっそり抜け落ちてしまうのだ。
 原因は未だに分からないまま、医者や学者の頭を今も悩ませる現象の一つに類別されている。


 ◇ ◇ ◇


 ―――ハイラル城、図書室前

「ふん……。今日は厄日だったみたいだね」

 この日、僕の機嫌は最悪だった。
 村から城に向かう為に古代研究所の上空を飛んでいたら、偶然退魔の剣の主と姫のささやかなデートを目撃してしまったのだ。
 初めの内はあいつの護衛を嫌がって城を勝手に抜け出したりしていたのに……。
 あの姫も近衛騎士サマの魅力とやらには勝てなかったとでも言うのだろうか。

(いつかその魅力がトラブルになって、いっそ一度痛い目にでも遭えばいいのに)

 心の中でちょっとした恨み言を呟きながら空に昇った月を睨むように見つめていると、急に周囲が真っ赤な極彩色に変化した。

「あ、赤い月だって……!?」

 さっきまでごく普通の三日月だった筈が、なんの前触れもなく真っ赤な満月に変わったのだ。

 今までこんな事なかったのに……。
 やはり、これも厄災復活の兆候なのだろうか?

 ――そこまで考えて……自分の身体がグラリと揺らぐのが分かった。

「あ……まずっ……」

 ドサリと、石畳の上に倒れた衝撃が体全体に伝わる。

「ふ……っ、く……」

 眩暈が酷くて、一人で起き上がる事も出来そうにない。
 赤い月を屋外で直視してしまったせいか、あの月の毒気やられてしまったようだった。

 赤い月の夜であっても、今まで少し位なら出歩いても平気だったハズなのに……。
 今宵の赤い月はいつもより強力だったようだ。

(くそっ……今日は本当になんて、厄日だ……っ…)

 眩暈はさらに酷くなり、倒れ伏した眼前の石畳の色すら霞んでいく。

「り……る……? …、だ…じ……ぶ…!?」

 誰かに名前を呼ばれたような気がしたが、それに反応する前に僕の意識はブツリと断線してしまった。


 ◇ ◇ ◇


「…ん…っ…」

 ふと目を開けると、僕は長椅子に寝かされていた。
 カーテンは閉めきられ、所々に置かれた夜光石製のランプの光が部屋を静かに照らしている。

「ここは……」

 起き上がるが、誰もいない。
 頭に置かれていたであろう氷嚢ひょうのうが膝にボトリと落ちる。
 毒気のせいで熱でも出していたのだろうか……。

 辺りを見回してみるとオオワシの弓は近くの壁に立てかけられ、メドーのスカーフも僕の胸部を守る鎧も近くの棚の上に置いてあった。

「!」

 ハッとなって自分の体を見る。
 そこで初めて自分が半裸の状態で寝かされていることに気が付いた。

「一体、誰がこんなコト……」

 この部屋は城に用意されている僕の部屋にそっくりだった。
 恐らく英傑の為にあつらえられた部屋の一室なのだろう。

 それなら僕を助けた人物は四人に限定される。
 明日は英傑同士の会合がある日だ。
 僕のように前日から城に訪れている者が他にいてもおかしくはない。

(助けたのがダルケルあたりならまだ嫌味で済ませられるけど……)

 もしあいつだったら、ショックでまた気絶してしまいそうだ。
 百歩譲って助けてもらったことはそりゃありがたいとは思う。
 思うが今日は特に本人と鉢合わせなんてハッキリ言って御免こうむりたかった。

 ――とっととこの部屋を抜け出そう。
 そう、思い至った時……。

「良かった……。目が覚めたんだね」

 僕を介抱した張本人が、隣の部屋からこちらに顔を出す。

「君は……」

 英傑の一人、ゾーラ族のお姫様でもあるミファーだった。


 ◇ ◇ ◇


「貴方が図書室前の広場で倒れてるのをたまたま見つけてね」

 経緯を説明しながら、ミファーがヒンヤリハーブの水出し茶を出してくれた。
 あのハーブ特有の爽やかな香りが周囲に広がる。

「今日はダルケルさん達もいないし、貴方の部屋も遠かったから私の部屋に運んだの」

 迷惑だったかな……と、不安げなお姫様に礼を言う。

「とんでもない、君のお陰で助かったよ。あのままだったら、きっと城の連中から笑い者にされてただろうしね」
「わ、笑い者って。そんな事ないと思うんだけど……」
「ふん、どうだか」

 冷えたハーブティーの香りを愉しみながら憮然とした顔で答える。

「自国の姫にも堂々と陰口叩ける奴らなんだぜ? 信用ならないね」

 英傑に叙任されて以降、この城にも何度か足を運んでいるが、ここの奴らは自分勝手なハイリア人が多くてうんざりだった。
 これに関しては、少しばかり王家の姫やあの退魔の剣の主にも同情する。

「もう、貴方は相変わらずお城の人に厳しいのね」
「ミファーの人が善すぎるんだよ。君もあいつらに何か嫌なコト言われたら、姫やウルボザにちゃんと言わなきゃだめだよ?」
「はいはい、分かったってば」

 日頃ハイリア人とも仲良くすべきだと主張するミファーは、僕の棘のある言い分を受け流すように相槌を打っていた。

(――そういえば)

 ふと、自分が今半裸の状態だった事を思い出す。
 同じ英傑とはいえ、ミファーはやんごとなきゾーラのお姫様だ。
 彼女はあまり気にしないかもしれないが、僕にだって羞恥心はある。
 なるべくなら早くいつもの恰好に戻りたいものだが……。

