リーバルと泥の人魚
【忠告】
―――タバンタ地方、飛行訓練場。
「今日は一段と冷えそうだ」
雪のちらつく早朝、囲炉裏に火を入れて暖を取る。
雪自体は激しく降っている訳でもないが、風は身を切るように冷たい。
いつもならマシロバトの囀りやユキイロギツネの鳴き声が聞こえてくるのに、今日に限って鳴き声どころか生き物の気配すらしなかった。
◇ ◇
この間の襲撃後、気絶した僕は周囲を見回っていたミファーとインパに発見され事なきを得た。
その際泥の魔物と相対した事は伝えたが見逃そうとした事は黙っておいた。
余計な心配をかけたくなかったし、呪いの件は自分だけでどうにかしたかったから。
だが、あれから泥の魔物達はどの戦場にも現れなかった。
微かに気配はするものの、その姿を捉える事は終ぞ出来なかったのだ。
すぐまた会えるものとたかを括っていたのに大誤算である。
そろそろ厄災も復活するかもしれないという時に、一向に姿を現さない彼らに苛立ちに近いものを感じ始めていた。
◇ ◇
「ふぁ……雪女でも出そうな天気だ」
悪夢による寝不足からくるあくびを噛み殺しながら一人ごち、オオワシの弓を取り出す。
囲炉裏の前で胡座をかき、早速弓の弦の張り具合や滑車の調子等をチェックする。
それらを終わらせたら、すぐに弓の鍛錬を始める予定だ。
今日は王家の姫の誕生日の二日前。
明日の夕方にはメドーを村の南東に位置するローム山上空へと移動させて、姫の誕生日に復活するという厄災に備える手筈となっている。
厄災が復活した際、繰り返し見ている悪夢に出てくるような魔物が神獣を狙って襲ってくるとも限らない。
万が一の事態に備えて少しでも弓の腕を上げておきたかった。
「それに……」
弓のチェックを全て終え、立ち上がる。
「厄災が素直に三日後に復活してくれるなんて僕には到底思えないし……」
そこまで口に出した直後、久々に頬の傷がじりじりと痛み出す。
これは……泥の魔物が近くにいるサインだ。
「…ッ……君もそうは思わないかい、泥の人魚さん?」
「――!」
桟橋の方を振り向けばあの泥の人魚がひっそりと佇んでいた。
以前崩れた足もきれいに治っている。
「久しぶりだね」
「…………」
雪がその赤黒い肢体にまとわりつくようにちらつき、ヘブラの奥地にひそむと言われている雪女を思わせた。
「全然姿を現さないと思ったら、急にこんな所まで一人でやってくるなんてね。一体どんな風の吹き回しだい?」
泥の人魚は以前より更に強い邪気と怨念を纏っていた。
だが本人には戦意を感じられないし、武器さえ持っていない。
戦いに来たというわけではなさそうだが……。
「僕を倒しに来た……というんなら喜んで受けて立つけど、どうしたの?」
「……ないで」
「……え?」
僕の問いに彼女は胸元で手をぎゅっと握りしめ、意を決したようにある忠告を口にした。
「お願いだから、明日は神獣に……メドーに絶対乗らないで……!」
その声音には強い焦りと不安が滲んでいた。
(――明日……ねぇ)
明日と言えば厄災が復活すると聞かされた日の前日でもある。
その日に起こりうることで、この泥の人魚が忠告してくるようなことと言えば一つしか考えられなかった。
「……まるで明日にでも厄災が復活して、総攻撃でも仕掛けてきそうな口ぶりだね」
「…………」
この場合の黙秘はきっと肯定だろう。
もしかしたらこの間見逃された礼をしたくてここまで訪れたのかもしれない。
やはりというか、この泥の人魚は魔物なのにお人好しが過ぎる。
「わざわざ敵である僕に忠告痛みいるよ。でも残念だけど、君のお願いには応えられない」
「そんな…っ…死んでしまうかもしれないのに」
「厄災が復活するってのに、メドーに乗らないなんて選択肢はない。そばにいていつでも戦えるようにしておくのが、僕ら繰り手の役目だからね」
「…役、目………」
僕の言葉に泥の人魚は紅く燃える瞳を静かに伏せて、どこか悲しげに俯く。
「……そう、そうだよね。あの時 、私もルッタのそばにいてあげれば……まだ違った未来があったのかもしれないし」
ややあって、遠く東の空を切なげに見上げながら泥の人魚は不可解な事を呟く。
まるで水の神獣を繰ったことがあるかのような口ぶりに、一つの疑念が湧いた。
