ハドソン夫人の優雅な日常


 慌てて長椅子の下に潜りますが、人形の姿は見えません。間違いなくそこに居たのに、忽然と消えてしまっています。

「何をなさっているのですか」

 わたくしは適当に言葉を返しながらも、足元を必死に探しました。しかし紳士の腕がわたくしを椅子に引き戻します。

「――アリス」

「あまり気安く呼ぶと出会う女性皆に勘違いされますよ」

 このおたんこなすは世紀の名探偵を間違いなく踏み潰したのです。優しくしてやる義理など、もはやノミの尻毛ほどもありません。

「君になら勘違いをしてもらいたい」

「まあよかった。貴方のチャラ男さがわたくしの大いなる勘違いであって!」

「チャラ……」彼はゴホンと咳払いをしました。「さきほどからなぜ足元を気にされているんです? 可愛いおみ足に怪我でもされましたか」

 なぜかその響きには打算が見えます。立ち上がろうとしたわたくしの腕を彼が引いたせいで、膝に座る形になってしまいました。

「は、離して」

「貴女が乗ってきた」

 至近距離でじぃっと見つめてくる瞳のせいか、わたくしは焦りました。

「あ、の」

「だめんずが好きだと言ったじゃないですか。その点私は、かなり自信がある」

「なんでそんなに……日本通」

 自分で言ったのに、目から溢れるものが。

 いきなり泣き出したわたくしに、彼は一瞬躊躇いました。しかし、すぐに気を取り直します。

「貴方を泣かせる酷い男のことなど早く忘れて」

「そうですね。まったく酷い男です」

 恋敵がいなくなるのです。これほどありがたいことがあるでしょうか?

 お邪魔虫なんです。ええ、もう二度と顔も見たくありません。馬に蹴られる代わりに、木偶の坊に殺されてしまった。





 今度こそ本当にいなくなってしまう。





 本気で嫌だったわけではありません。

 あの方のことを愉しげに話すワトスン先生を好きになったのです。

「ホームズさん」

「――それが貴方を泣かせる男の名前ですか?」

「彼がいなくなったら……泣く方がいるのです。きっと次は耐えられない」

 彼の膝からスッくと起き上がり、わたくしは踵を返しました。しかしその手を男が握ってきます。

 スカートを掴んで得意の東洋武術を繰り出そうとしましたが、彼は素早くわたくしの背中を抱きしめました。全く身動きが取れません。

「それは僕には効かない。ねぇ、ハドソンさん」

「しつこい人ですね!」

「相談なんだが。嫉妬に狂った友人をあしらう結婚生活は多難だよ。いっそ世話の妬ける友人のほうと結婚して、優しい想い人のことは諦める――なんて選択も」

「諦める? どうして」

 わたくしは怒鳴りかけて、ピタリと動きを止めました。声に聞き覚えがあります。

 しかしあの人の声はもっと甲高い。耳元に囁けるほどの身長があれば、地面を転がることもない。


「僕のほうが――苺のパンツを洗ってもらいたくなったから。というのはどうかね」



 この人は誰なんでしょう。

 青みがかった灰色の眼に見覚えがあります。

 小さな人形のあの眼。



 自分で洗ってください、と突き放した声が震えました。わたくしは混乱から立ち直ります。

「冗談ばかり。だから嫌いなのです」

「本気を出して、負けるとは思えない――どちらにもね」

 肩口で笑った男の頭を片腕で抱え込み、肘鉄を腹に叩き込みました。思いきり踏んだ足を軸にぐるりと反転。待て、と上げた二の腕をしっかり握って大男を絨毯へ。

「――!」

 息を詰めて声も出せない紳士は、気絶こそしませんてしたが涙目です。もっと泣き顔を見たはずなのに、わたくしの涙だけを奪っていくなど許せません。

 まじまじと見直してもわたくしには探偵との共通点はよくわかりませんでした。白状するまでのしてやらねばと馬乗りになって首に手をかけた――そのときです。

 彼の足の裾から、ひょっこり小さな人形が顔を出しました。

「ああ――ハドソンさん――アリス!」

 夢にまで見たワトスン人形を目に納めた途端……わたくしは呆気なく意識を失いました。


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