「そういえば僕、鎧が脱がされてたけど熱でも出してたのかい? 起きた時、ちょっと面食らっちゃったよ」
「ああ、それは……」

 ミファーが言うには、毒気のせいで酷い発熱を引き起こしていたらしい。

「リト族は熱が羽毛にこもりやすいから、確か高熱には弱かったよね?」

 なるべく体を冷やす為に脱がされていたようだ。
 ……そういうコトならしょうがない。
 少し恥ずかしいが、しばらくこのままでいるしかなさそうだ。

「驚かせちゃってごめんなさいね」
「いいって、適切な処置に感謝するよ。でも意外だね。君がリト族の体質を詳しく知ってたなんてさ」

 僕がそう言うとミファーは飲んでいたお茶の入ったグラスを口元からゆっくり離して、気恥ずかしそうにはにかむ。

「英傑の皆を適切に治療するのに必要だったから、出来るだけ勉強したの。私の力だけじゃ治せないものも多いし」
「へぇ、熱心だね」

 関心している僕に、彼女は首を横に振って申し訳なさ気に続ける。

「ごめんね、私にもっと力があれば貴方の熱も毒気も治せた筈なのに」

 そういうのを一々気にしてしまうのは、このお姫様の長所であり短所だ。

「気にしないでよ。君の力がそんなに強くなると、僕ら他の英傑の立つ瀬がなくなってしまうだろう?」

 何事もバランスが大事だと付け加えて彼女を諭す。

「そ、そういうものかな?」
「そういうものなの。それに君は英傑の前にお姫様なんだから、あまり頑張り過ぎると君の親衛隊である弟クンが心配するよ?」
「し、親衛隊って……ふふっ、貴方って変な言い回しするのね」

 僕の言い回しが面白かったらしく、落ち込んでいたミファーの顔がフワリと明るくなる。

「……そ、それはどうも……っ」

 穏やかな笑顔を無警戒に向けてくるから、僕は思わず目を逸らした。

(このままここにいるのは、ちょっとまずいかもしれないな)

 ――僕はこのゾーラのお姫様に密かに好意を抱いている。
 きっかけは忘れてしまったが、気付けばミファーの姿を目で追っていた。
 それが恋なのだと理解した時には、お姫様があいつに本気で惚れてる事実をたっぷり見せつけられて、僕は諦めるしか他なかった。

(時計は零時を過ぎてる。赤い月も既に消えてる時刻だ)

 早くここを離れよう。
 諦めたとはいえ、未だ彼女に心奪われたままの僕に今の状況は非常に危うい。
 さっさと自室に戻ろう。
 まかり間違って取り返しのつかない事になる前に。

「――熱も下がってきたみたいだし、そろそろ自分の部屋に戻るよ」
「えっ……?」
「ありがとう、介抱してもらって助かった」

 グラスに残ったハーブティーを飲み干し、長椅子から立ち上がってミファーに礼を言う。
 足元はまだ覚束ないが、なんとか誤魔化せるだろう。

「さっき目が覚めたばかりでしょう? 本当に大丈夫?」

 ミファーは先程とはうって代わって厳しい目を僕に向ける。
 以前、治癒の途中で無理矢理逃げ出した前科があるのでまた同じことをするのかと疑っているようだ。

「ちゃんと歩けてるし大丈夫だって。病人とはいえ、男の僕がこんな深夜に君の部屋に居座っちゃまずいだろ?」

 心配そうなミファーに背中を向けて、自分の持ち物を確認する。

 ――僕は忘れていたのだ。
 このお姫様が怪我人や病人に対して、ある意味で遠慮も容赦もないということを。


 ◇ ◇ ◇


「……ちょっとごめんね」
「……っ?! うわぁっ!」
「もう、やっぱり……」

 腕を急に後ろにグッと引っ張られて、足元が覚束ない僕は尻餅をついてしまった。
 どうも、僕を疑ったミファーに掴まれて思いっきり引っ張られたようだ。
 仮にも病人相手に容赦がなさ過ぎると思うのだが……。

「い、いきなり引っ張るなんて危ないじゃないか!」
「貴方がすぐバレる嘘をつくからいけないの」

 抗議する僕にミファーはジト目でピシャリと言い返してくる。
 その後こちらに大股で近づいてきて、僕の目の前でスッとしゃがんできた。

「ちょ、ちょっとミファー?」

 少し、怒っているようだ。
 不機嫌そうな黄色い瞳と目が合う。

「ほら、じっとしてて」
「……っ!」

 つい、と……ミファーの滑らかな指が僕の額に触れる。
 避けようとするが後頭部にも手を添えられて逃げられなかった。
 ゾーラ族特有のひんやりとした心地良い感触に胸の鼓動は速まり、体まで跳ねそうになるのを寸でで耐えた。

 ミファーのこの――とてつもなく無防備な所にいつもハラハラさせられる。
 里にいる彼女の教育係とやらはこういう所をもっとちゃんと指導するべきだと思う。
 一体このお姫様に何を教えてるのか、一度位問い詰めに行ってやりたい。
 ついでに病人への対応についても、強めに抗議しておきたい所だ。

「――まだ熱もかなり高い……。当分安静にしていてもらわないと」

 熱を確認するなりミファーはゆっくり立ち上がり、嘘をつこうとした僕を睨んできた。
 なまじ綺麗な顔なので怒って目を細めると余計怖く感じる。

「貴方って看病されるのが本当に嫌いなのね」
「し、仕方ないじゃないか。今まで怪我や病気の処置は全部自分でやってきたんだからっ」

 僕もいつも繰り返してきた言葉で反論するが、あまり意味はなかった。

「はぁ、リーバルってすごく強情だね……。でも、仮に貴方が元気でも外には出せなくなっちゃったの」
「は? どうしてまた」

 ミファーのちょっと変な言い回しに首をひねる。
 外に出られないというのは赤い月の夜にはよく聞く話だが、時計は既に深夜の一時だ。今更部屋から出られない理由なんて無い筈なのに。

