ハドソン夫人の優雅な日常
ホームズはハドソン夫人特製クッキーを抱き込みながらかじりついた。人形のどこに穴があるのか考えたこともない。煙草は無理でも炭酸水は飲めるのだ。いや結局パイプも吸っていたような。
肉体の神秘には驚かされるものがある。
「どこから出てくるんだとか余計なことは考えないほうがいいよ。ブリキの箱から君の手記を見つけた人間に任せたまえ」
「……口や服の回りが汚れたよ」
私はハンカチで彼の小さな体を拭いた。世話のやける生き物がどことはなしに愛らしい動きで首を傾げる。
「ワトスン。実は子供の世話も得意なんだろう」
「君で鍛えられているからな」
くすぐったい、と暴れる体を押さえつける。机を汚されてはたまらない。上着をぺらりと剥ぐと非常に慌てた。
「どこ触ってるんだ! 実体じゃないからって遠慮がなさすぎる」
「遠慮か。この間ハドソンさんの頬にくちづけをする寸前、間に割って入った君にその言葉の意味を尋ねたかったよ」
「ちゅーは禁止! 断固禁止!」
「君はちゃっかりハドソンさんとちゅーしたじゃないか」
口紅で顔面がお化けになった件をキスと呼ぶならいかにも、と探偵は開き直った。頬っぺたが微かに赤い。
純情とはかけ離れた探偵の中にも、苦手な分野があるのだ――となると、二人の関係はますます怪しい。
「お尻に君の唇が当たったせいで、僕の華麗なるイチゴコレクションは全部捨てられてしまった!」
「なんのことかサッパリだ」
「『人形パンツ紛失事件』として記録に残してくれても構わないよ」
ホームズはドールハウスに引っ込み、屋根を開けて上から覗く私に言った。「これを見たまえ」
指差した箇所は、ベイカー街のホームズの室内にあるクローゼットと寸分違わぬ造りである。その大きさを除けば。
「いや、見えないんだが」
「だから眼鏡の度を直せと……!」
彼が差し出した小さな虫眼鏡を借りて、問題の箇所を見た。「――指紋?」
「そうだ。この大きな指紋を採取するのに、僕の気に入りの部屋着も真っ白になってしまった」
「誰の」
ハウスを触るのは君の他には一人しかいないね、と歩き回る。その黒い姿は身近な生き物に似ていたが、私は懸命にも口を閉じた。
キスは禁止。イチゴパンツ。クローゼット。ハドソン夫人。
私は諦めに似た気持ちで、外せと言われた眼鏡を取りさり、額に指を当てた。やはり答えは一つしかない。
「つまり……つまり、君は僕の意中の人に自分のパンツを洗わせていたのか」
ホームズは例えようもなく顎を下げた。鈍感な私が事実に気づいたことがよほど衝撃だったのだろう。
「ワトスン。君の天然さが遺憾なく発揮されているのは喜ばしいことだが、女に熱を上げすぎる前にもっと他にあるだろう」
素早く立ち直り眉を潜めるのはさすがだが、私は聞いていなかった。
「メアリーにさえ洗ってもらったことはないというのに!」
「ああ、まあ彼女は家政婦ではなかったからね――女家主の姪よりよほど教養があった」
「ハドソンさんを馬鹿にするなら相手が君でも許さないぞ」
顔を熱くしながら低い声を出す私に、探偵は首を傾げた。よじよじと人形部屋から出てくる。
「君。本気なのか」
「本気だとも。だから気になるんだ。はっきりさせておきたい」
彼はちょこなんと机の端に座った。「僕がハドソン夫人に惚れてるかってことを、かね」
その逆もだ、と言うと探偵は腕を組む。懐から柄の真っ直ぐなミニパイプを出し、ノックの音に合わせてそっと言った。
「よろしい、では勝負だ。ワトスン」
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