藍と群青

 昔、リトの英傑のために作ったうた……実は一度大幅に書き直したものなんだ。
 元の曲はもっと力強い旋律が多かったんだけど、あの英傑と直接話すようになってから違和感を強く覚えるようになってね。思いきって変えてみたんだ。
 我ながら会心の出来だったよ。きっと、あれ以上の曲を僕はもう作れない。
 そんな弱気なこと言わないでくださいって? すまないね、カッシーワ。
 ――ゴホッ……迎えが近いせいか、気も弱くなってるみたいで。


 藍と群青/再び三日月


 ――タバンタ辺境、兄弟岩北の岩場

 早朝の寒空の中、ささめ雪がしんしんと舞い落ちる。
 暗い鼠色の岩場の底に設けられた五体の石像の上に六花が静かに降り積もっていく。
 白い花びらのように清らかなソレは、この地に過去刻まれた苦しみや悲しみを優しく覆い隠すようであった。


 ここは約十年前、魔物達との戦で多くのリトの戦士が散った砦跡である。
 大量の爆薬でもって砦が破壊されたことでその崩壊は砦の下にまでおよび、地面に小さくない地割れを引き起こしていた。
 崩落してすぐの砦周辺はまさに陰惨たる状況であったが、リトの者達によって数ヶ月にわたって地道に清められた後、五体の慰霊像が設置されるに至る。
 それから十年――多くのリト族が何度となく慰霊に訪れていたこの地だが、昨今は魔物が増えたことでその足は遠のきがちであるという。
 最近では月に二人か三人訪れれば良いくらいの状況にまで陥り、周辺では魔物やオオカミの類がうろつくようになっているらしい。
 慰霊像のある岩底辺りはまだ現状を保ってはいるが、周囲の荒れた様子を考慮すればそうなるのも時間の問題のようだった。


 そんなうら寂しい慰霊の地に急にひゅるりと鋭い風が吹きこみ、一人のリト族が音もなく降り立つ。
 上等そうな紺青の外套を頭からかぶり、顔はよく見えない。
 その手にはここの供え物に使われるポカポカ草の実と麦酒があり、この者が慰霊のためにやってきたのだけは見てとれた。

「うわ、もうこんなに積もってる」

 慰霊像に近づくなり、そのリト族は独りごちる。
 声はやや低いがのびやかで若々しく、どうも彼はまだ十代の青年のようだ。

「――そろそろ、笠が必要な時期かも」

 呟きながら、リトの青年は像に積もった雪を自分の翼で丁寧に払う。

「最近あまり来れなくてすまないね。色々忙しくてさ」

 青年はポカポカ草の実を一つずつ供え、慰霊像に麦酒をかけていく。
 ここへはよく足を運んでいるのか、その所作には一切迷いがなかった。
 供え物を終えた青年は像の前で膝を折って黙祷する。

「――――」

 外套を頭からかぶっているため、彼の表情はうかがい知れない。
 だが纏った空気はどこか寂しげで、この地で起こった悲劇を未だに背負っているようにも見える。
 キンと、耳奥が痛むような冷たいヘブラの大気がその背中を包み込むようであった。


「――黙祷する時くらい、外套を脱いだらどうですか」
「!」

 急な声に青年が背後を振り向くと、先ほど彼が降り立った所で鮮やかな緑の羽毛のリト族がゆっくりと翼を畳んでいた。
 高齢のようで身体は青年のひと回り以上大きく、腰には杖を引っかけてある。
 黒い嘴は大きく丸みを帯びていて、愛嬌のある容姿ではあった。
 だが彼の眉間には深い皺が刻まれていて、漂わせる空気は厭世えんせい的な隠者を思わせた。

「おはようございます。先客がいたと思ったら、貴方でしたか」
「…………チッ」

 リトの老人の言葉に、青年はひどく嫌そうに舌打ちして立ちあがる。
 外套の下では苦虫を噛み潰したような表情をしていそうだ。

「……全く、慰霊の場であからさまにそういう態度を取るのは慎んでほしいものです。ここには貴方のお父上や他の戦士達も眠っているというのに」

 老人はブツブツと呟きながら持っていた杖を取り出し、慰霊像の方に歩き始める。カツ…コツ……と杖をつく固い音が岩底に響く。
 そのリズムは軽快とはお世辞にも言えない不安定なもので、親切な者であれば彼に手を差し伸べようとしただろう。
 しかし外套を着こんだ青年はご老体の弱々しい足取りに手を差し伸べるでもなく、しばしただ睨むようにその様子を見つめるだけに留める。