「実はね、さっきから赤い月が消える気配が全くなくって……」
「赤い月が消えていない?」
「うん、窓の外……ちょっとだけ覗いて見て」

 ミファーの助けを借りて立ち上がり、閉じられたカーテンをそっと一瞬だけ開ける。

「……うわ、本当にまだ出てる」

 空には血のように真っ赤な満月が未だ煌々と輝いていた。信じがたい話だが、これは夢ではなく現実のようだ。

「貴方は一度月の毒気に侵されてるから、外に出るとまたすぐ倒れちゃうと思う。申し訳ないんだけど、赤い月が消えるまでここで安静にしていてほしいの」

 それまで話相手くらいは出来るからと、ミファーは柔らかい笑顔を僕に向ける。

(これは、困ったな……)

 無理矢理にでも出て行きたい処だが、そんな事すればこのお姫様……槍でも何でも使って僕を止めようとするに違いない。

 ――以前、酷い怪我を負った城の兵士がミファーの治癒を頑なに断ったことがあった。
 その時このお姫様は何を思ったのか鋭い手刀で怪我した兵士を即刻気絶させ、平然と治療を続行したという恐ろしい武勇伝が残っている。
 この話は今でも三大英傑恐怖体験の一つとして、城の兵士達を密かに震え上がらせているのだ。

 僕だってそいつと同じような目には遭いたくはない。

「――また倒れるのも嫌だし、君の言う通りにさせてもらうよ」
「それがいいわ。あ、お茶のおかわりいる?」
「いただくよ。何から何まで悪いね」


 ◇ ◇ ◇


 ミファーが隣の部屋で再びハーブティーを準備してくれている間、手持ち無沙汰になって辺りを見回すと備え付けの本棚が目に入った。
 本を読んでいれば、お姫様の顔を見らずに済みそうだ。

「ミファー、ここの本何か読んでいいかい?」
「うん、いいよ」

 隣の部屋に呼びかけると快諾の返事が聴こえてきたので、長椅子から立ち上がって本を見繕う。
 そうして一つの年季の入ったスケッチブックが目に留まった。

(……これ、なんだろう?)

 取り出して開いてみると、若い時のドレファン王らしき人物とそれに寄り添う小さなゾーラ族の赤い少女が目に飛び込んできた。

「これは……」
「――あら、そのスケッチブック……そんな所にあったのね」

 お茶のおかわりを持ってきてくれたミファーが、僕の見ているものに気付いてこちらにやって来た。

「これって、昔の君かい?」
「えぇ、そうよ。これは私の御母様が生前描いてくれたものなの」

 今から三十年くらい前に描かれたものらしい。
 丁度、彼女の弟であるシド王子が生まれてすぐだと教えられる。

「三十年前……。僕が産まれるよりだいぶ前だ」
「ゾーラは長命だから……私達、ハイリア人の五倍ほど長く生きるんだよ」
「五倍……僕らリト族じゃ中々ピンと来ない数字だ」
「ふふっ、リンクや姫様にもよく言われるわ」

 更にページを捲っていくと、挟まっていた紙がスルリと落ちた。

「あっ……そ、それは……っ!」

 ミファーが酷く動揺しているけど、どうしたのだろう。
 構わず拾い上げると、あいつらしき金髪碧眼のハイリア人がゾーラのマークの付いた青い鎧を着ている絵が描かれていた。
 絵の下の方には『完成予想図』と走り書きされている。

 ゾーラの王族の姫君は自身の婿となる人物に自ら鎧を作って贈る風習があると聞いた事があるけど……。
 これって、まさか。

「君……あいつの為にゾーラの鎧を作ってるのかい?」

 僕の問いにミファーはビクリと肩を震わせた後、暗い表情で俯いていた。

「……そう、だよね。こんな絵見ちゃったら、誰だって分かっちゃうよね」

 酷く言いづらそうにミファーは続ける。

「うん、そうなの。完成はしてるんだけど……渡す機会はないと思う」

 その声には憂いと悲しみが多分に含まれていた。

 ――ゾーラの英傑は退魔の剣の主に好意を持っている。
 ミファーが自分から話した事なんてないけど、これは僕ら他の英傑にとっては周知の事実だった。

 ――想い人であるあいつ以外は。
 それでも、その事実をお姫様の口から直接聞くのは少しショックだった。
 どこかで違ってほしいと願っていたのかもしれない。
 ことミファーについてだけ言えば、僕にはあいつに勝ち目なんてないから。


 ◇ ◇ ◇


「ねぇ、貴方は……好きな人とか気になる人っている?」

 なんて声をかけようか悩んでいると、ミファーがそんなことを聞いてきた。

「なっ、何を藪から棒に」
「何となく、気になっただけだよ」
「……」

 いるかどうか位答えても問題なさそうだし正直に答えることにする。

「――いるよ」
「えっ、嘘……」

 ――その反応、ちょっと酷くはないだろうか。
 ま、まぁこれなら自分が想い人だなんて絶対に気付いてないだろう。
 断じて傷付いてなんかいない。
 構わず話を続ける。

「いるけどその子、他の奴に片想いしててね。今の僕はその子の恋路を密かに応援している状態なんだ」

 嘘をつくのも変な感じがして、ありのままを伝えた。

「……意外。貴方はライバルがいても、強引に自分のものにしてしまう人だと思ってた」
「ちょっと、君は僕をなんだと思ってるのさ。相手の気持ちを無視して迫る程、僕はオコサマじゃないよ」

