教授と私と子供
探偵が有名になってしまったので、と私はため息を漏らした。「署名を、と望む人のほとんどが未だに彼のサインを求めるんですよ。墓の下ならぬ滝の下なのだが」
「有名税だな。実は私も欲しい」
お安い御用と出した手に本が置かれる。ペンを走らせる前に思わず笑ってしまった。ぼろぼろなのだ。先生は口の端を持ち上げて二階のテラスから見える庭を眺めていた。
「これは」
「もちろん君の本だ。医学の世界に引き止めようとしたのは間違いだった」
「あの頃は本気で怒っていたでしょう」
そうだったかと小首を傾げるので、脛を足先でつついた。二人の間には昔と違う時間が流れている。
私が歳を重ねたからだ。彼も。
屋敷の間から子供たちが荷物を持って、コロコロと出てくるのが見える。屋敷の離れにベル先生が来ると言えば、滞在してもらう間だけこちらに住むと言い出した。すぐ帰ってしまうと諭しても聞かない。
「可愛い時分だ」
「ええ、本当に。持つまで理解できなかった感情です」
「君は家庭に向いてると思った。奥さんは――気の毒に」
妻の結核は悪くなる一方だった。
昔はベッドに横たわり壁の染みをじっと見つめて一日を過ごすこともなかった。私の名前もまだ口にした。顔を拭けばにっこりと笑った。カーテンを開ければ微笑みが。
診て貰えるか先生に打診したとき、期待はしていなかった。ただ会いたい――会って話したいという気持ちが私の躊躇いの壁を崩した。
「ドイル」
音のない会話が辺りを漂った。
彼はこの感情の在りかを知っている。自らの経験として感じる己の不甲斐なさを理解できる。先生のベストから下がる指輪をそれとなく見つめた。紅茶を飲む度に揺れる。
「お子さんは」
「離れて暮らし何年になるか。私のことなど振り返ることなく育ったが、まだ」
「引退する年でもないでしょうに――」
耳にしていた不安が漏れる。繊細で端正な横顔をさらした。昔と何ひとつ全く変わっていない。
「子供のところに引っ込むと? 馬鹿馬鹿しい。ドイル――人のことより自分のことだ。溢れる若さは風より儚い」
「わかっています。それでご相談なんですが」
探偵の今後について意見を求めると、彼は苦笑して好きにしなさいと言った。「巨大な名声が重荷になるというから、架空の人物は喜んで死んでくれたのだ。彼はいつも君の中にある」
私は唇を湿らした。髭が邪魔でくぐもった声が漏れる。
「探偵は――シャーロック・ホームズは貴方です」
「それは違う。彼は君だ。君をよく知る人たちのほとんどが同じ意見だ」
それが本当なら、私は自分の分身を殺したのだ。
先生は、私の周囲が求めるようには言わないが、心の底まではわからない。折り合いをつけたはずの気持ちが頭をもたげた。若さゆえの気の迷いなどではない。手の届く位置で息をされると、病気にでもかかったように胸が痛む。
「私にとっては――」
ホームズは先生だった。他には考えられない。
高い声で朗々と話し、落ち着きなく歩く足を進めるのだ。大きすぎる頭の中のすべてを理性で固め、近づく異性を寄せつけない存在として。友人と言える男はおよそ一人きりの、孤独な人物として。
温かな友情だけではない、いささか辛辣な二人の関係こそが、現実を表していた。
「まだ謎がある」
「謎?」
ゲームの続きだ、来るかと囁く。遠くを見たまま私に目を移さなかった。師の訪れには理由があったのか。
「ひとつ解けています」
「何のことだ」
「――下肢の麻痺は怪我が理由ではなかった」
過去の記憶を思い起こして話せば、先生は苦笑した。「ジフテリアによるものだ。だがあの日怪我をしたのは本当だ」
かすれてしわがれた甲高い声は、女児を救うため汚物を口で吸い出したせいであると後に聞いた。師は長い脚を引きずらなかったが、杖も手離すことはない。
「気づかぬ君は、やはり医者には向いていないな」
来るかねと繰り返す。
行きたかった。彼はまだ同僚と事件を解決している。足の代わりでいい。見えにくくなった眼の代わりでもいい。だが歳月が私たちの間に横たわり、そのおかげで埋まった先生との溝が――また大きな口を開けている。
「ホームズに悩まされていたでしょう。手法の実践を患者にせがまれたり」
「ああ……まあ、君が私の名前さえ出さなければ、おとなしく隠居できたのにと思うことはある。だが、ドイル」
彼は違う理由で来たのだと、その瞬間まで気づかなかったのだ。
「いかなる理由でも、君自身を疎ましく思ったことなどない」
握られた手から全身に震えが走った。
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