紳士とその弟子と


 眠たくて堪らなかった。



 体だけが非常に暖かくて、誰かの背中におぶさっているのだとわかる。

 声が聞こえるが、何を言っているのか判然としない。おそらくホームズの体なのだろうと、腕に力を込めた。ものすごく寒くて、歯がガチガチと鳴る。また何か言われた。

 メアリ・ラッセル。あるいはホームズと答える。

 何だって?と聞き返す声に、この人はホームズではない。夫ではない、と認識を変えると、腕から力が抜けた。


 ――おい。君、しっかりしてくれ。もうすぐ着くから。


 暖かい声に聞き覚えがある。薄目を開けるが、周囲が全く見えない。きっと強く頭を打ったのだろう。

 深い霧の中を歩いているのはわかったが、寒くて堪らなかった。

 扉を叩く音が響く。ほどなくして、誰か女性らしい悲鳴が上がった。


 ――その女性は?

 ――テムズ川に落ちた。お湯を沸かしてください。


 テムズ川。ここはロンドンではない。あの薄暗く陰鬱で、乾いた重たい空気のある場所からは離れたはずだった。

 まるで身投げした女のような扱いをする男の背中を叩く。そのたびに何故かばちばちと水滴が飛び散り、疑問で頭がいっぱいになった。

 明るい光だけが強く目を射る。

 暴れる私に叫び声をあげて、男は私をどこか硬い場所へと降ろした。長椅子だろうか。


「もう一度だ。君、名前は」


 覚えにくいの?と聞いたら、男は口を濁した。めんどくさいので、ラッセルでいいわと応える。

 耳ははっきりしてきたのに、目は見えない。震えが止まらない。自分の肩を抱くと、気持ち悪いほど濡れている。


「前が、見えない」


 男が前髪を払いのけてくれたようだ。ただ光が強くなっただけで、相手の姿はぼんやりとしかわからなかった。


「どこかぶつけたのだろうか」

「なぜ濡れてるの」

「落ちたときのことを覚えてないのかい」


 忘れるわけないでしょう、階段のことならねと口にしたかった。別の誰かの声を聞くまでは。


「手を貸そうか」

「ああ、居たのか!すまないが、頼む。彼女の後頭部を見たい」


 私はホッとして、力を抜いた。腕に両手がかけられ、横倒しにされる。

 目の前の顔を見定めようとしたが、相変わらずよくわからなかった。それでも頬を包む冷たい手の感触に、間違いないと確信したら何故か涙が溢れた。


「おかしいな。やはり怪我はない」

「確かなのかい」

「向こうでも見たんだ。落ちたときの音をたくさんの人が聞いていた」


 話が飲み込めないが、どうでもいい。

 濡れた体のまま身を乗り出して、彼に抱き着く。首にかじりついて叫んだ。

 ごめんなさい、ちょっと虫の居所が悪かったの、貴方のせいじゃないと囁く。そのうち嗚咽が上がってきて、何度も謝罪を繰り返した。

 私が落ちるとき、彼の顔は真っ青で――激しい後悔に歪んでいたのだ。あんな姿を見たかったわけではない。

 躊躇いがちに背中を撫で下ろす指に、「ホームズ」と口にすると。

 何故か彼の手はぴたりと止まって、私の体を引き離し、顔を覗き込んだ。


「ホームズ、何か言って」

「――」

「本当によく見えないのよ。どこか打ったか、ショックのせいだと思う。水に入った記憶なんてないし、何かおかしい。不安なの」


 私を連れて来てくれた男の人が咳ばらいをした。私は混乱した記憶を辿って、それが誰であるか考えようとした。幾ら回転させても頭が回らない。

 ミス、とホームズが他人行儀に言った。


「どうしてズボンを履いていらっしゃるのですか」


 男が咎めるように彼の名前を再度呼んだ。私はホームズの冷たい言葉に眉を潜める。


「知らなかった。気にしていたのね?わかった、明日からスカートを履くし、なんでも言うことを利くわ」

「……」

「ごめんなさい、二度と逆らったりしないし、我慢する。だからお願い」


 キスをしてと続けた。

 苦しくて怖くて、心細さで頭がどうにかなる。今までどんな難関にも一人で耐えたのに、結婚したら弱くなった。

 一度軽く触れ合えば、それだけで気持ちが安らぐに違いない。眠れるに違いない。明日起きたら目は見えるに違いない。

 長い沈黙の間、夫は動くことはなく――諦めかけて目を閉じそうになると、肩を掴んだまま顔が近づき、額にキスを受けた。


「ホームズ!」


 抗議の声を私も上げようとしたが。



 唇はこめかみに下り、

 瞼に下り、

 頬に下りて

 鼻の先から唇に触れた。



 その一瞬で、少し顔が明瞭になる。


 顎に小さく音を立てて離れようとした顔を、しっかりと掴んだ。呆れられても仕方ない、と思いつつ舌を割り込ませた。

 目の前がチカチカするほどきつく吸う。応えるように上から角度を変えて、ホームズが私を抱きしめた。

 弓なりになって背を反らし、唇を解放された途端に、後ろから伸びた手が、私を長椅子に押しつけた。

 肩越しに振り返ると、口髭の若い男性が立っている。整った真っ赤な顔に見覚えはなく、あまりに流行後れのツイードを着ていた。


「人違いだ!なんてことを……」

「ワトスン先生、まだ少しですけど、緩いお湯からの方が冷えた身体には――どうかなさいました?」


 私は意味もわからず、同じように古めかしい恰好の女性を見て、周囲の異常に気づいた。

 徐々に色づくようにして、家具や壁や戸棚が目に映る。誰の趣味かは知らないが、やや時代錯誤な部屋だった。

 まるで、遺跡の如くその香りを遺させた――女王がまだ健在である時代の雰囲気そのままに。

 私が深く喘いでいると、ホームズが傍を離れるのを感じた。振り返るのが遅くて、顔を見るのが遅れる。

 フロックコートを着たすらりとした背中の持ち主。その髪は真っ黒で、私は妙な気持ちで声をかけた。


「ホームズ。あなた、ホームズなんでしょう?」


 振り返ったその若い顔をまともに見たとき。私は激しく神を罵った。





 二度と夫婦喧嘩はしないから、家に返してと。




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