ホームズと実験


「ドクター。しっかりしてください!」


 医師は私の声にハッとなり、叫ぶのをやめた。真っ青になって、息をハアハアいわせている。

 胸を手で押さえ、非常に苦しそうだ。駆け寄ったが、しぐさで座るように指示された。


「こ。国立公園といってくれないか。心臓に悪いんだ」

「はあ」


 話のさわりすらまだいってないのだが。情緒不安定な彼を、変に刺激しないほうがいいかもしれない。

 いとまを告げるべきか、元気を出すよう励まして残るべきか。


「帰りましょうか?」

「いや。続きが聞きたいね、ぜひ……うっ」


 幽霊でも見たかのような真っ青な顔に、後ろを振り返った。


「何を叫んでいたんだ、ワトスン? ようこそ、レストレード警部!」


 片手にミセス・ハドスンの用意したらしき盆を抱え、シャーロック・ホームズが立っていた。

 もう片方の手にはスコーンがある。ポロポロとカスが落ちても一向に気にする様子がない。

 こっちはいつも通りだ。

 変装の名残なのか、頬に紅が注してある。通常より顔色がいいくらいだな。

 驚いた表情のワトスンのほうが、よっぽど恐ろしい形相だった。


「さっき僕を撒いたね」


 警戒心たっぷりに医師はいった。窓から離れようとはしない。


「ワトスン。僕はきみとハイド・アンド・シークがしたかったんだ」


 効果は抜群だった。

 Aの音もBの音も出さなかったが、ワトスンの髪の毛は逆立ち、口ヒゲはぴんと横に張りつめる。

 かくれんぼ? 引き攣るほどの単語だろうか。

 推理を展開しようと首をひねる。ハイドの文字にヒントありだな、そのくらい私にもわかる。

 腕を組むと、目の前に葉巻を出された。無意識にクチを切ってうなる。マッチで火をつけられ、「ありがとう」といったところで、正気に戻った。

 探偵はすでに自分のソファに座っている。指を合わせて天井を仰ぎ見た。


「エンフィールドなら知っている」

「……聴いていたのですか」

「彼はアタースン弁護士の従兄弟だね。ハイド・パークの少女誘拐未遂事件を目撃したのでしょう」


 ホームズの言葉に、ワトスンは半死半生の様子だ。かろうじて息をしている。

 私は彼を気遣って口を閉じるべきか否か悩んだ。

 ホームズは対称的に機嫌よく体を揺すっている。先をうながし、あごを突き出した。


「いえね――ホームズさんのお知恵を拝借するほどでもないのですが」


 探偵はわかっているというように、うなずいた。

(仮に僕のおかげで解決の糸口が掴めたとしても、自分の名前は出さないよ)という合図だ。

 私のほうにも、確認の目配せをとる。

(それなら面白いたれこみがあるときは、次回も貴方に謎を提供しますよ)という意味だ。

 本日、利害が一致しないのは医師だけである。

 いつもならここで、(それなら僕も事件を小説に書いてもいいかね?)という一瞥を彼も行い、三人そろって黒い笑みを……ゴホン。

 ともかく、そういう気配はちっともない。相変わらずうつむいてぶつぶつと。



 やはり聖書で間違いないようだ。



 私は夢中になって探偵に相談した。眠るようにして彼だけは聴いてくれる。

 そのうち失せていた食欲も戻り、スコーンとホイップにひたった。


「少女を襲った男の名前すら、警視庁は手に入れてないのかい」

「アンガス・マクファースンと聴いていますがね」


 ホームズはやれやれというように首を振った。私は少々気分を害しながらも、冷静に対処する。

 このくらいで腹を立てていては、探偵とは付き合えないのだ。


「歩く名刺のような男ですよ。エディンバラの医学部卒、王立協会会員、法医学者で医学博士ときた!」

「その男は全く関係ない。犯人の名前はワトスンだって知っているよ」


 存在を忘れかけていた医師が、窓際で震えた。目線をなんとか外そうと必死だ。

「あちこちで乱暴を働いているのが、調べたらすぐわかる。彼の名前は、ワトスン?」


 振り向きもせずにホームズがいった。ワトスンは、その背中を凝視して、ごくりと唾を飲み込む。

 私を真っすぐに見た。逆光で姿が影になっている。目だけが光り、私も唸った。


「彼は――彼の名は」


 同じく逆光のホームズがニヤリと笑って、こちらは歯だけを光らせていった。





「ハイド氏だよ」




4/16ページ
スキ