「……ねえ、ちょっと」

 だがすぐたまりかねたように、ため息を吐いてその嘴を開いていた。

「年寄りの冷や水って言葉、あんたの辞書には書かれてないの? 村の外をそんな風によろよろ歩いてたら、今にオオカミの餌食になるってのに」

 嫌味な口調ではあったが、足元のおぼつかない老人への忠告にも聞こえなくもない。
 邪険な態度とは裏腹に、青年はこのリト族を心配しているようだ。

「そういう貴方の辞書には、余計なお世話という言葉がないようですね」

 しかしリトの老人は青年の言葉に自身も嫌味で言い返す。

「自分の身くらい自分で守れます。誰かの手をわずらわせる事態にはなりえませんよ。まあ、もしも貴方が私を庇護してくれるというのであれば、それに越したことはありませんが」
「――相変わらず、雛鳥よりもよく動く嘴だ」
「私は吟遊詩人ゆえ、それくらいしか取り得がありませんから」

 会話というより、まるで言葉の打ち合いである。
 この二人はどうも、あまり仲がよろしくない状態がずっと続いているようだ。

「族長にも言われたはずだろ? もう歳なんだからあまり無茶をするなって」
「だからといってこの地の慰霊を欠かすことはできません。たとえ、私の身に何が起ころうとも」

 そう言い切る老詩人の眼には固い意志が宿っていた。
 青年は呆れ顔で鼻を鳴らし、面倒臭い老爺だと言わんばかりに肩をすくめる。

「…………フン。あんたの意固地には付ける薬がないね」
「それを貴方に言われる筋合いはないでしょうに」

 嫌味をそよ風のごとく聞き流して、老詩人はさっき青年がやっていたのと同じように慰霊像に供え物をした後、ひざまずいて祈りを捧げていた。

「――――」

 青年は老詩人の縮こまった背中を複雑そうに見つめる。
 伝えたいことが喉元まで出かかっているのに結局呑み込んでしまうような、
なんとも言えないいびつな感情に満ちていた。


「笠が、必要な時期になってきましたね」
「…………僕の方で近いうちにかぶせに来るよ」

 黙祷を終えた老詩人が独り言のようにぼんやりと呟くと、青年は仕方ないと言いたげにそう漏らす。

「ついでにこの辺うろついてる魔物やオオカミも片付けとくから、あんたはそれまで村で大人しくご自慢の詩でも詠っていればいいさ」

 そうでもしないともう一体慰霊像が増えることになるしと、青年はまた嫌味ともお節介ともとれる言葉を老詩人に向かって言い加える。

「――」

 老人はその言葉に一瞬目を丸くするが、それを隠すように顔をそむけてしまう。この青年がそんなことを言い出すとは露ほども思っていなかったようだ。

「一応、礼は言っておきます」
「あんたが僕に感謝するなんて、今夜は村のほうも吹雪きそうだ」
「我々がここで会った時点で今夜の天気は決定したようなものでしょうに」
「ハッ、そりゃ違いない。でもまあ……」

 青年はゆっくりと慰霊像を見回す。外套から僅かに見える口元は幾分か憂いを帯びてはいるが柔らかいものであった。

「ここの像が雪をかぶって寒そうにしてるのは、個人的にあまり気分がいいものじゃないし」

 青年はまた軽く肩をすくませた後、老詩人に背を向けてばさりと翼を広げた。
 一体どんなしかけなのか……彼の周りにするすると風が集まり始め、岩底に積もった雪を撫でるように巻き上げていく。
 この青年は集めた風を纏って空へ飛び立とうとしているようだ。


「――待ちなさい、リーバル」

 今にもどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうな青年を、老詩人は静かに呼び止める。呼んだ名は村一番の戦士であり、今は英傑の一人であるリト族の若者の名前だった。