 お姫様のあんまりな言い様に口を尖らせる。
 大変不本意ではあるけど、日頃の皆に対する態度を少しは改めた方がいいのかもしれない。

「その人への気持ちも、もう諦められたの?」

 他人の恋の話に興味があるのか、おとなしいミファーには珍しく積極的だ。
 想い人本人に答えなきゃならないってのもいささか酷い状況ではあるが、ここで隠すのも不自然だし答える他ない。

「会う機会も多いし、中々難しいね。ま、それも惚れた弱味ってやつさ。耐えるしかないよ」
「やっぱり、すぐに諦めるって難しいよね……」

 お姫様は何やらブツブツ独り言を言っていたが、やがて僕に向き直って何故かお礼を言ってきた。

「ありがとう。リーバルの話、とっても参考になったよ」
「よく分からないけど、どうも。それより、君は既に鎧を完成させたんだろ? 早くあいつに想いを告げなくていいのかい?」

 あれだけミファーのいじらしい様子を、ずっとこっちは見せつけられているのだ。
 少し位、その恋路が報われていないと僕だって不安にもなる。

「――想いを、ね」

 お姫様はまた悲しげに首を横に振って、昔の話をし始めた。

「リンクは幼い頃から、『父親のような騎士になって、王家のお姫様をお護りするんだ』って、目をキラキラさせて自分の夢を語ってたの」

 幼いながら父親の跡目を継いであの姫を護りたい為に近衛騎士を目指していたあいつを、ミファーはいつの間にか好きになっていたらしい。
 けれど彼女の性格と幼馴染み故の微妙な距離感が災いして、中々その気持ちを自覚出来ないまま今に至ってしまったようだった。

「あの人が子どもの頃みたいに笑顔を見せてくれなくなった時は、本当にショックだった」

 そんな折、王家の姫から神獣の繰り手を探しているという話が来た時、ミファーは退魔の剣の主であるあいつを支えたいと一念奮起したらしい。
 その後ドレファン王や他のゾーラ族の反対を押し切ってルッタの繰り手になったのだと、少しばかり誇らしげに語っていた。

 ――僕が思っていた以上に、ミファーのあいつへの想いはとてつもなく強いようだ。
 少しだけ胸がチクリと痛む。

「――でも、最近のリンクと姫様を見ていてね……無駄だったんだって気付いてしまったの」

 夜光石製のランプの淡い灯で照らされた顔を曇らせて、ゾーラのお姫様は更に話を続ける。

「リンクはね、姫様の前だと固くなった表情も少しだけ柔らかくなるの。他の人には分からないかもしれないけど、私には分かる」

 ミファーは自信をもってそう言い切る。長年あいつと幼馴染みとして過ごしてきた時間で培われた、勘のようなものなのだろうか。
 酷く……妬けてくる。

「今日、古代研究所の近くで休憩してる二人を見ちゃってね。私には出る幕なんてなかったんだなぁってますます実感しちゃって……」
「君もアレを見ちゃったのか……」

 ミファーも今日のあの二人のやりとりを見てしまったようだ。
 彼女の気持ちに全く気付いていないとは言え、本当に罪作りな奴だ……あの近衛騎士は。

「なのに、私ったらおかしいんだよ? もう諦めるべきだって分かってるのに、二人が仲良くしてるのを見ると……胸が苦しくなるんだ」

 本当に馬鹿みたいだよねと、自嘲気味に笑みを浮かべてちょっぴり後ろ暗い自身の心境をこぼす。
 想い人が自分ではない誰かに想いを寄せているのが分かる状況は……辛いものがある。
 僕にもその苦しみが痛いほどよく分かる。

「……大丈夫?」
「ちょっと前までとても辛かったけど……。さっき貴方の話を聞いたお陰で少しだけ気が楽になったの」
「僕の……?」

 ミファーは嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべる。

「うん。少し変かもしれないけど、同じ様な苦しみに耐えてる人が身近にいるって分かって……心が少しだけ軽くなった気がしたの」
「…っ…」

 質の悪い皮肉だ、コレは。
 僕の置かれたこの状況がまるで喜劇の一幕のようで酷く滑稽だった。

「だからね、私もいつか……貴方のように好きな人の恋路をちゃんと応援出来るように頑張るよ」

 お姫様は、自分に言い聞かせるようにこれからの抱負を僕に語る。
 だけど……。

「あ、あれ……?」

 ミファーの決意に反するように、その瞳からはとうとうと涙が零れていた。

「おかしいな……。何で、涙が出ちゃうんだろう。赤い月のせいかな……」

 彼女は恥ずかしそうに僕に背中を向ける。
 赤い月がいつもより長く出てるせいで、酷く情緒不安定になってしまっているようだった。

「ミファー……」

 苦しい恋心に翻弄される儚げな彼女の姿に、ひた隠しにしている己の想いが大いに刺激されてしまう。

 ――悲しそうな姿を見ていられない……。
 ――今すぐ抱き締めて、その涙を拭ってやりたい……!

(…っ…―――だめだ…っ!)

