紳士とその弟子と


 唐突に舞い込んだ仕事に、私を同行させるとホームズが言った。



 考えてもみないことだ。私は即座に断った。これ以上彼の中に夫を見るのは嫌だ。私が恋をした男は、盛りをすぎて引退した後の養蜂家の老人。

 慎重さに欠け、大袈裟な演出を好み、友人の気持ちを全く意に介さない探偵とは、別人である。

 ワトスンはとても怒った。僕を連れて行けないとはどういうことだ、と。もう忘れたのか、とホームズが応酬した。


「君は雑誌の連載がある。ロンドンを空けられないだろう」

「ペンと紙さえあればどこにだって行くさ!郵便が届かない地区へ行くのか?」

「君が書く作品に口出しさせたいのか」


 ワトスンはもごもごと口をつぐんで、何時間も唸っていたが、理論武装で負けを認め、ついに承諾せざるを得なくなった。


「どういうつもり」

「記録者が欲しい。それからボーイに化けても不自然じゃない人間が」


 ホームズはため息を吐く。「口髭を剃れと言う勇気はなかった」

 疑問を投げかけようとしたが、今度はそれに伴う結果が怖くて、言い出せなくなる。

 ホームズについて行ったところで、いずれあの物語を読む事態は避けられない。

 返事は保留にして、その日の仕事をこなすため、診療所に戻った。メイドに表の掃除を頼んで、患者が来たら声をかける前にベルを押してと念を押す。

 私は事務員として雇われていたが、知識を吐き出しすぎないようにして、ワトスンの役に立つ助言をしていた。

 ホームズから受けた講義だけではなく、医師本人がまだ医学雑誌を老眼鏡なしで読めたころ、教えられた知識だ。

 時代に合わぬ説明をしないよう神経を研ぎ澄まさなければならないので、ほんのたまにだったのだが。

 メイドはそれだけで私とワトスンの間柄が愛人、もしくはそれに該当する何かだと考えている節があった。

 ワトスンは診察室ではなく書斎にいた。声をかけると窓から振り返る。


「承諾したのかい」

「雇い主の返事を聞いてからでないと」


 ワトスンは椅子に腰掛け、顔を両手で覆った。


「まさか君を連れて行くなんて」

「ごめんなさい。あなたを差し置いて行かないわ」

「君は既婚者だ」

「ああ、世間体なら問題ないの。私は男装してくれと頼まれたから。……彼の評判は知らないけど」

「評判の話ではないよ」


 熱っぽく見られて、一瞬戸惑いを隠せなかった。少女のようにドギマギする。はたと気づいた。

 立ち上がって両手をついて。机越しに指を掴まれると、右手にキスが降りる。


「あの。ワトスン先生」

「困った顔で見られてもこっちが弱る」


 さみしそうに笑った顔に、未来の顔が重なる。真実を話そうか。いや。

 そんなことをすれば、大好きな愛すべきワトスンおじさまは一生立ち直れないだろう。

 メアリー・モースタンについての長編が出てない理由もわかった。私がこの時代に来たことで、予定にあったはずのロマンスが存在しなかったのだ。

 こちらの沈黙をどう取ったのか、ワトスンは机を回って、私の傍らに寄った。


「君は変わった女性だ」

「自覚はあるわ。鈍感なのも生まれつきで、悪気はない。それにあなたは誤解してる」

「僕が最初に君を助けた。ホームズでなく僕が」

「――それは卑怯よ」

「自覚はあるさ」


 ワトスンは私を抱き寄せた。ほとんど身長が変わらない――――それでも年老いた彼よりはずっと背が高い。

 不覚にも胸の動悸が止まらず、そっと押しのけて見上げるのは避けた。雰囲気に圧倒されてはいけない。

 小さく謝ると、力を抜いてワトスンが顔を覗きこむ。


「最初にホームズがしたショック療法を覚えているかい」

「酷い思い出よ。忘れかけていたのに……」



 額に唇が触れる。

 こめかみにも、閉じた瞼の上にも、頬を伝って鼻にも、唇を避けて顎にも。

 行っておいで。それから返事を聞かせてくれ、とワトスンは言った。





 その真摯な眼差しに、何も返せなくなってしまった。




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