紳士とその弟子と


 とめどなく口から流れる悪態に、一瞬その場が凍りつく。



 とにかく身体を温めるのが先だと、引っ張られて二階に上がった。落ち着かなくては。状況をまず把握することが第一だ。

 口髭の紳士がせき立てるのを止める。


「ここはどこなの」

「すまない、怪我人にあんな真似をするなんて、僕には」


 階段の上で腕を掴み返し、男のリボンタイを絞めた。この人物が誰か、大方予測はついているが。


「あれは誰。いいえ、そうじゃない。私、私は」

「ミス・ラッセル――手を!」

「ミセスよ。結婚してるの」


 丸い目を白黒させて、人の良さそうな男は唸った。記憶より遥かに体重は軽く、背筋も伸びて軽やかである。

 声にも張りがあって、正直まだ迷っていた。


「あなた、ワトスンでしょう」

「……ひょっとして、『緋色の研究』の読者ですか」


 私はパッと手を離し、第一段階をクリアしたことに満足感を覚えた。

 ワトスンは軽く咳込み、私を上へと促す。紳士的な態度を思い出したのだ。

 二階の部屋を素通りした奥に、少し段差を経てもうひと部屋あった。後ろから追いかけてきた女性が、手伝いましょうかと言う。

 私は彼女をまじまじと見つめた。


「ポットに足し湯がありますからね」

「ハドスン夫人」

「まあ。どうしてわたくしの名前を知ってらっしゃるの?」


 イギリス人なら誰でも、と答えると、二人は顔を見合わせて笑った。


「発表したばかりの小説に、もうファンがついている!」

「わたくしにはわかっておりましたよ。夢中で読みましたもの」


 着替えを探しますと老婦人が部屋を出る。私は混乱した頭で、ワトスンを見た。

 見知った男の面影はどこにも見当たらない。結婚前なのだろうか?腹は出てないし、毛も多い。

 先ほど見た男は――彼がホームズだとわかる程度には、姿形がそっくりだった。息子がいたらよく似ていただろう。

 若い頃から頭を使いすぎて頭部が広かったというのも本当だった。パジットの絵は美化されているというのも。たしかに女性にウケる容姿とは掛け離れている。

 ワトスンは対照的すぎた。


「歳月って惨い」

「むご……どこかで会ったことが?まだ若いんだが」

「素敵な人ねと思っただけ」

「――ホームズが?昼間ショック療法の効果について議論しすぎたせいだ。普段あんなことは天地がひっくり返っても絶対に……」

「あなたがよ、ワトスン先生」


 ワトスンは髭をピンと立てて喜んだ。耳が赤い。やはり彼は気のよいあのワトスンなのだ。

 考えられるすべての選択肢からひとつを選ぶ。決め手は視力だった。あまりにも周囲がはっきり見えすぎる。

 階段から落ちた時にかけていた眼鏡がない。


「これは夢?」

「橋から落ちた衝撃で、混乱しているんだ。ひどい騒ぎだった、ともかく僕は出るから、お湯に浸かるんだ」

「体力の消耗を防ぐためね。夢なのに。私が落ちたのは橋からじゃなく――」

「橋からだ。空から落ちたのでなければ」


 ワトスンが心配そうに扉を閉める瞬間に言った。私はいよいよ頭を打って自分がおかしくなったのかと考える。



 ――夢にしてはリアルすぎやしないか。



 若かりしホームズは夫であるホームズより青白く、彼がほとんどイギリスから出たことがないことを示していた。

 鋭い鷹のような目が緩むことはなく、白髪の出てない濃い眉の歪み具合や、張りのある顎のライン、氷のように冷たい唇は現実と変わらない。なにより。

 妄想にしてはキスの感触が似すぎていた!

 高さのある階段から落ちたから、意識不明の重体になっているのだろうか。

 眠り姫よろしくあの理性の塊が妻に最後のキスをして、目覚めさせようとしているとか?

 もっと単純に考えることを、私の脳は頑なに拒否していた。物語にロマンを求める伝記作家ならこう言っただろう。





 君は階段を落ちた瞬間に時空を越えて、この場所へ来たのだと。




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