ハドソン夫人の優雅な日常


 2

 大柄の紳士がベイカー街を訪れたのは、ある日の朝方でした。

 わたくしはいつもの通り朝食の支度をしておりましたが、今週の下宿は静かです。ワトスン先生は事件を解決するためという名目で旅行に出掛けてしまいました。

 もちろんホームズ人形も一緒にです。

「失礼。ドクター・ワトスンはいらっしゃいますか」

 端整な顔立ちの男らしい紳士が立っていました。見上げるほどに背が高いのです。

「貴女がハドソン夫人ですね」

「おっしゃっているのは叔母のことだと思いますわ」

 わたくしはストランド誌の読者の方ですかと聞きました。続編を望む方がたまにベイカー街を訪れます。いいえ、と笑った顔は存じ上げません。

 その名刺をいただいた途端に驚きで声を返せなくなりました。

「待たせていただくわけにはいけませんか」

 アーサー・ドイルは肖像画とは全く違った風貌をしていらっしゃいました。まじまじと見るのは失礼だと思いましたが、ワトスン先生なら素晴らしい名文句で彼の容姿を描写したでしょう。

 わたくしはとりあえず彼を二階へ案内しました。ひょっとしたら予定が変わって、早めに帰ってくるかもしれません。

 この判断を後悔することになるなんて、そのときはちっとも思いませんでした。

「貴女は目に見えぬものの存在を信じますか」

「――はい?」

 お茶を運んできたわたくしに、彼は長椅子に座るよう促しました。嫌な予感がします。

 出版代理人――いわば本を売るためにだけ奮闘する営業マン――としての彼の仕事ぶりは素晴らしいと聞き及んでいました。さきほどの一言でそれさえ疑問になっていますが。

「霊魂とか妖精とか、そういったものの話です。私は出版の世界からは身を引いて、残りの半生はそういったものに捧げたいと思っています」

 気の毒に。

 何かの宗教によって人生の選択まで委ねてしまう方も世の中にはいらっしゃいますが、こんな言葉では信奉者も増やせないに違いありません。

「目に見えないからという理由だけで一掃してしまうのは愚かなことですわ。目には見えないものの存在や、その力がこの世界を支え作り出していると思います」

 わたくしは話を合わせようとしました。世の中にはホームズ人形のような不条理もまかり通る場所があるのです。

 あれはワトスン先生の言い方をすれば奇跡、わたくしにとっては災厄に他ならないのですけど。

「目には見えないもの。例えば?」

「そこに確実にいるんだけども、探しても探しても出てこない虫。彼らの存在なくしてわたくしたちは生きていけませんし、彼らと闘ってホイホイをしかけたり、お掃除をしたりという進化もしないでしょう」

「ああ! ――ホイホイとはなんですか?」

 紳士は前半には感銘を受けたようでしたが、あの素晴らしく便利かつ密室では確実性のかなり高い道具の存在を知りませんでした。

 まだ小瓶のふちにバターを塗っただけの気持ち悪い簡易ホイホイのお世話になっているんでしょう。

 わたくしは巧みに話題をずらしていきました。ワトスン先生について聞きだしたかったのです。

 紳士は鼻を鳴らしました。

「彼は本当にダメな男ですよ。私が貴女の年頃に彼と出会ったとき、彼は二つ年上だったわけですが――その乱れた生活っぷりときたら」

「だめんずが好きな女性もいますわ」

「賭け事でも大家です。女遊びも盛んでしたね。まあなんせあの容姿ですから、非常にモテるのです」

「財布と下着の紐を握れば問題ありません」

 一歩も引かないわたくしに彼はにっこり笑いました。探偵とのピンクな噂はご存知ですか、と。

 わたくしには限界を越えた忍耐の先にある滝壺が確かに見えました。目の前の男を突き落とす妄想は心地よいものです。

「ピンク、ですか?」

「まっピンクのどっピンク。モモモスモモモホモノウチです」

「詳しく聞かせて頂きましょう」

 わたくしは決して好奇心ではなく、敵情視察でもなく、反社会的行為への噂が世間にどの程度広まっているのか――その一点が気になってつめよりました。

 場合によってはこの唐変木も、テムズ川の清らかなる泥の底へ葬りさる用意があります。初めて会った女へ余計な風説を垂れ流すような紳士はろくでもないに違いないんですから。

「ワトスンは二十代のころ、ゾッとするほどの美青年でした。彼に目をつけていた探偵は――彼は女嫌いで有名ですからね――、挿絵画家に髭を書き加えさせたそうですよ」

「髭があったら尚更モテますけど」

 時代の流行についていけないのでしょうか。

 紳士は妙にひょろっとしていて、顔には今起き上がったばかりの吸血鬼並みに生気がなく、口元にはやぎ髭が張りついていました。

 ワトスン先生を出世させた人間というフィルターがなくなれば、物事も冷静に見えるのです。女とは感情に支配された厄介な存在ですわね。

「更には文筆で弱った目に眼鏡をかけさせました」

「眼鏡フェチを甘く見ないでください。だいたい二枚目度で言ったらホームズさんも大概ではありませんか」

 紳士はぴくりと髭を立てました。

「ほう」

「挿絵もかなりのハンサムでしょう。あの独身男性二人が一緒に暮らしていたら、多少の根も葉もない噂は仕方ないと思います。二人並んだお写真は目の保養でしたから」

 黙っていれば――と後につけたいのは山々です。あの小馬鹿な口調や、芝居じみた仕草を勘定にいれなければ、です。

 賢明な皆さまはわかりますね?

「本当にそう思いますか」

「はあ」

「ちなみにワトスンとならどちらが――」

「好みの問題ですわ。淑女の間では名探偵も美形だったと噂の的でしたよ」

 たとえあと数十ポンド肥ったとしてもワトスン先生がよいのですが、そこは恋する旧乙女の望遠グラスが原因かもしれません。

 急に静かになった紳士を振り返り、ギョッとしました。彼は口元を押さえて横を向いています。

「ご気分でも悪いのですか。お顔の色が真っ赤だわ」

「は? はあ。いえ。大丈夫で」

 動いてはいけませんよと念を押して止める間もなく身を翻し、戻ってみれば紳士は絨毯に向かってブツブツと話をしています。

 わたくしは炊事場で濡らしたハンカチを彼の額に当てようとしましたが、紳士はその手を握ってきました。


「アリス。貴女の名前こそが不思議の国の大いなる縁で私たちを結んでいる」

「お元気そうで何よりです。手を離してくださらない?」

「結婚してください」

「――」

 たしか紳士は病弱な妻を亡くしたばかり。若い愛人がいるとかいないとかあらぬ噂も立っています。

 そこでなぜ初めて会ったわたくしにプロポーズ。

 断りの文句を考え下を向いたそのとき、足元を茶色い何かがかすめました。


 まさか――お人形?


 探偵はなんだかんだ言って危機の際には現れてくれるのです。このチャンスを逃してはいけません。

「見て! いま足元を妖精が……」

「妖精なんておりませんよ。私が自宅の庭でどれだけ写真を撮ったと思っているんです」

 わたくしが反論を考えるうちに、キラッとした茶色いお洋服の人形が背中を向けて見えました。その次の瞬間。

 体長6インチと少しのホームズさんは――紳士の足で踏み潰されてしまったのです。


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