教授と私と事件
先生が私の背中に手を当てた。愛情は伝わってくるが、これは教え子や息子に対するような気持ちだ。私が望むものではない。
振り返ると薄暗闇で深く寄った皴が、年齢より歳を感じさせた。彼は四十になるかならないかだというのに。
「教壇にいつまで立つおつもりですか」
「立てるうちは」
先生は息を吐いて懐中時計を出した。「遅くなった。明日も早いのだろう」
「先生」
ひとつ頷いて、脚を引きずる。暖炉の側に寄り、背を向けて座り、パイプ煙草を取り出してくわえた。私が再度呼ぶと、片手を上げてこっちへ来いという仕草をする。近づいて、椅子に手をかけた。
「ドイル――なぜ女性と引き合わせるかわかるか」
私は気晴らしに? と尋ね、その返事がないことに寒気を感じていた。しばらくして、私は小さく謝った。先生は詰めていた息を吐き出し、マッチで火をつけた。
「気晴らし。若いうちはそれもいいかもしれん。目の前には小説。女。次は酒で、晩年は降霊術にでも頼るか」
冷たい声が胸に響く。
帰っていいぞと言われるのを、目を瞑って待った。しかし何も言われない。いつまでも沈黙が続きそうで、堪えられずに開ける。先生の手の中、音を鳴らして弄ぶ懐中時計には、結婚指輪がふたつついていた。
ひとつは自分のもの。手術中、患者の腹の中に忘れてこないためだ。先生はもうひとつをしきりに擦っていた。
「愛の終わりを破滅に導くな。死んだ者は帰らん」
生きた者でも手の届かぬ人がいる。髪に手の平を当て、そっと表面を撫でた。先生は気づかず、パイプを吸って動かない。やり場のない想いに、鼻を触るふりで自分の手に唇を寄せた。
「ドイル」
返事をせずに、親指のつけ根を噛む。暖炉の熱さで苦しいほどの欲望に身を焦がした。なぜこの人は、自分のものにならないのだろう?
自ら彼を書けば、独り占めできる。
彼の信奉者であるたくさんの生徒を差し置いて、その才能、人格、知性について書けるのだ。
「私の目の前には何があるか知っているか」
私はきつく噛み締めて痣になった掌に満足し、いいえ、と笑った。「棺桶とは言わないでくださいよ」
「――磨きあげたポットだ」
意味に気づくと、嗚呼と声を発して後ずさりした。
ベル先生はゆっくり立ち上がり、パイプをくわえたままこちらを向いた。私は赤くなった頬を見せまいと、彼から視線を逸らした。
「また出会いがある」
「恋人は要りません、僕は」
最後まで言うことはかなわなかった。私を通り越して、扉を開け放つ。先生は、辻馬車は大通りでなければ拾えない、と呟いた。
「また会える。見送りには行けないが、今日は楽しかった」
私は目をすがめ、返事を返して部屋の外に出た。一階まで駆け足で降りる。外套を着ようとするのに手間取り、脚を傷めているにも関わらず追いつかれてしまった。握手をしようと伸ばされた手を無視する。帽子と鞄を持って挨拶を交わし、目も合わさずに路地へ飛び出した。
すぐに通りへ出たが、馬車はおろか犬一匹、人さえ通らない。自分の馬鹿さ加減に悪態をつく。
「ドイル君! 逆の通りだ」
先生が膝を押さえて、道の真ん中に立っていた。
「教えようとしたのだが。悪いが側に来てくれないかね、走るのはきついんだ」
そのまま道沿いに帰ろうか迷った。自分の体は正直で、彼の方へ歩いている。
これを渡したかった、と先生の手が胸元に触れた。そのまま掌が置かれている。細められた優しい眼差しを見つめて、手を重ねようとすると体を引いた。
胸ポケットに万年筆が入っていた。
「私のものだ。執筆のときに使いなさい」
私が鞄を取り落とすと、高い背を屈めて取ろうとする。私は脚の痛みに呻く彼の体を抱き寄せた。
首に、肩に、縋りついて、微かな涙を隠した。
End.
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