紳士とその弟子と
目覚めれば元の時代に戻っているだろうという期待はあっさり裏切られた。
一晩中小さな声で争う声が聞こえていたが、今は静かなものだ。
シーツにいつまでも包まっていたい。
その気持ちに逆らって、ふとベッドを飛び出す。用意のいいことに、綺麗に掃除されたブラシがサイドテーブルに置かれていた。
髪を解かしてサッとみつあみを作り、クローゼットを漁る。ワトスンの体型は身長の高い私にはピッタリで、さして選択に困ることはなかった。
ベストもジャケットもあっという間に着込み、慌てて帽子に髪を納める。それには理由があった。
ホームズが部屋の中から、足音を立てずにいなくなったことがわかったからだ。
そっと部屋を出ると、居間のソファでワトスンが寝ていた。起こさぬように出て、後をつけるための最短距離を考える。
外へ出るのは怖かった。私が知っている店は一つもないだろうし、頼りにできるのは通りの名前と地下鉄だけだ。
扉を開けるとまだ空が青白かった。左右を見回してホームズがすでにいないことを確かめる。
痕跡を辿るのは簡単にはいかないだろう。それでも勇気を振り絞り踏み出した。
十九世紀の霧の街は、早朝からすでにたくさんの人が働いている。新聞配達の少年が本当に小さくて、よその国のように思えた。
夫と行ったさまざまな国、経験した文化。そういったものがなければ、深呼吸一つではこの街に出られない。
整理されていない路上の馬糞を無意識に避けながら、若かりし夫がどこへ行く気なのか確かめようとしていた。
もちろんその姿は見えない。ホームズとその相棒の部屋に入ったとき、ぬかりなく靴裏の爪先に僅かなインクを垂らしておいたのだ。
そのタイプに限って渇きが悪く、取れ難いことを知っていた。
あらかじめ用意した小細工はたいしたものではなかったが、他にもある。ホームズに気づかれないようにするには、消えるか消えないかの瀬戸際を考えて、罠を張るしかない。
うまい手だとはちっとも思えないが、背に腹は変えられなかった。
命をかけるような危険な目に何度となく会ったのに、なぜあの瞬間だったのだろう。
私が過去へ来たことに何か理由があるとしたら?
その原因は夫しか考えられない。
私は仮設を立てて、そのうちのいくつかを削除していた。ホームズに関することを除いて、残りのすべてはつじつまが合わないのだ。
白昼夢だ。そのことはよく理解していた。私は眼鏡無しでここまではっきりと見える世界を、夢以外で知らない。
いずれにしてもデータが少なすぎた。よくわからないうちにホームズと離れるのは危険すぎる。
「お恵みを」
インク跡が路上の物乞いの前で消えて、念のためその顔を覗く。やはり別人だった。ポケットにあるコインを渡す。
辺りを探ろうとして、しばらく行くと、道を歩く一人の紳士に腕を取られた。路地裏に誘い込まれる。
無言で帽子を剥ぎ取られたので、ため息を吐いた。
「ホームズ」
「ここで何をしているんだ」
「帽子を返して」
「ラッセル――ああ、ミセス、失礼だが」
「ラッセルでいいわ」
不本意なことに、若く立派な背の高い紳士はなかなか決まっている。顔を見ないようにしてその手から帽子をむしり取った。
前屈みになってさっきと同じように髪を入れ込むと、ホームズは複雑そうに眉を潜めている。
「少年にしか見えない」
「ありがとう。帰りましょう」
有無を言わさずステッキを取った。どこに行くつもりだったのか、きっちりシルクハットまで卸したてだった。
箱ごとベッド下に準備してあったのを見つけた。ナフタリンの強い香りが抜け切らず、ここまで追って来れたのだ。
ホームズは酷く気分を害したようで、下宿に着くまで始終無言だった。それでも文句を言わずに言う通りにする。
この先の闘いは厳しそうだと、何故か悪寒が止まらなかった。
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