探偵の突発的自己紹介
「掃除夫の襟首に気づかなかったのかね? 高すぎる鼻で見落としたらしいな」
皮肉を言う男は好かない。
「食肉植物は湿気の多い場所の方が生息しやすいのではないか。とするとやはり虫の数の説明がつかん」
反論する男は好かない。
「ああ、それだけのことか。指をさして『君が犯人だ』と言えば簡単なのに、なぜグラスに指輪やマントルピースの仕掛けや大人数の警官を呼びつける必要があるのだね? 非効率だろう、ホームズ君」
感動のない男は論外だ。
分析? その理論の穴を指摘せずにはいられないので面倒である。
ちょっと馬鹿なくらいの女性など手頃であるが、同居させるだけで『ホームズ夫人』という名の紙切れがいるのでこれも却下。
「ホームズさん。紹介したい男がいるんですが」
スタンフォードはなかなか条件も満たしていた。声が低いので新聞を読ませたときに聞き取りづらいのが唯一の難点だ。
小綺麗にはしているが、肉付きの悪くなった土気色の男が立っている。
なるほどワトスン博士。医者だったか。実直で冗談も言わず女性を安心させる容姿! 条件にピッタリの人間を連れてきたらしい。
典型的な英国人らしく特別これといった特徴もない。
唯一興味を惹かれるのは袖の擦れた跡くらいのもので、おそらく書き物などが趣味であるようだ。
愛想よく笑うことにかけてはこちらの方が負けていない。疲労と初対面の緊張感からか少量の汗が首筋を濡らしている。
その心はまだ戦地の感傷にあった。軽く泳いだ視線を合わせるために、いささか派手な身ぶりで握手をした。
軽い推理で大袈裟に驚く。年のころも一つ二つ上である。扱いやすい。
――紳士をひとり、手中に納めた。
「ホームズさん。研究員である他に貴方は何かしてらっしゃるのですか」
「仕事をね。ホームズで結構です、ドクター」
ワトスンは疲れた笑みを浮かべ、戦場で生やしっぱなしだった髭を軽くあたりたいから床屋へ行くと言った。
荷解きの手伝いは得意でない。見るもの全てに持ち主の歴史が刻まれ、相手が好む好まざるに関わりなく頭脳をいっぱいにするからだ。
一緒にと言えば、丸い目を少し開いて優しく微笑む。御婦人が放っておかないのは目に見えた。
「ベイカー街は詳しいのですか」
「これから知ります。貴方は?」
「ロンドンの空気自体がかなり遠く思える――おっと」
「失礼でなければ」
馬車に引かれそうになった彼の腕を取り、そのまま組んだ。頭半分ほど小さい故に、懐の中まで観察できる。
壁板のごとくやせ細って惨めな男と、同じくやせ細ってただ長いだけの男。
私のほうは体質であり、頬骨に張り付いた皮膚の薄さで年々神経質な顔になっている。
「あそこの店に」
「あれはよしたほうがいい。向かいの店にしましょう」
「またどうして?」
「ウェルカムボードが裏返しだ。店主は寝坊したのだろうから、場合によっては耳まで削がれてしまう」
ワトスンは感心したように呻いた。称賛の眼差しが心地よい。
これを望んでいた――素直に小さな驚きを表して、私の能力を引き出してくれる人間。
傍にいるのが短期間であっても、それは構わない。
どうせ下宿は部屋も別れているし、ボロを出さないように気をつける必要があるのはコカインのことだけだ。彼は医者だから、あの素晴らしい薬の中毒性を見過ごせない可能性がある。
並んで髭を剃り、髪を整えられるまで、おとなしく世間話をしていた。
口元だけ残してさっぱり仕上がった男は、熱帯から帰ったせいで色の変わった黒い肌との境がハッキリ分かれていた。
「ううむ。まだ残すべきだったかな」
「そうすれば今度は髭のあった部分だけ色濃くなるでしょう。羨ましい。私は口周りだけ生え揃うのに時間がかかるんです」
本当は髪もだ。似合っている、の一言が言えずに遠くを眺めた。視線が遠ざかるのを確信してからもう一度顔を盗み見る。
口髭の端を引っ張って、嬉しそうに肩を張った。
一瞬だけ胸が高鳴る。
リスクを伴う性癖を出さないために、今よりもっと金に困っていた若造のときでさえ――誰かとの同居を考えたことはなかった。
好みの相手が来たからといって、振り向いてもらえるわけではない。
事実、彼はパラソルを回している貴婦人の艶やかな視線を笑顔で受けて、会釈した。隣に立つ鉄橋の柱みたいな男は眼中にないのだ。
「さて。街を廻るようなら案内しますが」
私は咳ばらいをして煙草に火をつけた。ワトスンがハッとして伸ばしていたらしい鼻を元に戻す。
「あちらの公園でも。明日はまた霧が深くなるだろうが、脚の怪我には適度な運動も悪くはない」
「それはいい考えだ、ホームズ君。ぜひ頼みます」
そろりと腕を絡めても拒絶されない。しっかり押さえられた手の甲に意識を向けないように、彼に歩調を合わせて歩く。
紳士を手中に納めた。しかし捕らえられたのは自分だと気づくのはずっと後だった。
探偵の突発的自己紹介。
End.
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