探偵とやまい


「食事でも行こう。三日三晩なにも食べてないのだから!」

 いきさつは省くとして忍耐強さには定評のある私も、限界があった。「ホームズ、僕は卑怯者にはなりたくない。例えば嘘をついてきみを殴るとか」

「うん? 何か気に障ることをしたかね」

 その一言が地雷だった。気づくとホームズの身体に乗り上げ、シャツの襟首を絞めていた。

「待てワトスン!」

「僕はきみの犬ではないぞ。待てといわれて待つ馬鹿はもう見ない……」

 彼は澄まして吸っていたパイプを投げ、助けてくれっ、と大声を出した。見苦しい。自分のしたことを振り返ってみろ。

「殺すのは別の誰かにしてくれ。きみを捕まえる捜査に協力できないじゃないか」

「やっぱりその程度に思っていたのか。僕を甘くみるな」

「ほかの誰かに! 牢屋にぶち込ませるくらいなら、僕が、そうするさ、ワトスン。く。苦しい」

 当然だ。苦しくしている。

 まただましたな。だまされた私が悪いのか?

 作品中では自分を、大変物分かりのよい人間として描いているが、それは物語を純粋に楽しんでもらうためである。

 読者がページを閉じた後は、私だって彼だって感情の生き物に戻る。

 そうじゃないかね、ホームズ君。

「言い残すことはあるかい? また手紙でも遺すか。教授は書く時間を与えてくれたといってたな。よし、そこの机で書くのを許そう」

「お。落ち着きたまえ、ワトスン! 目が血走ってるよ」

「寝言かい。うわごともいってたな。牡蠣がどうとか小銭がどうとか?」

 手は離したが、身体は拘束したまま見下ろした。ホームズは私を見上げた。喉を押さえて、わずかに涙目になった。本気ではないが、かなり力を入れたからだろう。

 しかし腹立ちはおさまらない。

「まだスマトラの苦力病とかいうのに苦しんでるんだな。可哀相に。僕は医者としては信用ならんらしいから、別の医者を連れてこようか」

「ハドスン夫人! ハドスン夫人!」

 死に直面すると母親を呼ぶと言われている。彼にとってハドスン夫人はそのようなものだ。

 私の名前は呼ばないのだろう。

 さすがに何も食べてないだけあって、いつもの怪力は出ないらしい。普段ならおそらくホームズの方が強いに違いないのだが。

「ハドスン夫人も君にだまされていたことに、ひどく立腹してたよ。今度の今度は、君が死ぬと思ったからね」

「悪かった! 本当に悪かったから離してくれ……うあ」

 シャツをはだけると、あばらが見えた。少し食べないだけですぐ身体が薄くなる。身の細る思いをしたのはこっちだというのに。

 拳でグッと突く。痛いのか、ホームズは喘いだ。触診も兼ねてはいるが、復讐心が多少ある。

「ワト、スン。痛いぞ!」

「栄養失調で死ぬこともあるんだ。やっかいな細菌に感染したり。そうなった時には遅いんだよ、わかっていたのか?」

「僕は、そんなに。やわではないよ。きみも。いるし」

 わかってない。

 これ以上、どれだけ心配させたら、気が済むのだろう。どれだけ周囲をあざむいて、犯人を捕まえる気なのだろう。

「僕は、僕は――きみをまた、死なせてしまうのかと。そばにいるのに、きみを! また」

 思わず本音を漏らしてしまった。

 ホームズが腕を握って、「ワトスン、大丈夫か」と。

 涙が彼の痩せた身体に落ちた。一度泣き出すと歯止めが効かなくなり、口を開きかけて閉じた。

 ワトスン、と言い聞かせるような声がする。わかっている。

 こうしないことには、彼は命を新たに狙われつづけ、死んでいたかもしれないのだ。

 いいたいことなら山ほどあるが、伝わりそうにない。

 滝壺で離れたことを後悔し、ホームズの名前を聞くたびに自分を責めた。そして今度は、己の知らぬ未知の毒にやられた彼を前に、何もしてやれないことがどんなに歯がゆかったか。

 別の人間を呼んで来いといわれて、どれだけ傷ついたことか。

 いろんな思いが交錯して、息を落ち着けるのに時間がかかった。私が頭を下げると、ホームズがうめく。力無い、恐る恐るした声でいった。「ワトスン、……すまない。すまなかった」

「謝罪はいい。もうしないと約束してくれ」

 ホームズは即答しようとしたようだった。しかし、迷っているのか目を合わせない。口を開けたまま、どこか遠くを見た。机か? 遺書を書く決心を固めたのか。

 そうだろうな。私が周囲を騙せる性質ではないことを、知ってるからな。

「ワトスン。きみに嘘をつかないというのは無理な約束だ。きみに真実を話したら、僕が殺される確率は高まる」

 私は目頭を指先で押さえ、ホームズを見た。いつもより真剣な表情で、ふざけてる様子はない。

 話してくれる気になって嬉しい。どんな凶悪な犯人が現れても大丈夫だ、と笑いかけた。

「僕にだけは真実を教えてほしいんだ。きみの命を助けられる場合もあると思う」

 探偵はゴクリと唾を飲み込み、「きみには負けたよ、ワトスン」といった。

 息を吸い込み、灰色の目を合わせた。

「昨夜、食欲を抑えるためにコカインをやった。机の引き出しに証拠もある――正直にいったのだから、命は助けてくれるね?」



 それはちょっと、できない相談だった。



End.
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