ホームズと実験
3
レストレードとこちらの握った情報を交換し、浮かび上がった物語は、事件とも呼べない代物だった。
少女が蹴られたか殴られたかしたのを、エンフィールドという男が見てヤードに駆け込んだ。
一緒にいた男はアタースンで間違いない。例の紳士について私に依頼をしてきた直後のことだったのだろう。
どうでもいいことだ。本当の事件はそっちではないのだから。
レストレードの反応と事件への相談は、私の心をちっとも刺激しない。
彼はあの隠れた天才について知らないのだ。天才『たち』というべきだな。
大学の研究室で実験をしたとき、私は級友に騙されて同じような薬を服用した。
あれの中身はただの塩だったが。今度のは本物だ。どれだけ違う人間に見えても、私は騙せない。
ジキル博士とハイド氏は同一人物だ。
もちろん私は、この実験を始める前からすべてを知っていた。
有り得ない事実を除いて、残ったものがいかに信じがたい現実でも――ワトスンならもっと上手い言い回しを考えるのだが。
あの薬には、誰も知らない素晴らしい特性がある。
なんて興奮するんだろう! この頭脳と犯罪に関する知識さえあれば、私ほど悪行に向いた人間はいない。
一時的な実験だ。
変化には苦痛が伴うことがわかった。頻繁にハイド氏が出没するのは、ジキル博士の意思によるものではない。
家の執事や家政婦は気づいただろう。ジキル博士にしたところで、周囲の反応でハイドという男の怖さはわかっているはずだ。
今後の脅威となる前に、証拠を掴む。そのために実験は必要だった。しかし、あの薬には欠陥がある。
悪の部分が出ているときのことは、全く覚えていられないのだ。
その可能性をすでに推理していた私は、見届け役としてワトスンを選んだ。
それが間違いだったと気づいたのは今朝だ。やれやれ。
まずはワトスンを説得しなければ。
「聴いていたかい。事件だよ」
「――ホームズ、具合は」
「暇な毎日に光りが射して見えるぞ!犯人に間違えられた医師は気の毒だね。名前は一応書いたかい」
「スティーヴンスン」
「ワトスン!」
「……僕をジェームズと読んでも怒らないよ」
わざとらしい。探るような目つきにもうんざりだ。
ワトスンは私をにらみつけ、冷や汗を垂らしながらいった。
「やっぱり病院に行こう。僕が事情をすべて話すよ、だから――」
「きみより優秀な医者がいるとは思えないが?」
散歩の名目で外に連れ出されたが、企みに気づいて撒いたのだった。
私はまるきり健康体だ。病気でないのは、彼も知っているだろうに。
ワトスンは窓辺に立ったまま、身体を守るように抱きしめた。
「あの薬は駄目だ、何というか……自然に反している」
「落ち着きたまえ。きみだって最初はこの実験に乗り気だったじゃないか」
「僕が飲めばよかった」
「そんなに変身後の僕は酷いのかい」
ワトスンは呻き続け、頼むから医者に見せようと呟いた。
「きみは楽しんでいるが、もうつきあえない! 実験を始めて、なにかいいことがあったかね?」
「コカインは必要なくなってきてる。『彼』のおかげだろう」
「そのうち探偵としての名誉も無くすだろう」
「彼はなんといってたんだ? きみに危害を加えたかい」
ワトスンは激しく首を縦に振った。親しげに彼と呼ぶな、と叫ぶ。きみが名前を教えてくれないからだ。
シャール、シャーリー、シュロック、シュレック! どれもピンとこない。
気をよそへやってると、ワトスンが詰め寄る。のけ反った私の前に、見たまえと本を掲げた。
「下巻だ。汚した!ヤツの……仕業だ」
「見せ場の抗争が始まる下巻まで、千ページもかかる小説だったね。――犯人は僕だ」
「よ、読んでいたのか? 実験前にかい。まさか」
「きみが用を足している隙にざっと。よく観察すれば、匂いはしないだろうが、薬液が染み込んだページは他にもある」
「そ、それ以外だってある。きみが知らないことがたくさん……ほ、ホームズ?どうしたんだい!」
急な胸の痛みに悲鳴を上げた。身体が軋む。ワトスンの腕に寄り掛かり、肩で息をした。
「ま、またか。だからいったろう、支配されるぞ! 気合いで阻止するんだ」
「む、無理をいわないでくれ」
「ホームズ!」
複製した薬はもう必要なくなっていた。私が変化することを望んでいるからだろうか。それとも。
ジキル博士も薬はいらなくなっていたのだろうか。
――ホームズ。
心配しなくてもいいよ、ワトスン。じきにおさまるさ。
事件解決には必要なのだ。たとえちょっぴり。そう、ちょっぴり。
「うわあああああああ!」
耐え兼ねる痛みだったとしてもね。