「なにさ」
 青年が僅かに老詩人の方に顔を向けた時、集まった風に紺青の外套がぶわりと膨らみ、彼の顔が一瞬だけあらわになる。
 その瞳の色は、確かにあの英傑の風を閉じ込めたようなたっとみどりであった。


「――貴方は、やはり今後も戦士として生きていくつもりなのですか?」
「はあ、今さらまた何を言い出すかと思えば」

 リトの英傑は何度も訊かれてうんざりだと言いたげに白い息を吐く。

「当然だろ。それ以外の生き方なんて考えつかないし、考える必要もない」
「もし戦いに敗れて命を落とし、誰かを悲しませることになったとしても?」
「敗れるだって?」

 敗北を意味する言葉にリト族一の戦士はその声音を不愉快そうに低める。

「この僕が戦いで命を落とす? フン、絶対に有り得ないね」
「そんな不確かな言葉、信じられるとお思いですか」

 老詩人の言葉には本来死ぬはずのなかった戦士達が散ったこの地で何を言っているのかという思いが言外に含まれているようだった。

「――僕は死なない」

 確信に満ちたその言葉には、そうでなければならないという強固な意志が見え隠れする。

「厄災ガノンとの戦いだって、たとえ何があったとしても死ぬつもりなんて毛頭ない。なんなら、ここの慰霊像に誓ってもいい」

 それは同時に、この地で起こった悲劇と似たようなことを二度と起こしてたまるかというある種強い呪縛のようでもあった。


「…………貴方という人は、本当に強情ですね」

 一体誰に似たのやらと、老詩人は肩をすくめて大仰にため息を吐く。
 それはどこか、リトの英傑がよくする仕草にとても似ていた。

「――褒め言葉として受け取っておくよ」

 まだ何か言いたげな老詩人に今度こそ背を向けて、リトの英傑はつむじ風を纏って曇天に飛び上がっていった。


 ◇ ◇ ◇


 ―――ハイラル城、シーカー族の宮廷詩人の自室


「すぅ……すぅ……」

 中央ハイラルに朝日が昇る少し前、シーカー族の宮廷詩人は寝息も密やかに小さな自分の部屋で眠っていた。
 麗しい紅い瞳は閉じられ、長いまつげも優美に伏せられている。
 いつもは綺麗に結い上げられている艶やかな銀糸のごとき髪も下されており、その寝姿はまるでお伽噺に登場する眠り姫のようだった。
 普段ならば彼も既に起床している時間なのだが、今日は久々の休日だ。
 休みの日くらいゆっくり寝ていたいと思うのは誰であっても同じなのである。


 そんな穏やかな未明、宮廷詩人の部屋の扉が僅かに開き何者かが音もなく中に滑り込んできた。
 ――まごうことなき不法侵入者である。
 扉には当然鍵がかかっていたはずだが、この辺りの部屋は元々安普請なため心得があれば簡単に開錠できてしまえるようだ。
 本来であればその気配を察知して逆に侵入者を拘束するくらいは可能なはずの宮廷詩人だったが、未だ起きる気配はない。
 最近の彼はこのところ心身共に疲労が溜まっているらしく、完全に寝入っているようだった。
 そもそも今日休みとなったのも前日彼が倒れたことに端を発する。
 何やら事情を知っている風な執政補佐官インパの一言で、半ば強制的にこの宮廷詩人の休みが決定したのだ。
 部屋に侵入した輩もそれを知っているようでごく小さな声で『しめしめ♪』なんて漏らしながら部屋の主の寝台まで忍び寄っていった。

