ハドソン夫人の優雅な日常


「アリス」

 ベイカー街の自分の部屋で目覚めたわたくしの前には、12分の1サイズの可愛いお人形さんになったワトスン先生がいました。横向きになったわたくしの額に、大きな聴診器を当てていたようです。

「――許したわけではありません」

「僕は貴女が」

「なんて人たちなの。女を馬鹿にしてるでしょう」

 夢ではなかったのです。ふわふわの髪や眼鏡までそのままです。

 なんてハンサムなんでしょう……なんて可愛らしいんでしょう……!

 ワトスン先生は茶色のツイードに身を包み、軽装にも関わらず大きさを除けば立派な紳士に見えました。



 レディ・クリステルに幸あれ!



「なんてね。ごまかされないわ」

「……何がかな?」

「こちらの話です。へぼ探偵はどこですか」

 上から聴こえてくるヴァイオリンの音色で起こされたのですが、わたくしは知らぬふりで言いました。そして自分の格好に気づき、横になったままシーツを引き上げます。

 人形はパッと背を向けました。

「す、すまない。服を緩めるよう指示したのは僕で」

「実行に移したのはつまり。とりあえず聞かなかったことにします」

 顔を赤らめるくらいしてくれればいいのに、ドクターは女性の露出した肌など見慣れているのです。わたくしは残念でなりませんでした。

 ワトスン先生はあちらこちらに視線をさ迷わせ、遠くを見つめてポツリと言いました。

「僕の体は、上の部屋にあるんだ」

「なぜそんな……危険なことをするの」

 後ろ向きの人形の横に、そっと手を添えます。ためらいがちに小指だけが両手で握られました。

「やり合うなら同等で闘おうと」

「あの方は女性に興味などありません。ご自分の身を心配なさったほうがいいわ」

「本気で――そう思いますか」

 わたくしはため息を吐きました。息は彼の背中に当たって寒そうに震えます。

「もし、そうだとしたら。どうなさる?」

 ワトスン先生はくるりとこちらを向きなおり、立ち上がりました。膝に手をやらずともふらつかないのは、人形であれば足が無事だからに他ならないのです。

 眼差しが真剣でした。



「――彼にさえ譲れません」



 小さな体と小さな声でなければ完璧でしたのに。

「私も」

 眼鏡をはずしてワトスン先生が軽く背伸びをします。悠然とした立ち姿に見惚れて、小さな口づけの冷たさも気になりませんでした。

 お人形さんですからね。

 宝石箱に閉じ込めたい愛らしさです。突き刺さりそうな鼻の探偵とは大違い。落ち着きのない動きをしたりせず、大人の玩具として誰かが作り直したとしか思えないフォルム。

 といっても夜の玩具ではありません。

「今までどこにいらっしゃったの」

「ドールハウスに……ああ、あと」

 にこっと穏やかに微笑み、ワトスン先生は言いました。

「ホームズのベッドに」



 夜の、玩具では。



「アリス……あの、どうしました? 気分でも」

「ベッド――」

 彼はわたくしを介抱しようと小さな手のひらで一生懸命顔をさすってくれます。

「人形のホームズともよく添い寝したからね。潰されそうだと言っていた意味がわかったよ」

「添い寝」

「そういえばいつだったかの事件でも、一つのベッドで……アリス?」

「それは書かれてないだけでベッドは二つだったと証明されてるはず!」

「いや、一つだったな。彼の長い足が邪魔で困った」

 細かな記述に関する不毛な争いをしても始まりません。曖昧な記憶の持ち主と嘘つきによる勘違いということにしておきます。

「あの、アリス」

 添い寝についてはたしかに思い出しました。

 お寝坊さんのワトスン先生が人形を握りしめて寝ている日があったのです。探偵を偲んでいらっしゃるのだとばかり。

 いま思えば喋る人形を隠そうとして失敗した冷や汗が顔にあったような。

「怒った顔がこんなに大きく見えるんだから、ホームズも相当怖かったんだなあ」

 わたくしはハッとして怒りで赤らんだ顔を元に戻しました。彼は口元をゆるめ、もう一度鼻にキスをしました。

 わたくしはそこでようやく体を起こし、着崩れた服に目線を背ける人形の体を、手のひらにそっと乗せて持ち上げました。

「今日からの添い寝は私とです」

 彼は端整な顔に驚きをにじませて、わたくしにうなずきました。

「うん。それは是非……楽しみに」

「そうはいかないね」

 妙齢の男女を密室に二人きりにしないよう、礼儀正しく開け放たれていた扉の向こうに、噂の男が立っていました。

 見慣れていた大きさの生き物が、拡大鏡で見たようなサイズになっています。違っているのは血が出ること。顔色は実物のほうが悪いこと。幾分声が低いこと。

「まあ大変! 誰が探偵の顔を傷だらけにしたのかしら。ドクターに叱られてしまうわ」

「――白々しい」

 ワトスン先生は笑い、ホームズさんは憮然としました。顔にはたくさんのテープが貼ってあります。

「ホームズさん?」

「はじめまして、ハドソンさん!」

 探偵は襟を叩いて鳩胸を反らしました。

「はじめまして」

 続けたわたくしの言葉に、難しい顔をしようと努力して失敗したのでしょう。紳士は苦笑してそのとおりだと言いました。小さなお医者さまは更に笑い転げます。

 そうですとも。探偵が女家主に敵うわけがありません。皆さまも今度探偵に会ったら真っ先にこう言ってあげてくださいませ。





 ホームズさん――あなたはドールハウスからいらっしゃいましたね!





End.
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