教授と私と事件
学友の誘いは基本的に断らない私も、その日ばかりは我らが教授ベル先生を優先させないわけにはいかなかった。
事件のお供をするのはたいがい懲りている。私の女難を心配した先生は、美しいと評判の女学生をさりげなく会わせることがあった。故にどこで会うにしても、解剖部屋とか研究室だけはごめんなのだ。あの領域はいわば先生の庭であり、咲いてる花ひとつ、芽吹かせるのは瞬きひとつでできる。
私の周囲に春を来させようと努力してくれるのはありがたいが、できれば自分の春にも目を向けてほしい。
先生は校内の階段前にいる。学生の質問攻めにあって、抜け出せない。食事をご馳走しようと言われて、血まみれた手を三十分も洗いながら準備していた自分はなんなのだろう。
先生は目線を上げて私を見た。すまないと口が動く。
不意をつかれて私は微笑んだ。答え終わった先から質問を投げかける生徒に、細い手を挙げる。胸を張ったままステッキをつい、と前にやり道をあけた。
「ドイル。いつからそこにいた」
「――ずっと前からですよ」
わかっている、と先生が背中を叩く。気難しい口元に笑みが浮かんだ。
思わず問いただしたくなったが、先生は歩き始めている。距離をとって後を追った。暖かい風のような眼差しは、私を苦しめるためにわざと見ている気がする。心はとっくに春を過ぎていた。立場を越えて、うだるような熱が体を支配しているのだ。
血気盛んな年頃なら未だしも、卒業を間近に控えた大人の私が――夜の遊びはとんとしなくなっているのだから。
「なぜ離れる。隣を歩けばいいのに」
「先生の足は早いですからね。今日はこのくらいが楽でしょう」
先生は急に立ち止まり、私を振り返った。今度は私が笑う番だった。
「どうしてわかったのだ。引きずっていないぞ」
「足はそうです。ただ、利き手が右腿を無意識に押さえるし、そちらを庇って体全体が傾いている」
私は地面を指さした。「あとは、そうですね……靴跡の濃さで。右はほとんど跡がついてない。体重をかけられないほど痛むんですか?」
「この数年できみは成長した」先生は苦笑しながら肩をすくめた。「完璧とは言えないが、手法を会得している。医者として、どこの国でもやっていけるだろう」
「あるいはデュパンのような探偵としてもですね」
私の言いように、眉を寄せる。首を横に振りながらも、ゆっくり歩いてくれとつぶやいた。
「臨床外科の生徒と、廊下でぶつかったのだ。むこうは額を床にめり込ませたが、私は片足をくじくだけで済んだ」
「見せてください」
「見たさ。青くなってはいるが、たいしたことはない」
先生、と再度いった。要求をのむ気はないとばかりに、早歩きをする。場合によっては遠出せずに、自宅に戻ったほうがいいと叫んだ。
聞こえているのかいないのか――いるに決まってる――道の端で止まり、口笛で馬車を呼ぶ。
「僕が診ます」
「ターナヴァインの約束を断ったのだろう。廊下中に響いていたぞ。たしかあの歌は」
私は真っ赤になって口を押さえた。先生が数節歌ったのは、年の離れたパトロンと夜を過ごす男娼の唄だった。悪友が、誘いを断った嫌がらせに歌声を披露したのだ。まさかあれを聴かれていたとは!
馬車に乗り込む先生を見て、辺りをつい見回した。学校の前で乗ると、嫌な噂が耐えなくなる。ベル先生の助手になって数年の間、どれだけそれに振り回されたことか。
「早くしたまえ。いまさら気に病んでどうする」
「知ってたんですか」
「歌詞の意味をか?噂の内容をか」
先生は手を伸ばし、私の肩を掴んだ。「歴代わたしの助手を勤める者は、皆そう呼ばれた。私が女学生を助手にしないのは、それが原因だ。乗りなさいドイル」
無言で言われる通りにしたが、頭が割れるように痛んだ。男娼の唄を歌ったカリングワースは、得意の拳で吹っ飛ばしたのだが。私はからかわれたことに対する怒りより、恐れからそうしたのだった。
いつから敬愛する人が、なくてはならぬ存在に変わったのかはわからない。事件を共にし始めた頃だろうか。少なくとも、ジョセフ・ベル本人の内面を垣間見るまでは――師弟の想いだったはずだ。
気持ちを必死に抑える。密着した肩や足の温もりから、意識を逸らした。
「どこへ行くんですか、先生。この時間空いているのは……」
私の自宅だ、と先生は言った。
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