「(よーし、よく眠ってるわね~)」

 宮廷詩人がぐっすり寝ているのを確認した後、侵入者はそろりと立ちあがる。

「(位置よし、高度よし、角度よし♪ せーの……っ…!)」

 そうして持っていたおそろしく分厚い本を、こともあろうか彼のみぞおちの真上から落としていた。


「起きろぉ! この寝坊助詩人ーーっ!」

 健やかな眠りの中にあった宮廷詩人のみぞおちに、鈍器のような分厚い辞典が直撃する。

「⁈ うわぁぁああーっ‼」

 突如強い衝撃が腹部に加わり、眠れるシーカー族の美青年はニワトリもかくやという甲高い声をあげて飛び起きた。

「なっ、何者……っ⁉」

 大辞典という名の凶器によるダメージに悶絶しながらも、宮廷詩人は即座に枕元に隠していたクナイを構える。

「ケホッ、ゴホッ…ゴホッ…‼」

 が、打ち所があまりよろしくなかったのか、激しく咳き込んでいた。

「詩人クン、あっさ~♪ ご機嫌イカガ?」
「ぷ、プルア⁈ …っ……ゲホゴホッ‼」

 宮廷詩人を悪魔めいたやり方で叩き起こした侵入者の正体は、執政補佐官インパの姉でありロベリーら他の研究員らと共に古代遺物の研究に勤しむ若き天才博士プルアだった。


 絹糸のような白髪を高く結い上げ、前髪の一部に朱を差したヘアスタイルは中々に奇抜で彼女の特異性をよく体現している。少し幼げな容姿だが、その瞳には古代遺物に隠された謎を次々と解明していく利発さと鋭さが備わっていた。
 頭脳明晰にして行動力の塊である彼女だが、時たまこんな風に人を思いっきり振り回す悪癖があるのである。


「ゲホゲホッ……、貴女のおかげである意味…ゴホッ、人生最高の目覚めになりましたよっ……ゲホッ!」

 己のみぞおちに法外に分厚い紙の塊を落としてきたシーカー族の才女を宮廷詩人はいまだ激しく咳き込みながら涙目で睨む。

「あははっ、ごめんごめん。物理的衝撃によるショック療法というのを試してみたかったんだけど、ちょっと勢いつけ過ぎちゃって☆ あっ! 良い子は絶対にマネしちゃダメだからネ!」

 ウィンクして舌を出す才女は無邪気そのものであくびれる様子はない。
 どうも昨日倒れた宮廷詩人を彼女なりに元気づけたいと考えた結果の行動のようではあったが……。

「ゲホゲホッ…‼ 笑いごとじゃ、ないですよ…っ…! あと数センチずれていたら、ろっ骨にヒビが入るところでっ……ゴホゲボッ!」
「あ、うそ……マジ?」
「ゴボッ……‼ マジ…ですッ……ゲホ、ゴホゴホゲホッ…‼」
「ちょ、ちょっと大丈夫⁈」

 ますます咳き込んで寝台の上でうずくまる宮廷詩人に、さすがの天才博士も慌ててその華奢な背中をさすっていた。


「――全く、朝っぱらから一体何をしているんですか! 貴女はっ⁈」
「だ、だからさっきから謝ってるじゃない~っ」

 およそ十分後、ようやく持ち直した宮廷詩人は騒動で乱れた夜着を整えた後、寝台に腰かけて不貞腐れ気味のプルアにその怒りをぶつけていた。

「むー……実験は失敗。被験者への身体的ダメージ大――と。目算では完璧だったのに、計算どこで狂ったのかなぁー」

 プルアは小さなメモ帳を取り出し、先ほどの実験結果(?)を冷静に書き記す。

「それ、本当に申し訳ないと心から思っている人間が言う言葉ですか……?」

 反省の色があまり見えないプルアの態度に、宮廷詩人は疲れたように肩を落とす。

「そうだけど、だめ? あーほら、プルア様謹製がんばりハチミツアメあげるから機嫌直してよー」

 取り繕うように笑みを浮かべて、プルアは自身の結い上げた髪の中に指を入れて何かを探り始める。
 少しして中からカエル柄の可愛らしい紙に包まれた濃い橙色のアメを何個か取り出し、宮廷詩人の手に強引に掴ませていた。
 この才女はいつでも糖分を摂取できるようにと髪の中に彼女特製のアメを沢山隠しており、何かトラブルがあるとこんな風に何個か取り出して相手に掴ませるのである。

