探偵の憂鬱的火曜日


 巡査に引き止められる。自分の姿を思い出し、咄嗟にシェリング・フォードと名乗った。

「フォードさん?」

 フルネームを名乗る労働階級など殆どいない。没落した男なら別だ。変装の粗にも関わらず、巡査は私が浮浪者だと信じている証拠に警棒を指で弄った。

 しかし彼には礼儀があった。

「ここに入るにはトイレでさえ金がいることはご存知ですか」

 私は嗄れ声を出した。

「人気の衰えようったらねぇぜ。破産しかけの火の車。豪奢な建物の影で泣いてるお偉方のために、用だけ中で足させてくれよ。な、いいだろ」

「火曜ですので1シリング頂戴致します」

 すげない言葉にポケットを探ってみた。「忘れたよ。すられたのかもしれん。そこの壁使ってもいいか?」

 穴の空いたポケットから指を出せば、巡査はため息を吐いた。週末以外は農民や労働者が入りやすい金額になっている。

 一人くらい通すのは問題ないと思ったのだろう。中に入って右だと示す。指の先では来場したみすぼらしい浮浪者を咎める視線さえないほど、閑散とした施設が広がっていた。

 その昔に栄えた博覧会の末路。シドナムに再建されたのは、自分の生まれ年と同じだ。もうじき政府のものになるらしい。絢爛できらびやかに見えた柱のひとつさえも、遠い昔の思い出に比べると色褪せてしまった。

 だだっ広く従業員さえ疎らな吹き抜けをぐるりと見回せば、早く済ませて帰れと言わんばかりの目を背中に感じる。下層階級にしか見えぬ老人が聖書の一節を呟こうと寝言にしか聞こえないのだ。

 しかし彼の思惑は外れた。

「シャーロック! よく来てくれた」

 遠くから杖をついて小走りに歩くマイクロフトの姿に、私は舌打ちした。

 シェリングだ、と気の短い老人の真似で叫び返せば、やれ年だから忘れてしまったと笑いながら手招きする。

「すごいぞ。ここのトイレは水を流すと音楽が流れる仕様に変わったのだ」

「騙されんぞ。水洗の仕掛けに秘密があると、悪戯な兄弟に言われたせいで何時間もこもったことがあるんでな――酷い目にあった」

「それは厄介な兄弟だ。覚えているとも。詰まって溢れる汚泥と着飾った観光客の白い目。耳を引っ張る父の神経質な指!」

 私は成人してたがお前の代わりに臀をはたかれたぞと、責任転嫁も甚だしい言葉に相手をにらんだ。

 年の離れた兄に対する尊敬と信頼だけが存在した時代もあった。遥か遠い昔だが。

 ご苦労と労われた巡査は目を白黒させている。正装してでっぷり肥った紳士と対照的に、私のほうは煙突から抜け出たような風体だった。兄はポケットを探り、巡査に入場料を払った。

 娯楽施設内の馬車を使わず、来たときと同じように歩きだす。

「ドクターはどうした」

 私は変装は諦めて声を落とした。

「彼は先月からとある貴婦人の玩具なのです。事件解決後も腹を壊したとか、足を挫いたとか、喉の調子が悪いだとか。理由をつけては呼び出されている」

「む。それは災難だな。何か手伝えることは?」

「なにも。おかげでワトスンはドン・ファンの名を欲しいままにして再同居について他からつべこべ言われることもなくなった。礼を言います」

 依頼者は兄の知人だったから、てっきり彼が仕組んだことなのだと。兄は日常的に私を驚かすことのできる唯一の人物と言っていい。

 だが兄は言った。

「それは好都合。だがお前はひとつ読み違えているぞ。その高貴なご婦人とドクターのその後について私はノータッチだ」

「――」

 横目で見上げれば、大きく肩をすくめる。事実に顔色を変えた私を気の毒そうに振り返り、立ち直る時間を与えるためか歩調を緩めた。

「この間会ったときに指輪を見たが、外した形跡はなかった。前妻の面影を消せてない証拠だ」

「――慰めになるね」

 質素な服装の子供たちを相手に球芸をしていたピエロが、マイクロフトのインドから来た象のような歩き方を真似る。

 子供たちは一斉に喜んだ。

 兄は気を悪くするどころか杖を振り回して複雑なステップを踏んだ。曲芸師は真似ようとしてスッ転び、喝采を贈られた兄は大袈裟に帽子を取ってお辞儀した。

 私は紳士の投げる小銭を拾って内ポケットに入れた。ご機嫌な兄の顔をうかがったが、思惑は読めなかった。

「腰を傷めてもワトスンは呼びませんぜ、旦那」

「美しい貴婦人との愛のマッサージに忙しいなら仕方あるまい」

 耐え難い苦痛に呻くと、兄は続けた。「暗い顔をするな。気晴らしに音楽を聴いてはどうだ」

「電報を受け取ったとき、僕は調査中だった。マイクロフト。仕事を片付け、観光はそのあとで――」

「シャーロック楽団」

 それは名案だ。頭の中で先週聴いた交響曲を繰り返した。

 建物の扉から現れたブラッドストリート警部に挨拶ができない。口の動きを追っても意味がわからず、兄がジェスチャーで私であることを説明していることだけ理解できた。

 警部には通じず、兄は説明を諦めた。私は転調しながらハミングを続けた。繰り返し繰り返し。

 ポケットの煙草を探ると、ここで吸うなと警部が顔色を変える。

 構わず火を点けマイクロフトの口に押し込むと、兄は気にも止めず吸った。煙を吹き出した二本目を警部に渡すが、彼は浮浪者との間接キッスを嫌がった。

 “耳をやられてるのか”? 警部がゆっくり言った。私はにやっと笑った。この場にいない相棒の情事の映像が消えるまで、ひたすら幻想の音楽を聴き続ける。

 口だけ動かした。“やあ、警部――”。


「ドクター!」


 警部が私の後ろを見て大声を出した。

「こっちだ、こっち。中の有り様ときたら酷いもんだよ。昨今の大衆伝達ときたら鼠の足より速い。記者が嗅ぎつける前に早めに会場を閉鎖せんことにゃ、あの人にどやされるのはこの……私……」

 警部と駆けつけた医者の双方が、私の顔を見て警戒した。一人は警棒、一人は杖に手をかける。

「続けてくれたまえ。諸君」兄は笑った。

「こちらの御亭主は気にせんで構わん。おおかた嫁御の名前でも聞き間違えたんだろう。おかげで頭の中のシンフォニーは掻き消されたようだ」

 名前? それでは何処に居ても逃げられぬ。馬車を呼ぶ、犬を呼ぶ、他人に軽く謝る、誰かを脅す、挨拶をする――。

 私はため息をつく代わりに悪態をついた。それが私自身の声だったため、警部はあっと声をあげて、片眉を動かす兄と顔を見合せた。



 探偵の憂鬱的火曜日。



End.
</bar>
1/1ページ
    スキ