紳士とその弟子と
私はこの数ヶ月で挑戦していたのだ。
例えばベイカー街の階段を初めとして、公園の大木を登ったり、骨董屋の屋根を修理したり、はたまた元のように橋の上から落ちる決心を固めていた。
しかし、低い所では仮に落ちても効果は現れず、もちろん高い場所では傍にいる誰かが止めに入るせいで、今だに私はここにいる。
私が約束させたかったのは、滝から飛び降りることただひとつだった。
「なっ……そんなことさせられるわけがないだろう!死にたいのか」
ワトスンは私の肩を掴み、崖っぷちから身体を離させた。抱きしめられると、身動きが取れない。
ホームズが感情を表さない静かな目で見ている。顔色すら変えてはくれないのだ。
「君が僕を友達のようにしか思ってないことは知ってる。何に巻き込まれているのか、僕にはわからない。それでも――ホームズ!」
何か言ったらどうだ、と探偵を責めた。
ホームズは懐中時計を取り出し、金貨を触った。しきりに表面を撫でている。
顔を上げると、「話を聞いてからだ」と言った。ワトスンが私を離し、腕を握ったまま首を振る。
「たとえどんな理由があろうと、死なせはしない」
「――死ななければ?」
「ホームズ、コカインのせいでおかしくなったのか!」
「あとは僕らが信じられるかどうかだろう。ラッセル、君の話をしてくれ」
私はその顔を眺め、金貨をじっくり観察した。他のことに気を取られるうちに、全く問題にはしていなかったからだ。
「それは本当にあの浮浪者から貰ったの?」
「いいや」ホームズはすぐに答え、時計から鎖ごと外した。傍らに近づき手渡す。
私はワトスンの視線を感じながら、金貨を眺めた。普通のソブリン金貨だ。何も変わらない。
私はぎくりと身を縮ませた。
「これは君の着ていた服に入っていたものだ。溺れたときのね」
耳に届くより前に、ホームズがワトスンと逆の手を取った。金貨を握ると何もなかったように背を向ける。
常用しすぎた薬のせいか、山の気候のせいか。その手は凍えるように冷たかった。
「どういう意味なんだ……僕にわかるように説明してくれ」
下から吹き上げる風が、一瞬全員を捕らえて引きずり落とそうとする。ひやりとした感覚に、ホームズを仰ぎ見た。
頬が強張って、彫像のような顔をしている。
「ワトスン、彼女は帰るんだ。ご主人の元に」
「それを信じているの」
金貨の年号が少し先だった。ほんの少し……ただそれだけ。この時代にはまだない物なのだ。
たった一枚の金貨で、頭を働かせたのだろうか。疑いもせず、あるいは最初から疑い続けたまま。
ホームズは急に不機嫌そうになって、声を荒げた。
「一緒に落ちるかと聞いただろう!君一人で怖いのなら、僕一人落ちて、その人を連れて来てやろうじゃないか。どちらか選べ」
崖の下を再度覗き込む。後戻りはできない。
私の知る限り夫が自殺をしたがることは考えられなかった。宗教的な観念の一切を受け入れているようには見えないくせに、その法則に従って生きている。神のように生き返ったからだろう。
しかし、このホームズに崖っぷちで殺されかけた経験はない。
そんな彼がなぜ落ちようと言ったのだろう?私を――少しは?
「どちらかと言えば、一人で落ちたいわ」
「ならば勝手にしたまえ。死んでも引き上げてやれないぞ」
「ホームズ!」
その一瞬、ホームズがワトスンに飛びかかったように見えた。
おかしい。そんなわけがないと見直すが、確かにその腕がワトスンを握って、後ろから抱きしめている……抱きついている?
深く思考を巡らせたら最後、自らの居場所に戻っても妄想の中に飲まれそうだった。
あるいは探偵は初めから疑っていたのだ。
どこか別の時代からやってきて、相棒と始終一緒にいる女性のことを。
ひょっとして相棒の妻かもしれない女のことを。
首尾よく帰ると言えば元通りの生活が。
一人で落ちろと言われれば自分が年老いたワトスンの所へ。
二人でと言っていたら、突き落とす選択をしていた?
後のことは何も心配ないとばかりに、ホームズが笑った。夢か、妄想か、現実のどれでもないなら、この彼は誰なのだろう。
思い起こして事実に気づけば、躊躇いもなく宙に身を踊らせた。
ワトスンの咽ぶような声にそちらを見なくてよかったと思う。
私の誤算は他にもあった。
――そもそも探偵は、あの質問に答えなかったのだから!
</bar>