「……はあ、わかりましたよ」

 もらったアメをまじまじと見つめたのち、宮廷詩人は深々とため息を吐く。

「おーさっすが詩人クン、話分かるじゃん♪」
「貴女にはこれ以上何を言っても暖簾に腕押しでしょうしね」
「なんか言った?」
「いえ、なんでもありません」

 通常のものよりも色の濃いソレを机の上に置き、宮廷詩人は改めてプルアに向き直る。


「――それで、こんな早くから僕に何用ですか? どうせ研究所で古文書の解読でもさせるつもりなんでしょうけど、今日は断固拒否しますからね」
「姫様も研究所にくるかもしれないのに……?」
「今日のゼルダ様は城から出るご予定はなかったはずです。……そう何度も同じ手には乗りませんよ」

 以前もそうやってだまされて、一日中使いっぱしりにされたのを宮廷詩人は根に持って――もとい、よく覚えていたようだ。

「………………チッ」
「今、舌打ちしましたよね?」
「あーもーうるさいなぁ。今のはジョークよジョーク! ほら、コレ! アンタ宛ての手紙と薬!」

 ずいっと厚めの封筒と何やら薬品の入っている瓶を鼻先に突き付けられる。

「アンタ宛ての手紙と試作のスタミナ薬。薬はインパから飲んでおくようにって。試作だけど効能及び安全性は確認済みだから安心して飲んでネ♪」

 感謝しなさいヨと、プルアはお決まりのチェッキーポーズで大威張りだ。

「は、はぁ。一応、ありがとうございます」
「なによその一応って……。アンタってつくづくノリ悪いわよね~」


 プルアは面白くなさそうに人の机にどっかと座り、そこにあった彼の藍色のかんざしを手に取って指でくるくる回し始める。

「もう、人のかんざしで遊ばないでくださいよ。貴女もこんな所で油売ってないでさっさと研究所に戻ったらどうですか」

 宮廷詩人はまた大きくため息を吐いて、机の上から足をブラブラさせているプルアに帰るよう促す。

「ちぇ~、詩人クンのいけずー。顔は良いのにつくづく勿体ないわー」

 口を尖らせながらもプルアはあっさり引き下がり、机からすとんと降りる。

「はいはい、どうせ僕はノリが悪くていけずの顔が良い宮廷詩人ですよ」
「顔が良いのは否定しないのね……」
「何か仰いました?」
「いーえ、なんでもありませーん」


「あー……、あのさ」

 部屋の扉の前までやってきた時、プルアはどこかためらいがちに宮廷詩人の方を振り返る。

「なんですか」
「あいつ――リーバルとのこと、インパから聞いたよ。昨日倒れたのも、どうせそれ気に病みすぎたのが原因なんでしょ」
「――――」

 あまり人に知られたくない話な上にプルアの指摘が図星だったようで、彼は若干ムッとした表情でうつむいてしまう。

「はぁ、アンタって本当にガラスみたいにセンサイよね。身体もちょっと弱いし、走るのだって昔っから私の方が早いし」
「脚の速さは今の話に関係ないでしょ……」

 もう聞きたくないとばかりに宮廷詩人はプルアに背を向ける。

「でもね、あいつ多分アンタのこと嫌いになったワケじゃないと思う。単純に顔を合わせるのが気まずいだけなんじゃない?」
「…………」

 プルアの言葉は宮廷詩人にとってにわかには信じがたいようで、いぶかし気にその目を細めていた。

「アンタは信じないかもしんないけどネ。とりあえずそんだけ! じゃね♪」

 ヴァーイの勘はよく当たるのヨと何やら意味ありげに言い残し、プルアは宮廷詩人の部屋から文字通り煙のようにドロンと消える。
 代わりに、部屋にはシーカーマークの描かれた赤い術符が大量に舞っていた。

