紳士とその弟子と


 時間を逆行してホームズに出会う。



 それが事実であったとしても、私の知っている歴史は変わらない。

 彼の生きた時代、経験した失敗や成功、すべてがなくては彼が彼でなくなってしまう。

 ホームズは食事中もときおり金貨を無意識のうちにいじり、私は老人の癖を知ってはいたが、衝撃で言葉を失っていた。

 食後のお茶は二階で過ごそうと、暖炉の傍をすすめられる。ワトスンは煙草を片手に上機嫌で喋った。


「連載だ!」

「祝いのワインは開けただろう。静かにしたまえ」

「ホームズ、僕はどちらの世界に身を任すべきかな?」

「文筆をする人間にろくな者はいないと、いつも言っているじゃないか。頼むからよき友であり、よき相棒であり、よき医師であってくれ」


 ワトスンはホームズの言うことを一言も聞いていなかった。新たに何を書くかという甘美なお菓子に夢中になっている。

 私はかたかたと震えそうになり、これは長い夢なのだと繰り返した。

 ルイス・キャロルの描いたような不思議な生き物は一切出て来なくても、ここが夢であることを忘れなければ、私は現実に戻れる。


「静かだな、ラッセル。仕事はうまくいってるかい」

「ええ。順調よ」

「彼女はよく働くんだ。例えば昨日は――」


 声がどんどん遠のいていく。暖炉の火が弾ける音に、身体を震わせた。

 私はどうすればいいのだろう?

 ここが現実ではないという安心感に従い、動いてきた。これがその報いだとでも言うのだろうか?

 もし本当に過去に戻って……世界をやり直しているとしたら?

 私はホームズの訝しげな視線を跳ね返せず、ソファの上で小さくなった。

 酒に酔っていつになくはしゃいでいる紳士は、まだ独身だった。

 ストランドで連載を始めるにしては、時間軸が早過ぎる。ホームズはある美しい女性から貰った金貨を、この数ヶ月でつけていた。それも明らかに時期がおかしい。



 私の知っているホームズの物語と、ずれが生じている。



 これが現実でないなら当然のことだ。だが、もし、本当に――本当に、彼がホームズだったら?

 私という異分子が来たことで、歴史に歪みが生じていたら。私の夫はどうなるのだろう。

 物語に入り込んだ別の主人公が、好き勝手に動き回れば、ただで済むはずがない。その出来上がった完璧な世界を私が壊して、事実と違う世界にしてしまったら。

 例えばもし、これから起こるイギリスの戦争に口出しして、あるいは他の国に加担したら?

 私の戻る世界に、彼の国はあるのだろうか。

  開けてはいけない物語という箱の中に、強制的に連れてこられた住人は、どう生きればいいのだろう。


「ラッセル?気分が優れないのか」


 ホームズが立ち上がって近づき、酔っぱらって演説を叫ぶワトスンを代わりに座らせる。

 医師はすぐに目を閉じて、寝言を言い始めた。


「横になるならベッドを貸すが」

「――今日は優しいのね」


 膝をついて、私の目の下をさぐる。寝てるのか、と父親のように聞くので、夫を思い出しそうになりその目を避けた。


「よく寝たり、寝られなかったり」

「ご主人のことをあれからもずっと調査し続けていた」


 何も出てこないのだ。出てくるはずがない。私の夫は体だけ若いまま、目の前にいる。

 そばで揺れる金貨をむしり取りたい衝動を抑え、私は囁いた。


「苦しい恋をしたことがある?」

「――」

「出会ったときに相手には婚約者が……あるいはすでに結婚している。想っても敵わないから、普通の人はあきらめる」


 ホームズは黙って私の手を取った。膝頭が動くのを知られたくなくて、私はその指を払いのける。

 夫は違った。

 偶然を神からの贈り物だと思い、その人と結ばれたの、と聞き取れないほどの声で言った。





 その告白が自分の近い未来であることも知らず、ホームズはただ私の顔を見つめていた。




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