 こんな時になんて馬鹿なことを考えているんだ。
 僕がそんなコトしたって、何の慰めにもならないのに……。
 あの華奢な背中を抱きしめたくなる衝動に理性を振り絞って耐えようとする。

 ――が、カーテンの隙間から僅かに差し込む赤い光がふいに目に入ってきた途端……。

(?! く、そっ…どう、して…っ…)

 心に芽生えた衝動のまま、理性とは正反対に背中を向けたミファーの方に勝手に足は動いていく。
 どんなにダメだと心で叫んでも、僕の身体は赤い月の魔力に屈したようにこちらの言う事を全く聞こうとしなかった。

(ごめん…っ…ミファー。僕も…人のコト、言えないみたいだ…っ…)

 スケッチブックをそっと直して、僕は無防備なお姫様の背中に音もなくフラフラと近寄っていた。


 ◇ ◆ ◇


「――君は……本当に健気だよね」

 ぽたぽたと涙をこぼすゾーラの英傑を背後から包むように腕を回した。
 彼女の頭飾りから香るゴーゴーハスの香水が鼻孔をくすぐってくる。

「……っ」

 抱き締めたくなる衝動は嘴を食い縛ってなんとか耐えた。

「……!? り、リーバル……? な、何を……?」
「き、君が泣いてるから……慰めて、あげようかと思って」
「え……?」

 直球過ぎて当然のように困惑された。
 もっとましな言い方だってあった筈なのに、毒気のせいでタダスズメ程も回っていない己の頭を呪いたくなる。

「そ、そんな必要ないよ……っ。私……その、ホント……大丈夫だからっ……」

 こんなに苦しそうに涙をこぼしているのに、ミファーは僕に強がりを言う。
 それが酷く痛ましくて、愛しくて、慰めてやりたい気持ちが余計に膨れ上がっていく。

 抱き締めたりなんぞは言語道断だが、思いっ切り泣いてすっきりしてもらう為に腕を貸す位なら神サマだって許してくれるだろう。

「すごく、苦しそうで見ちゃいられないよ。僕の腕、貸してあげるから。だから、思いっきり泣けばいい」

 お姫様の赤くなった目元を自分の翼で覆ってやった。

「キャッ! な、何で……。わ、私なんかに……優しく、しないで……っ」

 羽毛の柔らかさに涙腺が刺激されたのか、ミファーは耐えられずに僕の腕の中で静かに泣き始める。
 体を小さく震わせて涙を流す彼女の肩を、僕はなだめるように触れていた。

「悲しいよね。君はあいつをずっと想ってきたのに、あいつは君をちっとも見ちゃくれないんだからさ」

 それは一体誰に向けられた言葉なのか。
 ミファーを慰めたいのか、遠回しに文句を言いたいのか……自分でもよく分からなかった。

「…ぅ、う…っ…リーバル…どうして、こんなっ…」

 優しくしてくれるのかと、震える声で聞いてくる。

「……さあ? なんでだろうね」

 本当の理由なんて言える訳ないので、適当に言葉を濁して誤魔化した。

「……ほら、どうせまだ泣き足りないんだろ? 僕の事はいいから、溜まった涙を全部出し切ってしまいなよ」
「リー、バル……」
「ん?」
「あり、が…とう………」

 そう言ってミファーはしゃくりながら、僕の腕に顔を埋めてしばらくずっと涙を流し続けていた。
 彼女の泣いている姿に毒気も引っ込んだようで心底ホッとする。
 違う意味で泣かせるハメにならなくて本当に良かった。


 ◇ ◇ ◇


 ――結構な時間が経って、ミファーの涙はようやく止まったようだった。

「……落ち着いた?」
「うん、なんとか。ただ、少し泣きすぎちゃったみたいで…体中が、すごく…痛くて」

 あんなに泣いたのだから無理もない。
 おそらく里にいる時も他のゾーラ族がいる手前、泣く事も我慢していたんだろう。

「それなら深呼吸でもして体を落ち着かせるといい。君は色々と我慢し過ぎなんだよ」
「あ、ありがとう……。もう少しだけ貴方の腕、借りるね」

 ゾーラのお姫様は僕の腕の中で、いつかの中庭でしたように大きく息を吸い込んで深呼吸を始める。
 夜光石製のランプが静かに照らす部屋の中、ミファーの吐息だけが厳かに響いていた。


「……はあ、やっと……落ち着いたかも」

 深呼吸して体も落ち着いたのか、ミファーが僕に話しかけてきた。
 その声には先程より幾分か明るさが増し、少しは調子が戻ってきたようだった。

「リーバルって、本当は優しい人だったんだね」
「――本当はって何だよ。僕はリト族の間じゃ強くて義理堅いって評判の戦士なんだけど」
「だって……リンクにすごく対抗意識燃やしてたから、負けず嫌いで気難しいのかなって」
「そ、それはあいつがいつも無表情で何考えてるかよく分からないからだよ。べ……別に、心底嫌いってワケじゃない」

 この僕を差し置いて厄災討伐の要として任を受けてるってのに、リトの村であの技を見せた時だって無反応だったあの手応えのなさを思い出す。
 あと、あの朴念仁っぷりに突っ込みを入れたくなるのも理解してほしい。