「……はぁ。この術、屋内では非常時以外は使うなってインパ様にも言われてただろうに」

 使い終わった術符を片付ける身にもなって欲しいと、宮廷詩人はまた疲れたように嘆息した。

「相変わらずはちゃめちゃだな、あの人」

 独りごちて、宮廷詩人は彼女が置いていった飴玉達を見る。

「ヴァーイの勘――ですか」

 今日はあの才女のせいで最悪の目覚めとなった宮廷詩人だったが、彼女なりに自分のことを心配しているのは理解したようで少しだけ面はゆそうな顔をしていた。

「さて、そろそろ起きようかな」

 小さな嵐が過ぎて、宮廷詩人は朝の支度を始める。
 部屋の小窓をそっと開ければ、ようやく日の出を迎えた空にアオナミスズメのさえずりがうららかに響いていた。


 ◇ ◇ ◇


 あれから一ヶ月以上経っても、リーバル様は僕の演奏を聴きには来なかった。
 あの英傑のつむじ風が再び僕の服をバタバタと騒がせることはついぞなかったのである。

 ちなみに城では今も頻繁ひんぱんに英傑同士の会合が行われているのだが、どうもあの戦士から避けられているのか城内ですれ違うことすらなかったのだ。
 当然といえば当然だが、やはり寂しいものだった。
 それまでどんな嫌がらせを受けても理不尽な陰口を叩かれても、こんなに辛く感じはしなかったのに……。
 僕の心は宮仕えになってすぐの頃より随分と弱くなってしまったようである。


 それに加え、ゲルド地方でのイーガ襲撃事件を契機にゼルダ様があの退魔の剣の主と良い雰囲気になっていることも、僕の心を大きくかき乱していた。
 僕が演奏している時も遺物調査に同行した際もゼルダ様はどこか上の空なご様子で、その表情は明らかに恋をしている者が浮かべる類いのものだ。
 幸か不幸かあの姫には自覚がないようで、それが余計に悔しくて自分を見てくれない不満とあの騎士への嫉妬ばかり溜め込む日々が続いていた。
 そうして昨日に至っては数日後に行われる晩餐会での演奏の打ち合わせ中に倒れてしまい、インパ様から強制的に休みを言い渡される始末だ。
 我ながら、とてつもなく不甲斐ないと思う。
 どうにか今の状況を変えたいと頭では思ってはいるのだが未だにその糸口さえ分からぬまま、ただただ日々の仕事をこなすのが精一杯なのが現状だった。


「そういえば……」

 簡単な身支度と部屋の掃除を終えた後、プルアが置いていった僕宛ての手紙を手に取る。

 分厚い手紙にはリト族が使うマークが捺印されていた。

「! まさか…!」

 宛名を見て慌てて封を切る。そこには僕があの村へ修行に赴いた際、お世話になった吟遊詩人のお師匠様の名前が記されていた。


 僕のお師匠様は中央ハイラルでも名の知れた吟遊詩人で、若い頃は王家お抱えの宮廷詩人として国内外でも有名だったらしい。
 だがある日、突然辞めて故郷であるリトの村に引っ込んだのだという。
 本人曰く『城での生活に飽きてしまっただけですよ』とのことだったが……。

「相変わらず、お優しい方だ……」

 手紙には僕を気遣う言葉が並び、城での生活を心配しているようだった。
 お師匠様の優しさが色んなことに参っていた心にひどく染み入る。
 手紙の便箋からはあの地方によく生えているヒンヤリハーブの爽やかな花香がそこはかとなく香ってくる。目を閉じれば、あの村のやや肌寒いが心地良い風を感じられる心地さえした。
 手紙を書けるのであれば元気にされているのだろう。
 今はまだ難しいがいつか長めに休暇をもらってあの村に再び訪れたいものだ。


 手紙の終わりは、何やら抽象的な言葉で締めくくられていた。

『――気に病むことがあっても心配いりません。きっと今に蒼穹を奏でる羽ばたきが貴方の耳にも聴こえてくるでしょう――』と。
「 “蒼穹を奏でる羽ばたき”……?」

 詩的な言葉だが、その分抽象的で分かりにくい。
 これを読み解くのも吟遊詩人としての修行の一環ということなのだろう。
 基本的に温厚で優しいお師匠様だが、ときおり人を食ったようなことを言って僕の反応を試して困らせてくるという悪癖があった。

「――そういえば」

 リーバル様と初めて話した時、密かに既視感感じていたのだがその正体が今ようやく分かった。

「同じリト族だし、もしかして知り合いなのかも」

 かたや英傑にも選ばれた村一番の若い戦士と、もう一方は中央でも名の知れた老獪な吟遊詩人……。演奏の出来にとてもうるさいリーバル様も、お師匠様の奏でる音であれば文句無しで賛辞を送るのだろう。
 僕のように考え無しに詩を披露して相手を傷付けるなんてこと、あの方にはきっと有り得ないだろうから。


