紳士とその弟子と
きっかけは些細なことだったかもしれない。
その日の私は非常に虫の居所が悪くて――有り体に言えば排卵日である――、観察力に優れた敬愛すべき老人の戯言を聞き流すことができなかったのだ。
「君の新しい論文を読んだがね、ラッセル」ホームズは眉を上げた。
「あれは酷かった」
何日かけて仕入れた素材、何週間かけて練り上げた材料、何ヶ月かけて煮込んだ料理を、一言で評された。
これが怒らずに平静でいられる話だと――そう誰かが言うなら、私の蔵書は全て犬にくれてやってもいい。
僕たちは君の役には立たないと、書物が一斉に降参するなら諦めるしかあるまい。
老人はいかに私の研究論文が駄作で、学生の頃ならまだしも当に卒業した時間のある身でこれは酷いと。さらに繰り返した。
つらつら流れるその口上が止まることはなく、私は悪態をついたが無視された。
一瞬、お髭の紳士を思い出し、おじさまならわかってくださる。我慢の限界を超えても、聞き分けのよい女房役に徹してきたのだ。三十年以上も! と気持ちを抑えた。
妻の座に納まっても、立場を対等に見せかけた上で行われる、ホームズ優位の探偵講義。分け与える知識の豊富さに、敵った試しがない。
その悪評から学ぶことを捜そうとして、あっさりやめた。無駄だ。
「出て行くわ」
「そう、君は出て行く――なんだって?」
「問題ないわね。これまでだって始終一緒にいたのではないし」
ホームズはそれまで食卓に新聞を広げて、朝食には一切手をつけなかった。
私はその前に座り、口に運びかけていたベーコンを宙に浮かせたまま話を聞いていたのだ。
ホームズは目を局限まで大きく開き、農場の蜂が全部逃げ出したという不幸を受け入れるような表情で言った。
「君がそう決めたなら。しかし理由を聞かせてはくれないかね」
「我慢ならないからよ」
「結婚とはそういうものだ。だから僕はこの年まであの格式張った儀式をしてこなかった」
式は質素なもので、ワトスン博士を立会に呆気なく終わった。私もホームズも神に誓うことへ必要以上に依存してはいない。
籍を入れる方が、周囲へ説明するのが楽である――ほとんどそれだけのために全てを終えた。
「賢明ね。だけど神の前で誓わなかっただけで、同じ気持ちで貴方の元を離れた人もいるわ」
ホームズは眉間にきつく皺を寄せる。 私は素知らぬふりでベーコンを皿に置いて、ナプキンで口を拭った。
言い返せなくなっているホームズを見るのも普段なら楽しいのだが、今あるのは苛立たしさだけ。
お先に、と立ち上がっても、手首を掴まれることはなかった。
考えてみれば他愛ない痴話喧嘩で、いま思い出しても自分の子供っぽさにげんなりする。
彼の相手をする女は、感情ではなく常に理性的でなくてはいけないのだ。彼と同じかそれ以上に。
そうできた男と女を一人ずつ知っていて、妬ましく思う。
結婚したからといって、何かが変わるということはなかった。私たちは、それまでも大概長く共に居すぎたのだ。
私は彼の若いころを知らない。私だけが知らない。それは非常に不公平。
同じかそれ以上の判断力や推理力、知識を蓄えたところで、少女時代から私を観察してきた男に敵うわけがない。
子供心の延長で、ああ、ホームズの若いころってどんなだったのかしら、と足を踏み出した。
そこが吹き抜けの階段で、たまたま体調が悪かった故に、私は手摺りを掴み損ねた。
反転した先に追いかけてきたホームズの顔。
延ばした手と手が少し触れそうになって、安堵したのもつかの間。私は階段を転げ落ちた。
それがすべての発端だった。
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