ホームズと実験
あっさり檻から抜け出した彼女は、自ら危険な行動に出た。
レストレードに連れられて、馬車を走らせ。夜も更け、街灯と白い煙だけが辺りを支配している。
わずかな光を頼りにして、彼女は――アイリーンは死体を調べ始めた。
体調のすぐれぬ兄の代わりに、ホームズ家特有の推理力を発揮すると言い出したのだ。
レストレードはお手並み拝見とばかりに腕を組んでいる。死体に悲鳴を上げないところが、いかにも名探偵の女版だと笑うのだ。
彼女は警察官の熱い視線を集めても、一向に気にする様子がない。
殺人事件の現場だ。ジキル博士とその友人ハイド氏の名前が犯人としてあがっていた。正直なところ、アイリーンには例の紳士に関わらないでいてほしい。
再度顔を合わせたら、何を言い出すか痴れたものではないからだ。
彼女はジキル博士に会いたがっている。おそらく薬のスペアを望んでいるに違いない。
私がホームズ自身の正体を打ち明けたら、この実験は即座に終了する。薬を作ることもなくなるし、副作用で勝手に変身する回数も減るだろう。
アイリーンの存在は永遠に消えてしまうのだ。
彼女は私の死んだ妻の服を汚しながら、地面に這いつくばっている。いつ部屋から持ち出しのか、ホームズ愛用の虫眼鏡にメジャーまで取り出した。
レストレードはうっとりした調子で、現場の指揮を取る。
陰鬱な空気を吹き飛ばし、地面に座ってるだけで華を咲かせるアイリーンを眺めていた。
「さすがホームズ先生の妹さんですなあ!いやはや、見た目は全然似ていないですが。調査の仕方をどこで学んだのやら」
「部外者だがいいのかね。邪魔だったら連れて帰るが」
レストレードは首を激しく横に振った。
昼にベイカー街を訪れた男とは、違う人間に見える。若い女性の魅力に捕われて、陶然となる経験は私にもある。
あれがホームズでなければ黙っているのだが。
今ならまだ間に合うだろうか。頭を悩ませたマクファースンという男は私だと謝って、協力を仰げるだろうか。
「……レストレード警部。ちょっといいかね」
アイリーンが調査するのに夢中のあいだ、何らかの手を打っておくに限る。
このままジキル宅を訪れることになれば、途中でホームズに変化する可能性も高いのだ。
「勤務中ですからな、手短かに頼みますよ。あ、ひょっとして」
レストレードは身を屈めた。小さな男なので、私も少し背中を折らなければいけない。
「ワトスン博士の悩み事は、恋の話ですか?」
「え。あ――ええっ?」
私は驚きすぎて口を開け閉めした。
こちらの思惑をよそに、レストレードは合点がいったというようにうなずく。
「ホームズさんに邪魔されたのでしょう。なにしろあんな美人の妹を隠していたぐらいだ! 心配いりません」
私はあなたを応援しよう、と肩を叩かれた。否定するわけにもいかず、素直にうなずけもしない。
アイリーンが面を上げた。
帽子の下には、死んだ我が妻より美しい容姿をした女性がいる。ホームズの特徴的な鼻も、顎も、額も何もかも共通点はない。しかし。
素早く服を着て、素早く化粧をし、素早く部屋を出る姿を思い出す。
彼女はホームズなのだ。
小さく短いドレスを着て、私にだけわかるように微笑む。手招きされて、ちょっと胸が高鳴った。
アイリーンは立ち上がって、口元に拳をあてた。警官隊を振り返る。立場もわきまえず、場違いな真似をしたと詫び始めた。
プライドの高いホームズはしたことがない行為だ。
男たちはすっかり鼻の下を伸ばした。女性ならではのしたたかさである。
「てっきり現場に立ち入ることは拒否されると思っていました。女ですから――ありがとうございます」
「いやいや。何かわかりましたか?」
「これは、兄に相談したほうがいいかもしれない。馬車で送ってくれますか」
私に何が予測できただろう。思いもよらなかった。
レストレードに、とんでもない相談を持ちかけるなどとは。
「遅い時間ですから当然です。ホームズさんも早く事件について聞きたいでしょう」
「違います。シャーロックではないの」
一番上の兄に、と小首を傾げる。
慌てすぎて馬糞を踏んだ。靴を砂利道に擦りつけるうちに、アイリーンが傍らに来る。
「マイクロフトに会うわ」
一瞬、強いめまいで何も見えなくなった。