探偵の衰弱的土曜日


 週明けに水晶宮であった事件、と私は折を見て言った。

 ホームズは化粧を落とすのに忙しく、生返事を返した。鏡で私の顔色を確認しているのはすでに知っていたから、こちらもポットの位置をずらして鏡面越しに目を合わす。

「僕が呼ばれなかったのには理由があるのかね」

 彼は鏡から目を逸らした。

「君の代わりにマイクロフトが居てくれたさ。君より役に立ちそうな解剖医と、がっしりとした警部もね」

「ブラッドストリート警部から聞いた。宮内で起きた殺人事件に君の兄さんが遭遇したおかげで――急な呼び出しも可能だったと」

「あのお喋り木偶の坊」

 ホームズが水に顔をつけている間に、私は今週の新聞をあさり、幾つかを手に取った。

「この記事を読んだときは知らん顔だったじゃないか。どうして黙ってた?」

 ホームズは水に濡れた顔でこちらを睨んだ。「何かやるたびに君にお伺いを立てる必要があるのかね」

「やけに君の機嫌が悪いから、困り果てているだけさ」

 実際はもっと酷かった。

 彼は今週、私の知る限りほとんど食べていないのだ。機嫌をとる意志でベッドに忍び込んで背中から抱きつけば、折れそうな肋が元で退散するしかない事態だった。

 ホームズは私の心配をよそに、座ったままの椅子を足先でくるりと回した。

「神出鬼没のブラッドストリート警部が次に配属される先が気にならないかね?」

「彼のことはどうだっていい」

「奴の管轄区域外への出張にはここだけの話、理由があるのだ――つまり政府高官である兄が直接雇った用心棒的な役割をね」

「ホームズ。たとえ警部が君の兄さんの愛人であっても僕には関係がない。あの口回りから揉み上げまでたっぷりフサフサの髭が、君の兄さんの桃尻を毎晩くすぐっていようと僕には――」

「そこまで。桃尻かどうかなんて僕でさえ知らないのに、どうして君が知っている」

 私は首を振った。自覚症状のあるブラザー・コンプレックスほどタチの悪いものはない。新聞の束を床に放って彼に近寄る。組んでいた長い脚を蹴りあげて落とし、机に片手をついて近距離で睨み返した。

「肉付きの悪い尻を撫でるのに飽きたから、つい目で追ってしまうのかもしれん。彼は君より背も高い」

「――」

 沈黙を破ったのはノックの音だった。私は動揺に体を揺らしたが、ホームズは私を睨みつけたまま片手を回した。

「下げてくれ、ハドスンさん! 早朝から取り組んでいた事件のせいで食欲がないんだ。なに、もう終わったことだ」

 ハドスン夫人は扉越しに説教を始めた。自己管理の必要性、食事を取ることの大切さ、神から与えられた五体満足な肉体への冒涜――。

 私は言った。「僕が説得しよう」

 ホームズは私の顔に濡れた手拭いを投げつけ、本棚に寄るとさも忙しくてたまらないといった風に積んでいる本のページをめくった。

「代わりに食べるの間違いじゃないのか? ――この太っちょ!」

「ふ、と――君がどんな兄弟喧嘩をしてきたか容易に想像つくな。僕は傷ついたぞ。そうとも、傷ついたとも!」

「あの」ハドスン夫人の心配顔がちょっと顔を出した。「ワトスン先生に御婦人からお手紙が……」

「隣の犬にくれてやれ」

「いいや、それはこっちにください。ありがとう。ハドスンさん、無理矢理でも食べさせるから料理はそこに」

 私は受け取った盆を書類で一杯の机に置き、手紙の封を食事用のナイフで切った。ハドスン夫人はホームズの悪態を耳にしていたため、彼に非難の一瞥をくれて去った。

 ホームズは階段を降りる音に耳を澄ませ、本を閉じ、咳払いをした。

「マイクロフトと警部の話は冗談だ。僕が警部に金を出して雇っているというあらぬ噂を、レストレードや他の連中にはともかく君の耳に入れたくなかった」

 私は手紙に目を走らせながらナイフで椅子を差し、とりあえず座れと応じた。

 神経の細い女々しい部分は彼らしくない。他に理由があるはずだ。彼は向かいでなく机に座り、私は文面を目で追った。組み直した脚しか見えない。

「わかってる。君の報酬では警部を雇えないことも、ブラッドストリート警部の目線が君の尻を追ってることも」

 ホームズは声を和らげて、あれは挿し絵画家の悪戯だと笑った。「手紙は面白いか」

「ああ……ポニーが庭先で怪我をしたそうだ」

 フォークでブロッコリーをつつき、彼に向かって腕を突き出す。「食べなさい。医者としての忠告だ」

 ホームズは無言だった。私は手紙も机に置いて二枚目を読んだ。よし。口には入れたな。しかし残りは消化の良さそうなドロッとしたものばかりだ。私はパンをナイフで切った。

「燭台の数が一本足りないが、侍女の手癖を直すのにいい方法はないかと書いてある。他は椅子を塗り替えたとか壁掛けを変えたとか――どうでもいいな」

「女はどうでもいい日常会話でコミュニケーションを取るものだ。それにつき合えないと集団から疎外される生き物だからね。しかし文節ごとに三語目を拾うと手紙全体が違った意味になる」

 私は鳥に餌をやるような気分で、彼にパン切れを次々と渡した。手紙は四枚目に達している。「三語目?」

 最初から読み返すつもりで手に取ると、上から奪われた。

「ホームズ。何か誤解をしてるなら……」

「手を」

 ため息を吐いて、どうぞと差し出した。そっちじゃない、と机から降りて左手を取られる。しばらく見たあと、ぽつりと呟いた。「――指輪は」

「あの婦人とは何でもない。そろそろ別の医者を紹介するつもりだった。頭のほうの」

「質問しているのだ。ワトスン」

 観察力も弱るなどという馬鹿げた話があるだろうか。胸元から探し物のついた懐中時計を出した。私の口から聞きたいだけなのかもしれない。

「行為の最中に弄り回すのをやめたら戻すよ。それよりもう少し食べて貰えないかね」

「――すべて食べさせてくれるなら考えないこともないね」

 嫉妬とも羨望とも違う。私はその感情を名づけようとしてやめた。スプーンを手に取る。そして代わりに財布の中身を考えた。

 土曜は五シリング。金曜はその半分。中産階級の手軽なデート先としては悪くない――。



 探偵の衰弱的土曜日。



End.
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