紳士とその弟子と


 初めは呆れて声もなかった。



 厄介なことにホームズは、薬物中毒者特有の症状が出にくい上、私が来てからは注射器の場所を常に移動させていたのだ。


「モリアーティ教授は」

「君の聡明さにときどき恐れ入る。僕が知りもしない名前や事件をなぜいつも」

「私のことを妄想女か何かと間違えていたりする?」


 ホームズは首を振った。

 寒空の下で滝の轟音が鳴り響き、遠く離れるほどに叫ばないと聞こえない。

 結婚や愛情を小馬鹿にして、認められないころの彼だ。極度の不安が精神を支配して、なぜかおかしな思考の中にいる。

 傍を離れると言っているのだから、素直に頷けば済む話なのだが。


「なんでもいいんだ。ラッセル、僕は……」


 君が必要なんだ、と一声聞けば、何か反応を返したかもしれない。私は腕組みをして待つ。

 ホームズは普段の彼ではありえないことを口走った。


「ワトスンが居なくなるのは堪えられないんだ!」


 半泣きだった。ほかに言いようが思いつかなかったらしい。

 私がいなくなれば、ワトスンがその後を追いかけると思い込んでいるのだ。

 理論的考えの外にいる証拠だった。コカインはどこに隠していたのかしらと冷静に考える。


「ホームズ」

「君が彼と結婚すると言うなら話は別だ。理由をつけて家に入り浸ることもできる」

「それもどうかと思うけど」

「よそへ行く?他の国や遠くに連れていくなら僕の出方も変えるしかないだろう。君のご主人さえ探し出せば済むと思ってた」


 震える指でパイプを取り出し、ぶつぶつと言い続ける。まるで聞いていない。


「見つけて胸倉を掴んで、他に彼女を幸せにする男は山ほどいるんだから、君はお役御免だと言えば」

「それをあなたがするの?」


 ホームズは一瞬だけ不意をつかれたように黙った。

 煙が漂うがちっとも吸っていない。暗くて強い光がちらつき、長くは見ていられなかった。


「どっちが言い訳なの?ワトスンに居て欲しいから。私に居て欲しいから」

「どちらの幸せも願っているさ」


 ワトスンが口説いてくること自体、冗談かと疑いを持っていた私には、すべてが理解できる。

 ホームズが発破をかけていたのだ。

 私が結婚してない証拠を見つけたとでも彼に話したのだろう。説得に応じれば思う通りにもできる。

 一人になりたくない子供のように、探偵は醜態を晒していた。


「――ラッセル、だから」


 急に口の端からポロリとパイプを取り落とす。後ろから足音が聞こえた。

 上からは見晴らしのよい岩場も、水飛沫のせいで霧がかり、ほとんど何も見えない。

 私は振り向いた。


「ワトスン」


 どちらが先に発したものだろう。

 私は間に挟まれて、うろたえるホームズの顔が赤くなったり青くなったりするのを見ていた。


「心配でついて来ていたんだ。君ほどの男がそのことに気づかないなんて」


 思わぬ追っ手はちょっと悲しげに笑い、登山杖を足元に置いて髭を動かした。

 何か結論づけるように目をつぶる。


「ホームズのことを言い出したときに感づいたんだ。メアリ、なぜ言ってくれなかったんだい?」

「問題にもしてなかった。気になることがあって、考えようとしなかった」


 夫のときと同じだ。わかるはずがない。遠回しすぎて、心を抑制しすぎて、本人も理解しているか疑わしい。

 ホームズだけが不安そうにこちらを見る。薬が切れてきたのだろうか。

 私は岩場に置かれた手紙と杖に目をやった。本気で心中する気だったのかもしれない。


「ホームズ。懐中時計のことについて、聞かせてちょうだい。それをちゃんと聞いたら――」


 下の見えない滝壷を覗きこんだ。

 真っ白で何も見えない。近くに岩肌が隆起していて、落ちれば即死だということだけわかった。





「私もやっと話ができる」




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