 ◇ ◇ ◇


 今日は折角休みをもらったので久し振りに竪琴の練習に勤しむことにした。
 毎日の練習を怠るというのは実際のところ今まで一度か二度ほどしかない。
 だが最近は楽団の指揮や演奏の指導を頼まれることもあり、おかげで腰を据えて練習する時間を中々捻出できなくなっていたのだ。
 お師匠様から手紙をもらって弱りきっていた心が幾分か軽くなったというのもある。だがそれ以上に、インパ様からいただいた試作の薬がよく効いたようで体調面も万全になったのが大きかった。


 ただ、城内で長時間竪琴を弾き鳴らすのはさすがにはばかられる。
 なので城の東にある森林公園へと足を運ぶことにした。
 城の正門で簡単な手続きをし、久々に城下町へと繰り出す。
 町は早朝から多くの人々が行き交い、中央広場には客を呼び込む市場の店主達の威勢の良い声がこだましていた。
 その様子にこちらもなんとなく元気をもらえるような、どことなくうきうきした気分になる。
 体調が良くなったからか、宮仕えに慣れてしまってからは当たり前に通り過ぎていた城下町の景色もどこか新鮮に僕の目に映った。


 市場の活気溢れる喧噪を聞きながら外へ通じる道を通り、一旦城下を出た。
 城門を抜けた辺りでざあと強めの風が吹き抜けていく。
 ロマーニ平原の草達は海原のごとく波打ち、雲一つない空を見上げればシマオタカが甲高くも清々しい声で鳴いていた。


 ボッチ橋辺りまで来ると人の往来もぐっと減り、川のせせらぎと鳥の麗しいさえずりが周囲を優しく満たしていく。
 橋の上から川を覗いてみるとハイラルバスやヨロイゴイなどがパシャンパシャンと水面から飛び跳ねており、その軽快なリズムはとても楽しげであった。
 少し遠くの川べりではタダスズメ達が可愛らしくさえずり合っており、それに似せて口笛を吹いてやれば彼らもこちらに気づいてさえずり返してくれた。


 ――この世界は美しい音達で満ちあふれている。
 そこかしこから聞こえる様々な音達は全てが瑞々しく、心が洗われるようだ。

「忘れていたな、この感じ……」

 当たり前過ぎて見落としがちな真実に今改めて気づかされる。
 お師匠様も『たまには自分の足で歩き、この世にあふれる数多の音達を己の糧とすることも吟遊詩人には肝要ですよ』なんて言っていたのを思い出す。
 思わず苦笑が漏れる。ここ一か月、自分の感情に振り回されてお師匠様に教えられたことすら忘れてしまうとは。僕もまだまだ修行が足りないみたいだ。
 持ってきていた細身の竪琴を柔らかく撫でる。
 今はただ、早くあの風や鳥達のように自分の手で音楽を奏でたい――。
 そんな気持ちが急に強くなり、公園を目指す足も自然と速足になっていった。


 森林公園に到着後、僕は早速公園の噴水広場で愛用の竪琴を丁寧に手入れして音の調子を整える。
 そうして手入れの終わったソレに触れれば吸い付くように手に馴染み、細くしなやかな弦を爪弾けば軽やかで清々しい音色が早朝の小鳥のさえずりのように美しく溢れだしていた。
 竪琴に触れられない時間は確実に増えてしまったが、腕は鈍ってはいないようで一安心だ。


「――そうだ」
(リーバル様のために作った詩――少しだけ手直ししようかな)

 以前、王家の姫より依頼され僕が手がけたリトの英傑の詩はへブラの寒空と伝え聞いた彼の戦士としての強さや気高さを主軸に詠ったものだ。
 曲を書き上げた当時はリーバル様と言葉を交わす機会など当然なく、勇ましいがどこか冷たい曲調になってしまったのは否めない。
 あの英傑と直接話すようになってこの曲を今改めて弾くと、どうしても違和感があるのだ。
 一度完成した曲の手直しを考えたのはこれが初めてだ。
 修正を加えたからといって、以前のものより良い曲になるとは限らない。
 良かれと思って変更した箇所が、かえってその曲の持ち味を壊してしまう場合もままある。
 僕に周囲やリーバル様をも納得させられる形であの曲を書き直せるだろうか。
 ましてあの新月の夜、騙されていたとはいえリーバル様をひどく傷つけてしまった僕が、だ……。
 書き直したい気持ちと裏腹に不安が徐々にこみあげてくる。

