紳士とその弟子と
隣にいれば、徹底して守る自信はあった。
これではどちらが男かわかりはしないが、ホームズは用心が足りなさすぎる。
若さゆえか、自分は不死身だとでも思っているのか、私が誘う前から山には登ると言い出していたのだ。
たしかに私もモリアーティ教授と直接の対決をするかもしれないとは……考えられなかった。気を引き締めようにも、見えない相手にそこまで怯えられない。
そもそも追ってきているのは教授なのか。
「犯罪界のナポレオンね」
「――イギリスで一番危険な男だ」
名前を告げないまま、ホームズは繰り返した。容姿の説明は教授そのものだ。
しかしベイカー街を男が訪ねてきた話しはしなかったし、教授が名声のない私立探偵を狙う理由も、曖昧である。
てっきり山の半ばで例の少年でも出くわすかと考えたのだが、思えば自分がそのような姿をしていた。
登山杖を握りしめ、誰か登って来ないか再度確認する。誰もいなかった。
「ラッセル。後ろばかり気にしてどうした」
「思ったより見晴らしがいいのね」
「疲れた。一服しよう」
私を岩場に座らせて、宿で入れて貰った珈琲の入った水筒を傾ける。疲れた身体に暖かいものが染み渡った。
自分は双眼鏡でさらに遠くの下界を見ている。
イギリスでは歩調を合わせてくれないのに。先へ先へと行く長い脚に追いつくため、早く歩くのが当たり前となっていた。
押し殺していても上がる息に気づいて、休憩させてくれたなら。この無愛想な男の何に自分が惹かれたのか、思い出してしまいそうだ。
「その気もないのに隙を見せてはだめ」
「敵にかい。ワトスンにかい?そっくりそのまま返そう」
わざわざ滝の近くへ行こうと言ったのには、動機があった。
どう見ても引き返せそうにない細い一本道を、どうして彼が登りたがったのか、知りたかった。これは明らかに自殺行為だ。
死ぬつもりだったのだろうか?今のホームズにそう聞いてもノーと答えるだろうが、夫ならどう答えただろう。
名声が轟いて、イギリス中で彼を知らぬ人はいなかった。
本を抱えて、どうでもいい事件を持ち込む依頼人が増えた。
モリアーティ教授の攻撃が増し、彼自身が言ったように組織全体を潰すことを先に考えた。
どれも決め手に欠ける。足場の悪い場所におびき寄せ、探偵を抹殺しようとしている教授も理解不能だった。
「理性で動いているのよね。機械のように、正確に」
「ときどき歯車が狂うんだ」
何かひっかかるものがあった。それがどこで聞いた言葉か、覚えていない。
私が歯車を止めるのは、夫であるホームズの前だけだ。
この人は少しでも、私のことを覚えていてくれるだろうか?
淡い期待で馬鹿な考えを起こさないよう、感情を制御する。
目的地にたどり着くと、ホームズはため息を吐いて、手帳を取り出した。予定を確認してるのかと気にも止めず、代わりに双眼鏡を取る。
おかしなことに、先程はいなかった誰かの影が遠くに見えた。顔を見るまでには至らない。ホームズに知らせようと振り向いた途端、私は驚愕に目を剥いた。
「――ホームズ?」
探偵は、見覚えのあるメモ数枚と、杖の置き場を思案していたのだ。
嫌な予感は当たっていた。私の視線を感じ、彼はうなずく。
「話をする前にまず選んでくれ。僕だけ落ちるか、君だけ落ちるか、一緒に落ちるかを」
この滝壺の下へ、とホームズは目をさ迷わせながら言った。
通常の彼ではない。何がそこまで追い詰めたか、考えると冷や汗が出る。
私はひとつ、他の考えを見逃していた。ホームズの自虐的な行為の理由はもっと単純に。
鬱が悪化してコカインを使いすぎ、極論に走ったのじゃないかということを。
教授の姿形によく似た男の、若い顔がこちらを向いた。
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