紳士とその弟子と
ヴィクトリア王朝の風呂を克明に描写するのは控えるが、話に聞いていたほど酷くはない。
下水のせいで虫が大量に浮いているとか、水に近い温度ということはなかった。
脱ぐときに、服装を確かめる。朝に着ていたのと同じ服だ。
状況がまるで違うのは、ただ一つ。私はびしょ濡れで、震えているということ。
サセックスに居たはずの私が、階段を落ちただけで、過去のロンドンに戻った。
ここはベイカー街221Bなのだ。
当然私はまだ産まれていない。少女の頃に出会ったホームズは、すでに中年半ばの年齢に差し掛かっていた。
さきほどの紳士諸君は――ワトスンがベイカー街に居ることを考えると、かなり若い。
それは魅惑的な考えで、すき間風が責めさいなみさえしなければ、いつまでも想像していたい種類のものだった。
手早く脱いで、琺瑯に浸かった。気持ちを引き締めなくては。これが十中八九妄想であることは疑う余地がないのだから。
非現実的すぎる話について、夫であるホームズは「妖精の話は懲り懲りだ!」と顔を真っ赤にしていた。
彼からさまざまな価値観や教えを受け取った者にとって、この現象をおいそれと認めるわけにはいかないのだ。
つい、うつらうつらとしてしまい、ハッと目覚める。
周囲を見渡すと、何も変わってない世界があった。不安の原因はこれだとわかる。
私はこの時代にいてはならない存在なのだ。
過ごした時代に戻らなければ。そう強く念じて目を閉じても、何も変わらない。
ここに私を知る人はいないと知っていたから、涙が出たのだ。
夫の声に安心して、抱きしめた。
それでも彼はホームズではない。私の知る彼ではない。別人だ。
身体を温めながら、幾度も幾度も繰り返す。
それは私を打ちのめすには充分だった。少なくとも私の女の部分は、心細さに震えている。
鍛え上げた少年のような心を取り戻すために、いくつかの犠牲を払いそうだ。
下から口論のような音が反響して聞こえる。何を言っているかまではわからない。水道管に耳を寄せることも考えたが、また眠気が襲ってくる。
僅かにリズムの違う特徴ある足音が、年老いたワトスンとそっくりだった。
階段を上りきるまで、八、九、十と数えてやめる。何段あろうとここは彼の書いた伝記そのものだ。
扉越しにワトスンが言った。
「ミセス・ラッセル。僕の部屋の扉を空けておくから。今夜はそこで過ごしてくれないか」
「――あの」
「僕は医者だ……何かあったらいつでも呼んでください」
足早に駆け降りるリズムに、声をかけそこねたことを悔やむ。できればすぐにここを出たかった。
抜け出した所で行く場所はどこにもない――そのことに気づいたのは、用意された寝具に着替え、ワトスンの部屋の窓から外を覗いたときだった。
私の知るロンドンの面影は、どこにもなかったのだ。
強い睡魔に負けなければ、いつまでもその夜景を見ていたかもしれなかった。
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