(――それでも……やはり)

 吟遊詩人の――音楽家としての僕の心が感じた違和感をそのままにしてはおけないと強く訴えかけてくるのだ。
 今日は体調も万全だし、時間はまだたっぷりとある。
 今を逃せば、きっとじっくり手直しする時間はおそらく取れない。

「…………」

 緊張した面持ちで竪琴を持ち直し、お伺いを立てるようにその弦を爪弾く。
 長年の相棒は僕を優しく叱咤するように甘やかな音色を響かせてくれた。
 それでやっと、迷いが消えた。

(元の曲からは、できるだけ変えずにおこう)

 それでいてもっと、ヘブラやタバンタに吹き渡る爽やかでどこかうら寂しい風のような――。僕の演奏を聴いている時のリーバル様のような穏やかで柔らかい旋律を……。

「よし、やっていこう」

 曲の始まりから数小節ずつ奏でては変えるべき部分を吟味していく。

(少しテンポを落とそう。そして全体的にもっと伸びやかで素朴に――)

 複雑な旋律は廃し、シンプルかつ明るい曲調に変えていく。
 個人的に気に入っていた箇所も思い切って削り、なるべく曲全体の風通しを良くしていった。
 途中、正午を告げる鐘が城の方から聞こえてきたが、昼食をとる時間さえ惜しくてプルアにもらったアメを噛み砕いて空腹をごまかした。


(もっと軽やかに、それでいて繊細に)

 メリハリのある力強い旋律は穏やかなものに、緩急をつけた勇ましいメロディも一旦バラしてより良いものに再構築していく。

(彼の強さは彼自身が周囲に示して語り継がれるもの。今この詩で大いに語る必要はない――)

 手直しを重ねていくうち、ヘブラの山々から吹き下ろす強風のようだった詩は次第に村の風車を緩やかに回すそよ風の軽やかさを持ち始めていく。

(よし、このまま修正していけばきっと……!)

 手応えを感じながら、脳裏に風を起こす際はいつも花の近くを避けていたリトの英傑の姿を思い浮かべる。

 あれこそが、リーバル様の本当の心根なのだと僕は思う。

(歯に衣着せない物言いやプライドが高くて誤解を受けやすい態度も確かにあの英傑の一部であることは確かだ。……それでも)

 その裏には多大な努力と、心の奥に決して人には見せたくないひどく繊細で柔らかな部分があるからなのだと――今の僕ならはっきりと言いきれる。

 なればこそ、かの英傑の真の心根を美しい一片の詩として後世に伝え詠い継ぐのは吟遊詩人である僕の役目だ。
 たかが詩一つであの英傑の全てを語りきれるとは思わない。
 僕もそこまで自惚れてはいない。
 けれど、それによって後の世の人々に伝わるものも確かにあるはずだから。


「――我ながら、驚きだ」

 リーバル様の詩の手直しを終わらせた時、いまだ陽は高く公園の木々を明るく照らしていた。夢中で直していたので途中どうやって変えたのか、本当にあっという間で正直自分でもあまりよく覚えていない。
 それほどまでに曲の手直しに集中していたようだ。
 作り直したリーバル様の詩は今まで僕が作曲した中でも会心の出来だった。
 今だけと言わずこの先たとえ百年経ってもずっと詠い継がれていきそうな、そんな確信さえ持てた。
 それでも、あの英傑に直接聴かせる機会はもしかしたら一度も来ないかもしれなかったが……。

「――――」

 不安を振り払うように軽く首をふる。

(――たとえそうでも、もう構わない)

 リーバル様が英傑である限り、城への出入りがなくなることはない。
 微かにでも僕の演奏を耳に入れてもらえたなら、こちらの気持ちも彼にならいつか伝わってくれるだろう。
 茜を帯び始めた空を仰げば、僕の今の心のように爽やかに晴れ渡っていた。
3/5ページ
スキ