 しかし負けず嫌いはまだ分かるが気難しいとは一体なんなのか……。
 ミファーの考えてることはたまによく分からない。

「なら良かった。リンクも皆から見えない処で努力してきたから、今の彼があるの。それを少しでもいいから、貴方にも理解してあげてほしいの」
「む……」

 他ならぬミファーに真剣にお願いされると、僕はノーとは言えなかった。

「……考えておく」

 そっぽを向いてそう答える。
 このお姫様が関わると、あいつには全く敵わないのが本当に腹立たしい。

「ありがとう、リーバル」

 僕の気持ちなんて知るハズもないミファーは、その返事を純粋に喜んでいるようだった。

「……ああ、本当にスッキリした。貴方の腕……すごくフカフカしててとっても温かかったよ」
「それはどういたしまして」

 笑顔でそんなことを言われると僕も悪い気はしない。
 一時はどうなるかと恐ろしかったが、ミファーがまた元気になってくれたのなら御の字だ。

「また言ってくれれば、いつでもハンカチ代わり位にはなってやるさ」

 さっきだってギリギリ危うかったのに、つい見栄を張って軽口を叩いてしまう。

「そ、そんなのダメだよ。貴方だって想い人がいるのなら、その人の為にもこの場所は開けておかないと」

 少し借りちゃってごめんね、なんて見当違いなことを言われてしまう。

「……既に諦めてるってのに、君も酷いコト言うんだね」

 僕の所にこのお姫様が恋人としてやって来るコトなんて、絶対に有り得ないのに……。

「そうかな? チャンスはまだあるって私は思うよ。同じ女性として、貴方の想い人が羨ましいくらい」

 そう呟くミファーは、どこか寂しげで儚げだった。

「――僕は……君の想い人が心底恨めしいけど」
「え……? リーバル、どうしたの?」

 うっかり小声で本音をこぼした僕にミファーが振り返る。

「………」

 不思議そうにこちらを見上げるあどけない表情にドキリとして……。

「……っ……」

 止せばいいのに、触れるだけだった腕の中のゾーラのお姫様を……思わず抱き締めてしまっていた。


 ◇ ◆ ◇


 ――さっきよりも、花の甘い香りが濃く感じてクラクラしそうだった。

「り、リーバル…っ…? ど、どうしたの…?」

 腕の中のミファーが戸惑うように身動ぎする。
 その感触に体が若干泡立つような感覚を覚えた。

「……っと、ごめん!」

 抱き締めていた手を慌てて放し、飛びのくようにミファーから離れる。

 ……良かった。
 そのまま抱き締めていたら本当に取り返しのつかないことになっていただろう。

 ――そうホッとしたのもつかの間…。

「ウッ…グ、ゥ…ッ!?」

 急に体がグラリとよろめく。
 恐ろしいことに、また赤い月の毒気がぶり返してきたようだった。
 心臓は早鐘を鳴らし強い毒気の疼きで頭はグラグラ、足元も酷くふらついて今にも倒れてしまいそうだ。
 しかも強い疼きにまじって『もっとあのお姫様を抱き締めていたい』とか、『あわよくば今ここで押し倒してしまえ』といった身勝手な願望が頭を駆け巡り、さっきみたいに体が勝手に動き出しそうになってガタガタと震え始める。

(ミファーから、もっと…離れないと…っ……!)

 そう思って彼女に背中を向けようとして――。

「ッ?! ……あっ、くそ…!」
「リーバル!?」

 自分の足を自分で踏んで、盛大に転んでしまった。
 倒れた姿をミファーに見られたのは今日はこれで三度目だ。格好がつかなくて酷く恥ずかしい。

「大丈夫……!?」

 慌てて駆け寄ろうとするお姫様を手で遮って制止する。
 幸いにして聡明な彼女は僕の只ならない様子に色々察したようで立ち止まってくれた。

「もしかして、毒気の影響が酷くなってる……?」
「そうだと、思う……っ…。ど、毒気のせいかっ…体が、疼いて変なんだ…っ。今はあまり…僕に、近寄らない方が、良い…っ…」
「で、でも発熱が酷くなる可能性もあるし……。やっぱり、このままにはしておけないよっ!」

 みっともなく荒れた息を吐き出す僕を心配そうに見つめていたお姫様は、意を決したようにまた僕に近付いてくる。

(………っ…もう、本当にっ、どうして…っ…!)

 どうしてこのお姫様は……っ、いつもいつも予想外の行動ばかりして僕を困らせてくるんだろう……っ!

「み、ミファー…っ…、今来ては…だめ、だ…っ」

 毒気のせいで体は思うように動けず、身じろぎしている内にミファーは僕のもとまでやってきてしまった。
 心臓の鼓動はますます速くなるし、体温がまた少し上がったような気がする。

 このままじゃ……本当にマズイ。

「少し頭上げるよ? 熱は……また上がってるみたいだね」

 毒気の疼きで頭が朦朧としてきて、お姫様の声が山彦のように反響する。

「息もすごく苦しそう……大丈夫……?」

 ――僕の額に触れるミファーの綺麗な指先が……。

「目も涙目になってるし、体も震えてる……」

 ――その優しそうで可愛らしい横顔が……。

「寒気が出て来てるみたいだから、後でホットミルク作ってあげるね」

 ――いつもより蠱惑的に見えてしまって………。

「よし、長椅子まで運ぶから………キャアッ!!」

 ――気付いた時には既に遅く……僕はミファーを押し倒していた。

「…ぁ…っ…そ、その…っ」
「りー、ばる……?」

 ミファーの瞳の綺麗さに、思わず目が奪われてしまう。
 押し倒してしまったお姫様の肢体はひんやりと滑らかで……。

「……ッ!!」

 毒気に侵された体が……気持ちに反してドクリと脈打つのが分かってゾッとした。

「だ、大丈夫っ!? またすごく苦しそうだよっ?!」

 それに引きずられる形で、彼女に対する想いが自分本位な欲求に塗り潰されそうになるのを必死で耐える。
 しかし、果たしてどこまで持つのか。
 この程度の毒気に耐えられなくて何が英傑だ。
 本当に笑わせる。

 僕があいつくらい無表情無反応だったらこんな事にはならなかったのか?
 ――どこまで行っても、僕はあいつには敵わないって事なのか……?

(…っ…でも、でもあいつは……! あの朴念仁は……っ!!)

 ミファーの気持ちにちっとも気付かず、王家の姫ばかり見つめてるような奴なのに……!!

(――ちくしょう、無性にあいつに腹が立ってくる……っ!!)

