ホームズと実験


 2


 私と私立探偵のホームズが知り合って、早いもので……ええと、待てよ。物忘れするような年じゃないぞ。



 まあ20年には足りないところだ。うん、全然足りないに決まってる。

 次の昇進が危うくなっていた。ちょっと知恵を借りないとまずい。未解決にするにはちょっとな。それだけだ。

 べつに、最近ヒマらしいと噂にきいたので、探偵をチェスの相手にしようとか、そのあと医者はビリヤードに誘うぞとか。

 そんなこと、断じて思ってない。断じてだ。

 呼び鈴で扉を叩くと、小柄な老夫人ミセス・ハドスンが出迎えてくれた。


「あら。警部さん。ホームズ先生なら、いましがたドクターと出て行かれましたよ。お待ちになるにしても一時間は」

「ご迷惑でなければですがね。あんまり寒いんで、中に……」

「もちろんですとも。さあさ、入って! ミルクティーをいれますから」


 暖かい部屋に一歩足を踏み入れると、ここにきた目的を忘れそうだった。

 スコーンがつくに違いない。焼きたての臭いがする。いい時間に来たようだ。朝から何も食べてない。


(なぜ食べてないんだ?)


 食べられなかったのだ。その理由を思い出したとたん、食欲は一気に失せた。

 ステッキと帽子をかけ、コートを脱がせてもらっていると、ミセス・ハドスンが声を上げた。


「まあ。もうお帰りでしたか? ホームズさんはどうなすったの」


 振り返ると、立派な口髭の紳士がニコニコ顔で立っていた。「レストレード君!久しぶりじゃないか」

 私は驚いて返事ができなかった。

 入り口に立ったワトスンは、若干やつれて見える。出会ったころもホームズと変わらないくらい痩せていたのだが。

 医師は結婚後数年以来、なかなか英国紳士らしい体つきになっていた。奥方が亡くなってからもさほど体型に変わりはなかったのだ。

 それが今日は。何と言うか……縮んでる。探偵にいわれてベイカー街に戻ったせいだろうか。


「ドクター? 悩み事でもあるんですか」


 ワトスンはびくりとして、私を見た。丸い目が落ち着きなく動く。実にわかりやすい。私は彼を怯えさせないように、笑みを浮かべた。

 可愛い気のない相棒と違い、この医者には人を優しい気持ちにさせるなにかがある。


「なぜわかったんだね。ひょっとしてバターにパセリの沈んだ高さを計ったのかい」

「なんです、それは。だいたいどうやって計るんだ。溶けたバターに手を突っ込んだのか」

「いや。私にもわからないんだ、実は……」

「おふたりとも。立ち話はそれくらいにして中へ!」


 ミセス・ハドスンに追いやられ、二階の部屋へ移動しつついった。


「いえね、体格が変わったなと思ったもので。ホームズさんの推理などではありませんよ。見ればわかります」


 何気ない一言が、医師の何かを揺さぶったらしい。階段の途中で振り返って詰め寄られた。

 一見したところ、激しく動揺している。


「な。なにがだい。僕の何がどう変わったというんだい」

「ええ? や、その」

「はっきりいってくれ。いや、僕はあんな恐ろしいものに口をつけては……そうだ、僕は僕だな。グレグスン警部!」

「――レストレードですよ。奴とはどこも似てないでしょうが」


 ワトスンの剣幕に押されて、私は三段階段を降りた。

 ミセス・ハドスンが踊り場で振り返り、「最近ずっとこの調子なんですよ」といった。


「わたくしのことはターナー夫人とか呼ぶし、ホームズ先生は実験ばかりで、部屋から一歩も出ようとしないんです」

「混乱してるんだ。私もホームズを散歩に連れ出したじゃないか。ところが道の途中で撒かれてしまった!」


 ワトスンは興奮してぶつぶつ何かつぶやいた。聞き取った限り、聖書の一部のようだ。

 部屋に入り、のけぞった。いつも散らかってはいるが、まったく今度はすさまじい。

 嵐でも過ぎ去ったかのような室内も気にとめず、ワトスンは器用に書類や実験道具を避けて、探偵のソファに座った。

 ミセス・ハドスンと顔を見合わせると、彼女は肩をすくめて苦笑する。暖炉に火を焼べ、お茶の用意をしに行ってしまった。

 さて、どうしたものだろう。

 ワトスンは頭を抱えて床を眺め、私に向かって自分のソファを指さした。


「しかしながらすごい悪臭ですな。安煙草と化学薬品と。ひょっとしてあれか、なんでしたっけね」


 ワトスンが顔をあげた。興味を引かせて、何らかの悪いことを忘れさせるのだ。

 元気を出してもらうには、これしかない。


「あなたの書いた。ホームズさんについての傑作……ヤード中で朗読会が開かれてるんだが、ええと確か」


 しまった、タイトルが出ない。素っ気ないうえにセンスがないから、記憶に残らないのだ。あれはなんだったか。


「そうそう。『悪魔の足』! 面白かったですなあ。ホームズさんの失敗談は、特に署内のお偉方がお気に入りでして。野太い声で恐怖の実験を音読された日には、夜も眠れない――ワ。ワトスンさん。ドクター?」


 探偵はほめられるとすぐ赤くなったり、のぼせるのだけれど、医師は違った。

 先よりずっとぐったりしている。呻いているのに気づき、慌てて駆け寄った。


「すまない、レストレード。ちょっと、めまいがしただけだよ」

「医者を呼びますか。長椅子に横になったほうが」


 大丈夫だ。という声はかすれて、耳を澄まさないと聞き取れないほどだった。

 医者の不養生。考えるとワトスンは仕事を引退した身である。互いにそろそろ病気をしてもおかしくない年だ。

 それとも。まさか精神の病か? いや、このひとに限ってそんな。ちょっと鈍感で明るいところだけが取り柄なのに。

 私は話を変えるのに集中した。そうだ。


「いま、関わってる事件があるんですがね」

「うん。そうだろうと思った。しばらくホームズは使いものにはならない」

「ドクターに聞いていただけたら満足ですよ。『推理の刺激剤には、話を聞いてくれるワトスンが一番だ』とホームズさんもいってましたしね」


 医師の表情が明るくなった。

 私は、痛んだ胸を撫でた。探偵の口からそんなセリフは出たことがない。

 コカインとパイプの次くらいには、探偵も彼を必要としている。そうに決まっている。


「エンフィールドという男をご存じですか? 頭のおかしな言動をするので、小説の題材にはもってこいだと考えまして。聞きます?」


 ワトスンは頷いた。好奇心で少しだけ頬に赤みがさす。こういうところはホームズとおなじだ。

 手ごたえを感じながら、私は続けた。地雷を踏むとも知らずに。


「ハイドパークの辺りで――」


 なにがワトスンの逆鱗に触れたというのだろう。彼はハッとして飛び上がり。

 部屋を一気に横切って、窓に背中をはりつけた。その瞬間、口を大きく開け。





 Aの音をバリトン歌手のように鳴り響かせたのだった。





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