紳士とその弟子と
ホームズがベストの間から見える鎖を撫でた。
先についている金貨に触れ、小さく唸る。君には関係ないと呟いた。
「聞いておかなきゃいけないのよ」
「たいしたことじゃない」
ワトスンの方を見ると、ちらりとこちらを見て目線を外す。思った通りだ。
女性の影を一切漂わせないホームズに、心奪われ気持ちを許した女性がいる。まだそうなっていなくても、いずれそうなる。
滝に来るのがこれだけ早ければ――。
「持ち主を当てることができるわ。その人にあなたの能力は通用しなかったし、あなたの女性に対する考え方さえ変えてしまった」
「メアリ」
「どうして彼女を追いかけなかったの?どこか別の誰かの腕で、これから先もずっと眠ることになる」
ワトスンの声を遮ると、吐き出した言葉は止まらなかった。
ホームズは顔を傾けて横を向き、滝の底を眺めている。
はっきりしたことを聞きたいわけじゃない。
もう済んだ過去なら、諦めもついた。
知らない間にその人が来て、影だけ残して行ったのならつらい。
ましてやこのホームズは、自分とそう変わらない年なのだ。
「教えて――あなたにとって、彼女は」
「誰のことを言ってるんだ?」
ワトスンが戸惑い、近づいた。ホームズは首を振る。言うなと目で睨み据え、訴えかけていた。
滝の音に掻き消され、探偵が口にしたらしき声も消される。
「金貨のことなら、僕も知っている。彼女は男装が上手で、出会った日からホームズをほぼ完璧に負かしていた」
「ワトスン!」
「後をつける手管に舌を巻き、その記念にと――彼女が浮浪者にあげたコインを時計につけたんだ」
「浮浪者……?」
ワトスンは肩を竦めた。わざわざ立て替えて取り上げたらしいと苦笑する。
見るとホームズはしどろもどろに言い訳をして、常日頃の態度はおろかろくに返事もできない有様だった。
「あれ、ワトスン先生のコインよ」
「……」
「最初の給料日に返したわ。だってあんなところに金貨が入っているなんて、思わなかったの」
金銭の管理はワトスンにとって、得意な分野でないことも承知していた。それでもすでに差し出してある汚れた手に、何も乗せないわけにはいかなかったのだ。
ホームズの行方を聞き出すことで、その報酬として与えた。
浮浪者がぎょっとして息を飲んだ拍子に、こちらで働くことを一番に考えていた。
納得はいかない。
ここでまだ会わなかった人物が、いつまでもベイカー街の扉を叩かないとは思えなかった。
出会うべき人たちとは必ず出会う。そのときに、何を残して行くかだけが私の関心を引いた。
「ラッセル、君の話をするんだろう――話せ」
ホームズはパイプを拾い、脇で揺れるコインを隠すようにして上着の前を合わせる。
正直に話すことを考えていたのに、いざとなって気が焦った。
滝の勢いに怯えているのだろうか。これが最適だと考えた自分が馬鹿みたいに思える。
「本当に手を貸してくれるの」
「君の命が狙われてるかもしれないと思ったから、少年たちをつけさせた。仕事を持つことに反対したのも、すべては君のためだ」
ああ、こういうところが変わってないのだ。私がひ弱なお姫さまかろくに歩けもしない子供で、道を落ちている石を逐一除けないと転んでしまうと言う。
しかし、どれだけ屈辱を味わおうと、反論はできなかった。
子供のような拗ね方をして、いつもとはまるで違う態度を取った。そのせいで今ここにいる。
「国外へ逃げたいと言ってるのではないわ。片手で充分足りることなの。約束して」
「話を聞いてからでは駄目かい」
「絶対にやめろと言うからそれは却下」
自分の決断が鈍りそうだった。
紳士が二人が顔を見合わせ、うなずくのを待つまでにどれだけの時間が過ぎたのだろう。その瞬間気が抜けて、座り込みそうになる。
「ありがとう。さすがにこの高さだと、一人で落ちる勇気がなくって」
張り詰めた空気を割って、私は努めて明るく言った。
</bar>