紳士とその弟子と


 目覚めると、夫が顔をのぞきこんでいた。



 ちゃんと年をとっている。その日の朝着ていた服を着て、私はベッドで横たわっていた。

 安堵感で額に置かれた手に手を重ねて、息を吐く。


「おかしな夢を見た。聞く?」

「それもいいが、とりあえず寝かせてくれ。年寄りを早死にさせたいならべつだが」


 何も言わずに唇が触れる。いつの日にか見たように、ホームズは髭もあたらずぼろぼろだった。

 遺産相続はまだしたくない。蜂の面倒は誰が見るというのだ。すぐベッドに追いやる。

 私は頭の包帯ひとつきりで、たいした怪我はなかった。



 翌朝起きた夫に話を聞くと、ようやく現実感が戻る。



 ホームズは私の手を掴んだのだが、それを軸にして体は反転し、手摺りに頭をぶつけたらしい。

 長く辛い妄想の話をかい摘まんですると、ホームズは予想に反して眉を潜めた。

 てっきり苦笑いで返すと思ったのだが。


「ホームズ。余計に皺が寄るわよ。頭の怪我が治ったら、蜂蜜パックでも作ってあげる」

「……いまさら若造に戻りたいとは思わない。ラッセル、まさかあれを読んだのか」

「なんの話。作り話だと思っているのね。研究論文でそれどころじゃなかったの。軽い読書をする余裕なんて」


 ホームズは首を横に振って、なぜか言葉を濁した。

 私の視線に気づくと、言われたことを気にしたものだろうか。額を少し上げて見せたり、横面を引っ張って伸ばそうとする。

 若いころの彼には見られなかったユーモアに苦笑した。


「無駄な努力はしなくていいの」


 自分の父親のような年齢の男を見慣れた私にとって、あの時代のホームズは違う人間だった。

 幾度か額を撫でる。愛情の示し方を知っているのだ。

 目に見える優しさはなくても彼が彼であることに変わりはないが、しばらく甘えていなかったから心地よかった。


「ワトスンを呼びつけたんだ。そろそろ着くから迎えに行かなくては」

「一日寝込んだだけなのに」

「言ったさ。こんな田舎に僕ほどの名医が他にいるかと怒鳴られたよ」


 久しぶりに顔を合わせることになるのだ。複雑な気持ちだった。

 それでもあの、人を安心させる姿に抱きつけば、きっとなにもかもいい夢だと思えるはずだ。

 ホームズのいなくなったベッドを占領し、包帯を変えようと引き出しを開けたときだった。

 一冊の見覚えない本が奥に入っている。私は退屈しのぎにページを開いた。

 ホームズが外套と帽子を片手に立ちすくんでいる。


「ラッセル――それは」

「面白そうね。恋愛もの?」


 読み進めるため眼鏡をかけて、ざっと内容を把握して。

 こぼれた笑みはやがて凍りついた。

 表紙を見る。冒頭まで戻る。著者や登場人物の名前も見覚えがないが、明らかに変だ。


「寝ている間に日記を書く能力ができたわ、ホームズ。それとも本の中に入ったのかしら」

「……」

「結末はどうなるの?」


 ホームズもののパロディだった。はっきりそうとは書いてないが、模倣点がたくさんある。

 主人公は人妻でこそなかったが、時代を逆行して探偵を打ち負かし、相棒に告白され、滝に落ちるくだりまで同じだった。

 最終章を開けようとしたが、ホームズの手が本を取り上げる。目をすがめる私を見て、歯切れ悪く言った。


「つまり……彼女が去ってから探偵は」

「アイリーンと一生連れ添っても怒らないわ」


 そういう話なら大量に読んだ、と老探偵は首を振った。

 私が取り上げると、手で顔をおってベッドの端に座り込む。素早くページを繰り出した。


「君の文章をけなしたことは謝る。この本をあの心霊オタクから嫌がらせのように贈られて、崖から飛び降りたくなる気持ちだったんだ」

「つまりあの後、傷心のあなたとワトス」

「こんな屈辱があると思うか!」


 顔を真っ赤にして怒り出したホームズに、なんと声をかけていいかわからなかった。

 ベルの音が鳴り響く。一足先に年老いた友人が、早めの列車でついたのだろう。





 ふたり揃ったところを前にして、冷静な顔をしていられる自信はなかった。





End.
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