教授と私と子供
翌朝になると、先生は何事もなかったかのように炊事場で朝食を作っていた。
家政婦の仕事を奪わないでくださいと言ったが、乳母と共に母屋のほうにいることを思い出す。夕方の列車で帰ると呟いた腕に、すがりたい気持ちを抑えて腕だけ取った。
「もう少しだけ居てくれませんか」
「また手紙を――」
掌で腰の辺りを押さえた。支えようとする手は一度払われたが、周囲を確かめてしっかり掴まった。「ありがとう。皿をテーブルに移して、妖精たちを起こしてくれ」
私はしつけられたブルドッグさながらの体で皿を受け取った。
「いい子だ」
彼の忠犬ではない。お互いに付き合いやすいとは言えぬ性格の、こうと決めたら譲らぬ頑固者だ。どうして揺れ動く。何を迷う必要がある。
彼はもう――私を受け入れている。
「此処に居てください」
「それはできない」
先生の指が頑なに私を追いやろうとする。皿を持ったまま、目の前をよぎる白い手に噛みついた。指を口内に含めば、よせと目尻を赤らめて逃げる。
こんな一面があるのだ。
「若く美しい女性が傍にいるのだろう。彼女も承知のはずだ」
「世間が言うようなことは何も」
「ドイル」先生は首を振った。「彼女が死んだ後――子供たちには母親が必要だ」
「エディスが亡くなるとき、そんな風に思えましたか」
押し殺した声に彼は息を飲んで、すまないと謝った。
先生は子供を分け隔てなく扱った。その出自、親の仕事に関係なく無料で診察を請け負っている。彼らは丈夫で繊細な生き物だから、丁重に接しなさいといつも学生に教えてきたのだ。
過ごせる時間はもう幾らもない。彼の小さくなった背中が老いの鐘を鳴らしていた。時計の心音が止まるより先に、愛しい人たちは逝ってしまう。
「貴方が父親のようになれば、私は母親のように振る舞うでしょう。主夫としての能力も一流です。もちろん逆でも歓迎します」
「聞き分けのないことを言うな」
和らいだ眼差しの先には、天使がいたのだろう。ごく自然に見えるようにその頬にキスをした。先生の身体が一瞬揺れる。
私は振り返り、きょとんとしている娘に皿を示した。「ドクターが朝御飯を作ってくれたよ」
娘は扉の淵に指を立てたまま、警戒を緩めなかった。
「お注射する?」
先生は微笑んだ。「いいや、お姫さま。なぜだね」
「朝がパンケーキのときはとっても痛い日なの」
私のうなり声に目配せして、彼は娘を抱き上げた。小さなレディはツンとすましたが、父親である私には満更でもない彼女の心情が読み取れる。
「ドイル。子供たちに治療をするときは常に正直に話しなさい。湿布の交換やベッドの移動が――」
「痛みを伴うことを。またその痛みを軽減しようと我々が努力していることも」
妻に似て聡明な娘が、昔より涼しくなった彼の額にキスをして床へ降りる。
「お寝坊さんを起こしてくるわ!」
ため息を吐いてようやく皿をテーブルに置いた。先生のにやけた笑いが恨めしい。
「そろそろ父親を嫌がる歳だ」
「どうかな。嫌がられたんですか?」
可哀想なダディに、と耳元に素早く。今日は雨のかわりにキスが降っている。とたんに私の中にある少年のような心は機嫌を直し、次のクリスマスが来るまで骨のプレゼントをおとなしく待つ子犬に戻った。
「昨日話していた謎解きについて聞かせてください」
「もう興味はなくしたのかと」
彼は椅子に腰かけた。
「貴方の杖になるのは、私にとって願ってもないことなんです」
まだペンは持っているかと聞くので、引き出しにしまいこんでると嘘をついた。本当は執筆するとき常に手元にある。
向かいの椅子に座り、両指の先を合わせた。
「あの殺人の部屋――マーダー・ルームが私たちを過去へ引き戻すんだ」
先生は首を左右に振り、目をつぶった。「蝋人形の代わりにあるのは死体だけだ。どの部屋を言っている?」
私が口を開きかけると、旅行着姿の息子が現れた。手にはどこから持ち出したのか、パイプと虫眼鏡がある。姉がその後ろをきゃっきゃとはしゃいで、くるくる回った。
おはようございますサー、と几帳面に礼をした。先生は顔をほころばせて言った。
「おはよう。名探偵」
「父さんが怒るから、最近は叔父さんから譲って貰った帽子さえ被れなかったんだ」
「小さなイネスはいつまでも私の英雄だ。もちろん君たち二人もな」
古びた鹿撃ち帽は先生から私の弟への贈り物だった。ではインバネスは? ――後ろへ隠していた華やかな淑女の帽子を胸に押しつけ、メアリはうふふと笑った。
先生の手法にいつも舌を巻く。それは靴裏の泥や眼鏡の跡や香り高い石鹸についての謎解きではない。気難しく感情の起伏に乏しい一人の男が、子供たちの心を一瞬で掴むそのやり方だ。
ベル教授の研究室は――あの血なまぐさい部屋の臭いは、しばらく遠くへ行ってしまった。
「さあ、食事の時間だ!」
穏やかな時間の流れる子供の部屋で、私は微笑んだ。
End.
</bar>
3/3ページ