 僕がもしあいつだったら、ミファーを悲しませたりなんて絶対にしないのに。
 なのにどうして、あのお姫様の想い人はあいつなのか……よりにもよって、あの退魔の剣の主なのか……!
 なぜあいつは僕が手に入らないモノをこそ、全て与えられているクセにそれを大事に出来ないのか!!
 どうして自分を一途に想ってくれている彼女の愛に全く気付かないのかっ!!

(ぐっ…ぁ…っ…!)

 怒りに影響されたのか、耐えられない程の疼きが脳天を襲う。


 ――あんなやつに、ミファーを任せていられない。
 ――目の前のお姫様をもっと強く抱き締めてあげたい。
 ――柔らかそうな肌に触れたくて堪らない。
 ――強引にでも、自分のものに……してしまいたい……!

 悪魔のような囁きが頭の中で響き渡る。

(もう……流石に、限界、だ)

 僕の理性のタガは、今にもどこかに飛んでいってしまいそうだった。

「ごめん、ミファーっ……。これ以上、体の疼きをっ……抑えられそうに、ないっ」

 震える声でミファーに謝る。
 彼女はどうにか抜け出そうともがきながら、必死な顔で僕に訴えかけてきた。

「だ、だめだよっ。貴方も好きな人がいるなら毒気に負けちゃ! 私を好きな人の代わりにしても絶対後悔する。だからしっかり気を持って!」

「――――」

 ――まるでガチロックに思いっきり殴られたような心地だった。

(……好きな人の、代わり……だって……?)

 君の代わりなんて、いる訳ないのに……。
 君だから僕は、必死でこの疼きに耐えてるっていうのに……っ!!

「何で、何で君がそんなこと言うの……!?」
「きゃあ!」

 いつものような気取った言い方もできなくて、子どもみたいな言葉でミファーに詰め寄る。
 言われた言葉が悲し過ぎて、滑稽過ぎて……押し倒したお姫様の両肩を両の手で強く掴んでいた。

「きゅ、急にどうしたの……!? は、離して……っ!」
「いや、だ……っ」
「! リーバル、そんな……どうして……」

 困り切ったミファーの吐息が頬にかかる程、自分の顔をぐっと近づける。

「君を強引にでも奪いたくなるのを……僕はずっと耐えてきたんだ。それを……それをっ、代わりだなんてっ……!!」
「えっ……? 貴方……今、なんて……」

 言っちゃいけないことを口走ってる気がしたが、もう止められなかった。

「君の代わりなんて何処探してもいるワケないのに…っ…!! 当の本人がそんなこと言うなんて酷過ぎだろうっ!?」

 ――赤い月の毒気に惑わされ、気づけば僕は衝動的にミファーの可愛らしい唇に自分の嘴をすり寄せそうとしていた。





「!? …だっ、ダメーーーーーーーっ!!」







(―――、―――――あ、あれ……?)

 ――次の瞬間、僕の体はなぜか宙に浮いていた。
 上昇気流で飛び上がる時とは違う、不思議な浮遊感……。

「…ガ…ッ…!!」

 それが一体なんなのかと考え始めた直後、背中に強い衝撃がはしると共に目の前が真っ暗になって……。
 僕は再び意識を手放してしまった。

 ――そういえば、ダルケルが以前面白いこと言ってたっけ。
 この大人しそうなゾーラのお姫様が、ゴロン族に伝わる格闘術の指折りの実力者だということを。


 ◇ ◇ ◇


 ――赤い月の夜が明ける。

 倒されたはずの魔物が蘇り、無くなったはずのものがまた現れる。
 重度の赤い月の毒気に侵されていたリトの英傑はゾーラの英傑との今夜のやり取りを全て忘れ去っていた。

 ひと時の幻が塵芥に変わってしまうように。
 今日の二人の邂逅があってはならなかったもののように……。


 ◇ ◇ ◇


「…ん…っ……」

 目が覚めると僕は誰かの部屋の長椅子で寝かされていた。
 所々に置かれた夜光石製のランプの光が部屋の中を静かに照らしている。

「ここは……」

 起き上がるが、誰もいな…――――

「――目が、覚めたみたいだね」

 何故か、向かいの椅子にミファーが座っていた。

「……っ?! き、きき君何故ここにっ!?」

 あまりのサプライズに長椅子から転げ落ちそうになる僕を、お姫様は呆れ顔で見つめていた。

「ここは私の部屋だよ。赤い月のせいで倒れてた貴方を介抱したの」

 本当に何も覚えてないのかと、確認されるように尋ねられる。

「赤い月……? そういえば、そうだったような……」

 改めて起き上がってミファーに向き直ると、氷嚢が膝にまた・・落ちた。
(…また? また・・って何だ……?)

「驚いた。重度の毒気に冒されると、赤い月が出てる間の記憶って本当に消えてしまうんだね」

 呆然としている僕に、ミファーはどこかホッとしたような声で呟いていた。

「君は、大丈夫だったの?」
「う、うん……。実は貴方を介抱したのも、今日はこれで二度目なんだ」
「二度も……? それはまた随分と迷惑をかけてしまったようだね」
「気にしないで。こういう時はお互い様だから」

 僕の言葉に、ミファーはどこか曖昧な笑みを浮かべていた。


 ◇ ◇ ◇


「――うん、熱もしっかり下がったみたい」

 お姫様に渡された体温計を返す。
 毒気による発熱も収まり、脱がされていた鎧も既に身に着けている。

「これなら部屋に戻っても大丈夫だと思う」
「なら良かった。……お茶までもらっちゃってすまなかったね」
「赤い月は私達じゃどうしようもないんだし、言いっこなしだよ」

