紳士とその弟子と
私はホームズの問いかけに対して、粗の少ない説明を考えていた。
身投げしたわけではない。気がついたらテムズ川に浮いていた。ロンドンの地下鉄で夫と喧嘩をしてはぐれてしまったので、気が動転して貴方と間違えたと。
口を挟みかけるワトスンを手で制し、ホームズは巧みな話術で私にだけ話をさせる。嘘をつけなくするためだ。
私は昨夜疲れきって眠ったことを、何度か後悔した。ちょっとしたつじつまの合わない話でさえ、彼の前でぼろを出せばそこを突かれるのだ。
涼しい顔をしながら、私は内心気が気でなかった。ここで唯一の味方を失うわけにはいかない。
ホームズ特有の一見眠るような応対はなく、彼自身も必死で何かの糸口を探るようにして、質問を繰り返す。
椅子に組んだ脚の上で手を支え、顎を乗せて身を乗り出していた。鷹のような目を一度も逸らさず、即座に――時には記憶を探るようにしてゆっくりと――口を動かす。
「些細なことでも僕は気になる。君は夫をファミリーネームで呼ぶのかい?」
「ええ」
「なぜほかの呼び方をしないんだ」
「夫とはアメリカの大学で知り合ったの。同級生だったころの名残よ」
向こうもいまだに同じように呼ぶわ、とそこだけ正直に話した。
いまさらベッドの中以外でシャーロックなどと呼べば、本人も奇妙な表情をするに違いない。名前はただの記号だったが、二人の時間だけはそうでないときもあった。
感傷的になると、その変化をホームズは見逃さない。優しい口調でなだめるように舌を回す。私はその都度、意識を整えるので精一杯だ。
年が若いというのはこんなにも――人を変えてしまう。
鋭さと粗削りな部分がこの時代のホームズの弱点で、その部分がなりを潜めた代わりに、老人になるとこの彼よりは感覚が鈍った。
だから後継者が必要だったのだ。自分と同じ程度の頭脳を持つ、回転の早い頭が。
私は滅入った気分を相手に悟らせないよう、勤めて明るく接した。そうすると、探偵の傍らで手帳を持って座っているワトスンが、柔らかい目をむけてくる。
気丈に振る舞う女に見えている証拠だ。すべて答え終わったころには、太陽が昇りきる時間だった。
「大学の名簿から、君たちの名前を調べてもいいかい」
最後にホームズが聞いた。予測していた範囲内だったので、すぐ頷く。
「構わないけど、そこに私たちの名前はないわ」
「卒業してないのかね?」
「瓶に火薬を詰めて校内にたくさん投げたから。ちょっとした宗教論争をぶって、二人とも除籍されたの」
「……」
「そんな顔をしなくても、誰も怪我はなかったわ。アメリカではこんなの普通よ」
米国人は縄一本で牛追いをすると信じ込ませるよりは楽だった。事実を確かめようがないのだから。
仮に大学に尋ねたところで、問題児の話を外部に漏らすはずがないのだ。
ホームズはため息をついて、苦笑した。私から何が引き出せたのだろう?隠しきれたとは思わない。私が望んでいるのはひとつだ。
「――夫はいなかったんですよね」
ワトスンに聞いてみる。そうであることは知っていた。妄想の世界に彼は来ない。
ここが現実であったとしても、ホームズの精神が不思議の国を認めはしないからだ。
私の言葉にワトスンは頷いた。ホームズを見ると、軽く手を挙げ先を促す。
「君が警官の手を借りて引き上げられたとき、その場に行き会わせた医者は私一人だった。初めは馬車で運んだのだが――診療所よりこちらの方近かったから、途中で降りて背負い下宿まで」
ありがとうワトスン、とホームズが遮る。長い指を合わせた。
「昨日は濃い霧のせいで馬が脚をすくわれていたらしい。警官の証言は夜のうちに取ってある。ラッセル、他には誰もいなかったそうだ」
他には誰も。わかっていても辛い。ここに私以外、二十世紀の人間はいないのだ。
私は正真正銘ひとりきりだった。
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