探偵の行動的水曜日



 ホームズ。

 見開いた目が、熟れすぎた林檎のような顔に乗っている。出した声は大声ではない。小さな囁きに等しい。暗闇の中でも比較的扉に近い位置に居たため、口の形で読めた。

 奥の席で一人の紳士が咳払いをした。右手にいる老人は鼻眼鏡を直すふりだ。その向こう側では淑女が扇を広げる。

「300。310。350」

 競売場としては狭い場所だった。他はないですかと甲高く叫ぶ。

 木槌を叩くときだけが勝負だ。もうないと見せかけて、一人の男がスッと足を組んでサインを出した。すかさず読み取った数字を言うと、長い沈黙が訪れる。私はうなずいた。

「500でアーヴィング卿の落札!」

 呻き声と歓声が響く。私はこちらに来ようとするワトスンにそこにいろと目配せをした。

 カーテンの奥に呼び寄せた落札者が品物に署名する間に、次の品物が他の競売人によって競られていく。紳士の従者が私の肩にそっと手を置いた。「――裏は」

「もちろん御座います」

「では二席予約だ。いや、私ではない。殿と御婦人が一人」

「本日深夜からです。お待ちしております」

 ずいぶん背が高い、と襟を触られた。きつい香水の香りと整えた八木髭に一瞬身の危険を感じる。人の裏を読む世界には鋭い男が多いのだ――主人は従僕の性癖を知っているのか見て見ぬふりで席に戻った。

 男の指が私の股を撫で上げる。「深夜――か」

「お好みの方もご用意できますが」

「殿にはツレがいらっしゃる。君が私の好みだ」

「失礼」誰かがカーテンを開けた。「君はあがってもいいようだ」

 従者は素早い動作で離れ、何事も無かったようにワトスンに礼をして元の席に戻った。重要なことは何も見てなかったに違いないが、彼は持ち前の勘の良さで男の背中を眺め、ため息を吐き出す。

「男に口説かれてどうする」

「相変わらず人目も憚らない輩がいるものだ」

「夜の部はつまり――」

 人買いのそれだよと返すと、彼は首を横に振った。長居はまずい場所だ。

「よりによってこんな所で、君に会うとは思わなかった」

「ワトスン。ここは正式な催しではない。そのかわり出品される品々は希少で」

「何をやってるんだ。競売人の修行をしてるなんて知らなかったぞ」

 廊下に踵を返した。ついてくる手には荷物がそのままだ。

 見知った者を見た驚きからかコートや帽子をドアマンに渡すのも忘れたらしい。ステッキをまず奪った。脱いだ上着は彼に渡す。袖口を二の腕までめくり上げ、次には丸い山高帽を。ベストのボタンを半分外し、懐から出した時計を彼にやった。

「紛れているだけさ。出品される物の中にちょっと気になるものがあってね」

「だったらなぜ変装もなしに――」

 急に立ち止まったせいで背中に体当たりする腕を引っ張り、ひとつの扉に入った。上着を脱いでそっちを着ろと言えば、ちょっと興味を引かれたらしい顔でせっせと着替える。

「……言いたくはないが僕ではボタンが」

「ああ、わかってるとも。ちょっと着崩して。出るときは違う人間でないと顔も割れてしまう」

「説明をまず先に求めたいんだがね」

 雑然とした部屋の中をうろうろと歩き回ったが、気の毒な道化のようになってしまった相棒も放ってはおけない。私は腕を組んだ。

「君がここにいる理由はいくつか考えられる。まず君の受け持っている患者の一人に幼い女の子が……」

「当たりだ。僕のほうはもういい。目玉のテディはもう落札されてしまったらしいな」

 表情を曇らせ、下を向いてしまう。近づいてそっと帽子を持ち上げた。「気の利く友人が君の興味を引くために、わざと路上で呼び込みをさせたんだとしたら別だ」

「でも落札――あ」

 取り上げた帽子の中から、隠し持ったクマを見つけると、ワトスンの顔がにわかに明るくなった。

「素晴らしい!」

 期待通りの反応に満足した。

「それほどでもないよ」

「君のことではない、この縫いぐるみだよ!」

 むっとして口をつぐめば、冗談だと慌てて言ってくる。ワトスンの半分はその場の素直な反応でできており、残りの半分は私への建前だ。

 煙草を取りだした。

「クマさんもさぞ喜んでいるだろうよ」

「ホームズ」

「君のためではない。その年代物の懐中時計もね」

 変装騒ぎでよく見もせずにポケットに入れた時計をワトスンが取り出す。

 ああ、と吐息と共に吐いた。

 先月すっかり息をしなくなってしまった時計の替わりとしては物足りない。傷から読み取れる物語が彼の気に入りそうで思わず競ったものだった。

 二重に驚かせようという計画は過剰だったらしい。くわえた煙草から落ちる灰を気にせず、ワトスンの服装を直す。

「――ホームズ」

 正装には合わない色のタイを外して、彼が着ている自分のポケットからもう一枚出した。首に回した手首を取られる。

「嬉しいよ」

 拗ねているわけではないことを示すために指先で煙草を取り、音をたてて軽く口づけた。仕立て屋にもなれると褒め称える言葉にそうかねと返す。

 もう少しかと気のない素振りで手近な椅子に座れば、ようやく望みの見返りが。唇の端で抑えきれない笑みと共に受け入れた。

 世話が焼けるという声は聞かなかったこと、だ。



 探偵の行動的水曜日。



End.
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