「……君ってさ、まさかとは思うけどルッタを繰ったことでもあるのかい?」
「――――あると言ったら?」
「!」
驚いて彼女の顔を見れば、赤い瞳が試すようにこちらを見つめていた。
「どうせ、信じてなんてくれないだろうけど」
嘘を言ってる可能性は十分ある。
だが今この場で見え見えの嘘をつくことに意味は無い。
加えて言えばこの泥の人魚は見逃されたからといって、自分の秘密を敵である僕にバラそうとしたりわざわざ忠告してきたりする位の筋金入りのお人好しでもある。
「いや、君が言うことなら信じるよ」
「……!」
僕の答えに今度は泥の人魚の瞳が大きく見開かれる。
当然と言えば当然だが、そんな答えが帰ってくるとは露ほども思っていなかったようだった。
「……貴方って不思議な人ね。こんな邪気と怨念だらけの魔物の話を信じるだなんて」
「君達が一体何者なのか理解しようとしない限り呪いは解けないって、そう思っただけだよ」
「分かっただけで、解ける呪いじゃないだろうに……」
「そりゃそうかもしれないけどさ。よく言うだろ? 敵と戦うにはまず敵のことをよく知ることが重要だって」
「――――」
泥の人魚はひどく複雑そうな表情で僕を見る。
僕が自分のことを知ろうとしてくれることにどこか嬉しく思ってるようにも見える。
だが反面、無意味な行動だと虚しく思っているようだった。
「ねぇ、どうせなら賭けでもしない?」
「賭け……?」
僕の唐突な申し出に、泥の人魚は上品に首を傾げる。
「ああ。もし君の忠告を無視した上で僕が生き残ったその時は、君が何者なのか今度こそ本当の事を教えてよ」
「――――」
息を飲む声が聞こえた。彼女の赤い瞳は信じられないと言いたげである。
「……いいけど。でも、そんなもしも…万が一にも来ないと思うよ?」
それは今この場にいない誰かへの信頼がにじみ出たような口ぶりだった。
「やってみないと分からないだろ。 この賭け、絶対に忘れないでよ?」
「…………」
僕の言葉に呆れたのか……泥の人魚は深く溜息を吐き、一際強い突風に舞い上がった雪達に溶けるように消えていった。
「乗らないで」泥の人魚は不安げに
聞けない忠告はだれ雪寒し
―――タバンタ地方、飛行訓練場。
「今日は一段と冷えそうだ」
雪のちらつく早朝、囲炉裏に火を入れて暖を取る。
雪自体は激しく降っている訳でもないが、風は身を切るように冷たい。
いつもならマシロバトの囀りやユキイロギツネの鳴き声が聞こえてくるのに、今日に限って鳴き声どころか生き物の気配すらしなかった。
◇ ◇
この間の襲撃後、気絶した僕は周囲を見回っていたミファーとインパに発見され事なきを得た。
その際泥の魔物と相対した事は伝えたが見逃そうとした事は黙っておいた。
余計な心配をかけたくなかったし、呪いの件は自分だけでどうにかしたかったから。
だが、あれから泥の魔物達はどの戦場にも現れなかった。
微かに気配はするものの、その姿を捉える事は終ぞ出来なかったのだ。
すぐまた会えるものとたかを括っていたのに大誤算である。
そろそろ厄災も復活するかもしれないという時に、一向に姿を現さない彼らに苛立ちに近いものを感じ始めていた。
◇ ◇
「ふぁ……雪女でも出そうな天気だ」
悪夢による寝不足からくるあくびを噛み殺しながら一人ごち、オオワシの弓を取り出す。
囲炉裏の前で胡座をかき、早速弓の弦の張り具合や滑車の調子等をチェックする。
それらを終わらせたら、すぐに弓の鍛錬を始める予定だ。
今日は王家の姫の誕生日の二日前。
明日の夕方にはメドーを村の南東に位置するローム山上空へと移動させて、姫の誕生日に復活するという厄災に備える手筈となっている。
厄災が復活した際、繰り返し見ている悪夢に出てくるような魔物が神獣を狙って襲ってくるとも限らない。
万が一の事態に備えて少しでも弓の腕を上げておきたかった。
「それに……」
弓のチェックを全て終え、立ち上がる。
「厄災が素直に三日後に復活してくれるなんて僕には到底思えないし……」
そこまで口に出した直後、久々に頬の傷がじりじりと痛み出す。
これは……泥の魔物が近くにいるサインだ。
「…ッ……君もそうは思わないかい、泥の人魚さん?」
「――!」
