紳士とその弟子と
探偵が夫について聞いてくるたびに。
私は迷わず年をとったワトスンの話をしていた。ホームズが私の話から、夫と年が離れていることを当てたので、違和感がないかと思ったのだ。
嘘と真実を混ぜながらのほうが、その頭脳をごまかすのに役立った。
有名であることにかけては、ワトスンも負けてはいない。代筆者の名前ばかり取りだたされていても、探偵の相棒は絶対不可欠なものだった。
「この何ヶ月かで、君はロンドンでの生活に慣れた」
「いずれ帰るわ。あなたが帰してくれるんでしょう」
ホームズは宿主から借りてきたヴァイオリンを鳴らし、窓際の椅子で外を見つめている。
私はベッドで読んでいた本を閉じ、ランプを吹き消した。歩きすぎて感覚のない足先を指で揉んでから、横になる。
ホームズが言った。
「もしワトスンと結婚する意思があるなら、手を貸すこともできる」
「重婚になる」
「二人で国の外で暮らせばいい。百年くらい隠れみのにできる別の家や名前や過去は、僕が準備してあげよう」
「どうしてそこまでするの」
私は毛布に包まって、欠伸を噛み殺した。
ヴァイオリンに苦情が出るのも時間の問題。宿主も後悔してるはず。
「――ワトスンが本気だからだ」
それは矛盾している。
ホームズは別のメアリーとワトスンが結婚することに、異議を唱えた。あれは表向きの話だったのか?
ワトスンの創作物は脚色が強すぎて、どこまで本当のことか私にもわからない。
物語を面白く語り、キャラクターとしての探偵を活かすために――どれを捏造したのか知らないのだ。
実際のホームズはそれだけで長編がかけるほど、ワトスンの結婚に難色を示したと聞いている。話に合わない。
「夫について聞いた後に、なぜ」
「その人が実在するとは思えない。君の妄想か、あるいはイギリスにまだいたとして……ラッセル。自分は捨てられたと考えるのが、冷静な考え方だ」
私は身を起こし、枕を投げつけた。この男は、言っていいことと悪いことの区別もつかないらしい。
だが考えてみれば、そう結論づけてもおかしくないのだ。そしてホームズは告げた。
「君を橋から落としたのは彼だ。なぜ理解しようとしない。ワトスンですら気づいている!」
「――」
「そうとも。彼はかわいそうな女性をほおっておいたりしない。君に対する気持ちがまだ同情であるうちに、考えなければならないことがある」
違う、と口にしなかった。一理あると思ったのだ。
この時代に取り残されたように考えて、こちらで生きることを決意したわけでもない。
そういう事態が自らに起こったとして、別の時代に置いてきた家族や友人を、なぜあっさり忘れられるというのだろう?
それでいて、私には帰ることしか頭にない。
「お金を貯めていたのは、よそへ行くつもりだったから。ワトスン先生のことがなければ、もう少し居てしまったかもしれない」
「ラッセル」
「あなたの言う通りよ。認めるには時間がかかりすぎた」
なにもかも現実を変えてしまった上で、仮に元の時代へ戻れたとして……元のホームズがいるとも思えず。
その事実を考えるのが恐ろしくて、行動には移れなかった。
違う世界から来たのだと話す勇気すらいまだに持てないでいる。優柔不断は夫の一番嫌がる行為だと知っていてまだ、決断が下せない。
月明かりに逆光して、ホームズの顔は見えなかった。
ヴァイオリンのシルエットだけが浮かび上がり、胸の痛みで身が裂けそうになる。
「それでも私は夫を愛しているの。彼が迎えに来る方法はない。その事情を――明日話すわ。ホームズ」
涙を出すまいと息を吸い込んだ。いい手だとは考えられない。それでも頼める人が他にいない。
「ライヘンバッハの滝でね」
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