 使ったグラスを片付けながら、ミファーは柔らかく微笑む。

「…………」

 ――しかし……どうも、妙だ。
 僕の今夜の記憶が失われているというのもあるのだろうが、何か……ミファーの今現在の様子に違和感があるのだ。
 さっきヒンヤリハーブティーをもらった時だって危うくお茶をこぼしかけるし、今も空になったグラスを片付ける手は微かにギクシャク震えてる。
 いつも何でも卒なくこなす彼女には考えられない行動が目立つのだ。

(……それに何より)

「――珍しいよね」
「えっ、な……何が?」
「君が僕に体温計渡して体温測らせるのがさ」
「…………」

 ミファーは何かに狼狽えるようにソワソワし始める。

「べ、別に、へ……変じゃないと思うけど」
「いつもなら信用できないって、僕にそういったものを触れさせもくれないじゃないか」
「え、えっと……。たまたまよ、たまたま」

 そう告げるとミファーは何故か僕に背中を向けて、石のように固まったまま動かなくなってしまった。
 ――様子がかなりおかしい。

「なぁ、ミファー。赤い月が出ていた間に何かあったの?」

 中々こちらを振り向こうとしない彼女の肩に思わず手を置く。

「ひゃあっ!」

 何故か変な声をあげて驚かれてしまった。
 ……これは怪しすぎる。

 赤い月が出ている間、僕はミファーに何かしてしまったのだろうか?

「ねぇ、君さっきから様子がヘンだよ? 赤い月が出てた間に僕が何かやらかしたのかい?」
「だ、だから貴方はずっと寝てただけだって……! ほ、本当だってば!」

 そんな必死に言い張ったら、絶対何かあったとすぐバレるだろうに。

「僕がずっと寝ていたんなら、二度も君に介抱される訳ないだろ。相変わらず、君は嘘が下手だよね」
「あっ……」
「全く……。僕が君に何かしてるんなら、黙ってないでちゃんと報告してもらわないと今後の信用問題になるだろう?」
「た、確かに……そう、だけど……」

 まだ迷っている素振りを見せるミファーに僕の質問に答えるよう促す。

「ほら、洗いざらい僕のやったことを白状してくれ。その分の罰は受けるし、出来るだけ埋め合わせもするからさ」
「……リーバル……」

 ミファーはその後、口を開きかけて……落ち込んだ顔を見せたと思ったら赤面し始め、最後は何故か膨れっ面になっていた。
 すごい……顔色の変化がリザルフォスの擬態のソレよりもずっと早い。

「……フッ」

 それが微笑ましくて思わず吹き出すと、様子のおかしいお姫様は僕をキッと睨み付け、すぐにまたプイッと横を向いてしまった。

「――全部、全部貴方が悪いんだからっ……」
「はぁ?」
「もう、知らないっ。ほら、いつまで私の部屋に居座る気? 赤い月だって明けたんだから、早く自分の部屋に戻って……っ!」

 荷物と弓を乱暴に押し付けられ、部屋の入口にグイグイと押し出される。

「ちょ、ちょっとミファー、僕本当に一体何したのさ?! 怪我させたり何か壊したりしてないの!? ねぇってば……!」

 ドアの前まで押し出される中、こちらも負けじと問いただす。

「だ、だだ、大丈夫だからっ。貴方は何も悪くないし、私を傷付けたとか一切ないの! えぇ……、る、ルト姫に誓ってもいい……!!」

 よっぽど切羽詰まっていたのか、大人しいミファーが珍しく声を荒げる。
 ゾーラ族の祖と伝えられている王女の名前まで出されたら、流石にそれを信じるしかないのだが……。

「なら、いいんだけど……」
「だからっ、 おやすみっ!」

 納得はいかないが、これ以上は追求できそうになさそうなので大人しく諦めよう。

「あぁ、おやすみ」
「……ぁ、ちょっと待って」

 自室に戻ろうと部屋から出た直後、膨れっ面のままのミファーが呼び止めてきた。

「……今度はどうしたのさ」
「え、えっと……」

 彼女は顔を少し紅潮させながら、言いづらそうに僕から目を逸らしつつ質問を投げ掛けてくる。

「わ、私って……そんなにいつも、危機感ないのかな……?」
「…………」
(僕、ミファーを押し倒しでもしたのかな)

 いやいやいや、流石にそれは邪推が過ぎる。
 彼女が何もしてないって言い張ってるんだからそれを信じよう。

「……そうだね」

 変な妄想を打ち消すように、いつものような忠告をする。

「もし仮に君に惚れてる奴がいるとするなら、同情を禁じ得ない程には危機感ないし、距離感もゼロだ」
「!!」
「気を付けとかないと、そいつが君のソレに耐えきれなくなって、いつか強引にかっ拐われるよ?」
「か、か……かっ拐われるって…っ……」

 またミファーの表情が面白いことになっているが、今からかうと今度こそ本気で怒られそうな気がするのでなんとか笑いを堪える。

「それが嫌なら、自分をもっと大事にするコトだね。こんなところかな……って、ミファー?」

 目の前のお姫様は何やら俯いて震えていた。
 泣いているわけではないみたいだけど、どうしたんだろう?

「どうしたの?」
「……っ! リーバルの、馬鹿…っ!!」

 呼び掛けるとまたキッと睨み付けられ、ドアを乱暴に閉められてしまった。
 参ったな、実体験を元にして分かりやすく答えたつもりだったのに……。

「今日は本当に厄日だったみたいだ…」

 この言葉も今日は何度思い浮かんだ事か……。
 二回? いや、三回だったっけ……?

「……むぅ」

 なんとか思い出そうとしばらく思考にふけるが、消えてしまったものは二度と戻ってきてはくれないようだった。

「ま、どうでもいいか。そんなこと」

 言い聞かせるように呟いて、僕は今度こそゾーラのお姫様の部屋を後にした。
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