ハドソン夫人の優雅な生活


 今日はワトスン先生に誘われて、バレエを見に行くことになりました。

 わたくしかなりめかし込みましたのよ。黒い喪服とお別れしてから日が浅いものですから、妙齢の女性らしく流行を追うのは骨が折れました。

「気の利いた誘い方をできずにすみません」

 照れ笑いをなさっているけど、彼は女性の扱いに慣れてるのです。今日は新しいストールを褒めてくださいました。

 でも気になることがひとつあって。

 ワトスン先生の帽子がさっきからもそもそ動いています。先生は柔らかい髪の毛を何度もつまみ、帽子の淵がぐるぐる回るのを必死に押さえているんです。

「あっ。ワトスン先生、ちょっとあちらをご覧になって」

「どこを?」

 新品のストールでワトスン先生の帽子を吹っ飛ばしました。その世にも鮮やかな手つきを、新聞売りだけが目撃。

「いけない! 帽子が……はい、先生」

「あ、ありがとう。すごい風でしたね」

 ワトスン先生は帽子の中をしきりに覗き、地面を見ています。

 捜している黒い生き物は、馬車に踏まれないよう、わたくしが靴先で溝に落としてあげましたのでご心配なく。

「あれがお話してた新しい飴屋さんです。31種類もあるんですよ」

「ああ、それはぜひ寄って……いや、遅れます。行きましょう」

 守備よく意識を逸らすことができたようです。まったく、人の恋路に水を差しにくるとは。

 男性も服も、虫がつかないように見張るのは骨が折れるものです。


□□□

 探偵が表に出てきたのは、舞台が始まってからです。

 計画通り溝に落としたとばかり思っていたホームズさんは、軽い身体を利用してわたくしの服の裾に掴まっていたらしいのです。下宿で見ると、そこだけレースがほつれていました。

 這いのぼってきたホームズさんを見ると、ワトスン先生はホッとしたような顔で人形を懐に納めます。

 むっ。

 わたくしは気づかないふりをしていましたが、勝った! と言うような探偵のドヤ顔と、ワトスン先生のにこにこ顔に激しく苛立ちます。

 そのうちワトスン先生は診療所の忙しさからか、単調な音楽にうとうとし始めました。

 ホームズさんは始めのうちこそおとなしくしていましたが、ワトスン先生が寝てるとわかると、両手を差し出します。

「(望遠グラス!)」

「(忘れました。持っていてもそんなところから観ていたらおかしいから却下)」

「(ケチ! ケチ!)」

 見た目が小さくなると、中身が徐々に幼児化してくるのです。

 実際ミルク飲み人形にホームズさんの魂が宿れば、語尾に「ちゅ」がついたのは間違いありません。

「(初歩的でちゅよ! ハドソンさん)」

 酷い幻聴に思わず拳を叩きつけます。小さな生き物ごと意中の紳士の胸板を直撃。

 さすがのわたくしも焦りました。

 ワトスン先生は息を吐いて顎を上向けます。事実に気づいたのは隣の席の御婦人のみ。小さく悲鳴をあげて退出。

 白目を剥いたワトスン先生は、懐からだらんと垂れる精巧な紳士フィギュアと相俟って、変態紳士にしか見えませんものね。

 わたくしは頬に手を当て、深くため息をつきました。


□□□


「寝てしまうなんて……失礼な真似を! 本当に申し訳ありません」

 平謝りでした。わたくしがしでかした不始末は気づいていないみたいです。胸元を押さえて首を傾げていらっしゃいますけど。

 ポケットに押し込まれた探偵が、抗議しようともがいています。わたくしの目を見ると逃げ込んで出てこなくなりました。

 ガス灯の明かりが暗闇を照らし、馬車を捕まえるまでの数分が大変待ち遠しく感じられました。中ではほとんど息も感じられんばかりに接近するのです。ホームズという名の生きた虫がいる限り、ベイカー街で先生とくっつくのは夢のまた夢。

 わたくしはついうっとりして、デートの終わりに待ち受ける災難に気づかないでいました。

「今日は楽しかったです。ぜひまた……」

 物陰から現れた男が、わざとらしくワトスン先生にぶつかります。薄汚れた服装からスリであることは瞬時に判断できました。

 身近なスリ探偵の技を知りつくしてるワトスン先生は、条件反射で男の手首を捕らえます。

「畜生!」

 彼のポケットにいるホームズさんと私の角度からは、男の手に光るナイフが見えました。

 わたくしの頭は一瞬真っ白になりました。黒い物体が目の前をよぎるのを捕らえます。

 嗚呼。

 何がどうなったかはさておき、気づけば男とワトスン先生が地面に倒れていました。

「先生……! ワトスン先生!」

「ハドソンさん、無駄だ」

 ホームズさんが二人の男の間から出てきました。通行人が集まっています。

 わたくしは膝をつき、目を瞑っているワトスン先生の頬に震える指を伸ばしました。


 夫と同じだわ。

 助けられない。

 どうしてなの。


 ホームズさんがスカートの襞に隠れて、ステッキでツンツン。くの字に体が折り曲がります。頑丈なコルセットの向こうからでも刺激が強すぎました――ヘソはやめて。

「ひたるのは後にしたまえ。君の繰り出した回し蹴りのせいで、男と一緒に気絶してるだけだ」

「え」

「それより僕は重傷なんだが。背中に刺さった刃物を抜いてくれ」

 ホームズさんを見るとグッサリ刺さったナイフの重みで、よたついています。

「痛くないのですか?」

「まあ……それなりに」

「回し蹴りしてました?」

「バリツを習ったことがあるとは知らなかった」

 夫の死後に。そして探偵の復活後にたしなみました。もう二度と後悔はしたくないのです。

 わたくしは気が抜けて、その場でへたりこみそうになりました。

「ハドソンさん、ナイフ……」

「ペチコート見ました?」

「まあ、それなりに」

 周囲が騒ぎだします。あの人形喋ってないか? 俺の見間違いでなければ女性が男を倒さなかったか?

 ああ万事休す。

 よく見るとあまり深くも刺さっていないので、柄を持って人形を高々と掲げました。

「ぎゃあああッ」

 運悪く人形の雄叫びを聞いた人々は、蜘蛛の子を散らすように退散。翌朝の三流紙には、生きた人形と男二人を刺し殺した淑女の事件が載ったのです。

 後に残ったのは修理前で包帯ぐるぐるの探偵人形と、彼が命を助けてくれたと感謝してる一人のお医者さまだけ。


 まあ今回は大目にみましょう。それなりにですからね!


End.
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