桟橋の方を振り向けばあの泥の人魚がひっそりと佇んでいた。
以前崩れた足もきれいに治っている。
「久しぶりだね」
「…………」
雪がその赤黒い肢体にまとわりつくようにちらつき、ヘブラの奥地にひそむと言われている雪女を思わせた。
「全然姿を現さないと思ったら、急にこんな所まで一人でやってくるなんてね。一体どんな風の吹き回しだい?」
泥の人魚は以前より更に強い邪気と怨念を纏っていた。
だが本人には戦意を感じられないし、武器さえ持っていない。
戦いに来たというわけではなさそうだが……。
「僕を倒しに来た……というんなら喜んで受けて立つけど、どうしたの?」
「……ないで」
「……え?」
僕の問いに彼女は胸元で手をぎゅっと握りしめ、意を決したようにある忠告を口にした。
「お願いだから、明日は神獣に……メドーに絶対乗らないで……!」
その声音には強い焦りと不安が滲んでいた。
(――明日……ねぇ)
明日と言えば厄災が復活すると聞かされた日の前日でもある。
その日に起こりうることで、この泥の人魚が忠告してくるようなことと言えば一つしか考えられなかった。
「……まるで明日にでも厄災が復活して、総攻撃でも仕掛けてきそうな口ぶりだね」
「…………」
この場合の黙秘はきっと肯定だろう。
もしかしたらこの間見逃された礼をしたくてここまで訪れたのかもしれない。
やはりというか、この泥の人魚は魔物なのにお人好しが過ぎる。
「わざわざ敵である僕に忠告痛みいるよ。でも残念だけど、君のお願いには応えられない」
「そんな…っ…死んでしまうかもしれないのに」
「厄災が復活するってのに、メドーに乗らないなんて選択肢はない。そばにいていつでも戦えるようにしておくのが、僕ら繰り手の役目だからね」
「…役、目………」
僕の言葉に泥の人魚は紅く燃える瞳を静かに伏せて、どこか悲しげに俯く。
「……そう、そうだよね。
ややあって、遠く東の空を切なげに見上げながら泥の人魚は不可解な事を呟く。
まるで水の神獣を繰ったことがあるかのような口ぶりに、一つの疑念が湧いた。
「……君ってさ、まさかとは思うけどルッタを繰ったことでもあるのかい?」
「――――あると言ったら?」
「!」
驚いて彼女の顔を見れば、赤い瞳が試すようにこちらを見つめていた。
「どうせ、信じてなんてくれないだろうけど」
嘘を言ってる可能性は十分ある。
だが今この場で見え見えの嘘をつくことに意味は無い。
加えて言えばこの泥の人魚は見逃されたからといって、自分の秘密を敵である僕にバラそうとしたりわざわざ忠告してきたりする位の筋金入りのお人好しでもある。
「いや、君が言うことなら信じるよ」
「……!」
僕の答えに今度は泥の人魚の瞳が大きく見開かれる。
当然と言えば当然だが、そんな答えが帰ってくるとは露ほども思っていなかったようだった。
「……貴方って不思議な人ね。こんな邪気と怨念だらけの魔物の話を信じるだなんて」
「君達が一体何者なのか理解しようとしない限り呪いは解けないって、そう思っただけだよ」
「分かっただけで、解ける呪いじゃないだろうに……」
「そりゃそうかもしれないけどさ。よく言うだろ? 敵と戦うにはまず敵のことをよく知ることが重要だって」
「――――」
泥の人魚はひどく複雑そうな表情で僕を見る。
僕が自分のことを知ろうとしてくれることにどこか嬉しく思ってるようにも見える。
だが反面、無意味な行動だと虚しく思っているようだった。
「ねぇ、どうせなら賭けでもしない?」
「賭け……?」
僕の唐突な申し出に、泥の人魚は上品に首を傾げる。
「ああ。もし君の忠告を無視した上で僕が生き残ったその時は、君が何者なのか今度こそ本当の事を教えてよ」
「――――」
息を飲む声が聞こえた。彼女の赤い瞳は信じられないと言いたげである。
「……いいけど。でも、そんなもしも…万が一にも来ないと思うよ?」
それは今この場にいない誰かへの信頼がにじみ出たような口ぶりだった。
「やってみないと分からないだろ。 この賭け、絶対に忘れないでよ?」
「…………」
僕の言葉に呆れたのか……泥の人魚は深く溜息を吐き、一際強い突風に舞い上がった雪達に溶けるように消えていった。
「乗らないで」泥の人魚は不安げに
聞けない忠告はだれ雪寒し