紳士とその弟子と
私たち二人を捜そうと、ワトスンは外出しかけていた。
理由を問い詰めると朴訥な医師は顔を赤くする。大方出会ったばかりの男女が駆け落ちする話でも考えていたのだろう。
そういう話から一番掛け離れているのが、私と夫なのだが。
でも、考えてみればホームズの方はあながち間違いでもない。男の子だと思い込んだ私の姿を見ても、激情が抑えられなかったと白状したことがある。
私はふと疑問に思った。
「ねえ、聞きたいことがあったの」
「ラッセル、その前に食事だ」
「たいしたことじゃないわ。二人は男色家なの?」
玄関先で立ちすくみ、紳士たちは後ずさった。
先に立ち直ったのは意外にもワトスンで、「悪い夢を見ているようだから、自然の摂理に従ってくる」と立ち去った。紳士の礼儀を忘れ、私をほぼ女性だと思わないことに決めたらしい。
出るときに素早く済ませたトイレ事情は、バスタイムほどの快適さはない。トイレ紙がもうあるのだからさすがロンドンの都会だが。
野宿でさんざっぱら痛い思いを経験したから、たいした打撃ではなかった。
視線を感じてふと目線を上げると、ホームズがこちらを凝視している。
「信じられん。君の素性が気になって仕方ない」
「答えてないわよ」
「ワトスンにもう一度聞きたまえ。彼はおそらくその手の問いに、僕が知っているよりずっと多く対処してきたはずだから」
逆手を取って口説かれるからいや、と言った。おじさまがそんな無作法な真似をするのを見たことがなかったけど、あのハンサムさんなら別である。
帽子を脱いで二階に上がった。ハドスン夫人が両部屋のベッドメイクをしていて、お帰りなさいませと居間のテーブルを示す。
「朝食をお忘れですよ」
ハドスン夫人の手が私の肩を叩く。彼女は頭一つ分大きさの違う私を見上げた。
「背の高さで苦労なさったことは?」
「特には。人生の半分以上、男の恰好でいたものですから」
居間に戻ると、ホームズが一番乗りで卵の殻を剥いていた。私も促された席へ着く。
ワトスンが戻る前にジャケットは脱いで、皿のほとんどを食べてしまった。その姿に紅茶を注いでいたハドスン夫人も、タイムズを広げるふりで私を観察していたホームズも、唖然とする。
「牛でももう少し気品がある」
「夫が食べろと言うの。痩せぎすだから、触り心地も良くないのかもしれない」
その言葉に心の広いハドスン夫人は笑い転げ、おかわりを用意してきませんと、と部屋を後にした。
淑女らしからぬ続けざまの言動に、ホームズはこちらを睨みつける。若い彼はおとなしく上品な女性が好みなのだ。あるいは男性とか。
候補者一号がすっきりした顔で椅子に座り、やはり私の皿を見てびっくりしていた。無言で見つめると、気のいい紳士はホームズがほとんど手をつけていないパイの皿を、こちらに回してくれる。
当然、探偵は面白くない。これみよがしにポットのコーヒーをがぶ飲みし始め、結局、彼はワトスンが回してくる皿のほとんどを食べた。
ハドスン夫人がありったけのスコーンを持ってきてくれる。たっぷりとしたホイップを乗せて食べ終えると、私の胃はようやく満足した。
「ミセス――」
「名前で呼んでくれても構わないわ、ワトスン先生」
ワトスンはホームズをちらりと見た。彼はファミリーネームで私を呼ぶので、遠慮しているのだろうか。
そして私は嫌なことに気がついた。彼らがスイスの滝を経験しているのなら話は別だ。
自分の愚かさに嫌気がさす。ホームズの手元の新聞では、日付がちょうど見えない位置だった。
ワトスンは妻の死を看取ったのだろうか。彼女は私と同じ名前だ。
「メアリ。普通の既婚者はよく知りもしない男に、名前を呼ばせたりしないものだよ」
ホッと息を吐き出す。ホームズの指がずれ、日付を確認できた。まだ二人とも三十前だ。
それと同時にああ、と気持ちが揺らぐ。
そこにいるホームズは、まだ誰とも出会っていないころの彼だとわかったから。
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