ホームズと実験
いつの時点でもとめるべきだったのだろうが。抑え切れない好奇心のせいで、私の動きは出遅れる。
待てというのすら間に合わない。液体はすべて彼の喉を通り過ぎた。
「まずい。注射にするべきだったか」
喉を押さえてホームズはいった。「ハドスン夫人特製野菜ジュース並だ」
私は我に返って焦った。いま彼が飲んだのは、なんの薬なのだろう?
「ホームズ! その液体がどういったものなのか、まだ……」
「いったら君は協力などしてくれなかっただろうな」
ホームズは白衣を着たまま、どさりと寝椅子に体を預ける。広い額にかかった髪をかき上げ、ため息をついて不敵な笑みを浮かべた。
「薬が血液に均等に混ざるまで、時間がある。ちょっとおもしろい、事件の全容を話しておいていいかい」
「望むところだ。もちろん実験についても聴かせてくれるね?」
そうしよう、と答え胸の真ん中で手を組み合わせる。
私は椅子を近くに引き寄せて、彼の枕元に腰掛けた。ホームズは彼特有の神経質な仕草で、組んだ指を上下させている。
懐中時計を取り出してちらっと見た。
「実はきみが本を買いに行ってる数十分のあいだに、珍客が来てね」
まったくの初耳だ。
不満が伝わったのだろうか。ホームズは苦笑して、首を横にふった。
「ろくでもない小説に没頭して見てないだろうけども、まだそこのテーブルに紅茶のカップが残っているよ」
いわれてみれば、私専用の椅子の代わりに客用のソファが、暖炉近くに移動している。たしかに来客はあったらしい。
ホームズは、愉快でたまらないといった表情を崩さないで、続きを話した。
「月曜に相談に来た、中年の弁護士を覚えているかい」
「アタースンとかいったね? 知人の医者と同名だから記憶にある。友人の交友関係を調べてほしいと口にしてたな」
職種にふさわしく、鋭利な目を持つ真面目そうな人物だった。意気込んでベイカー街を訪ね、肩を落として帰るはめになった男だ。
アタースン弁護士は友人の名誉を気づかうあまり、事情を話さず調査をしてもらいたがったのだが。
一人の人間の身辺調査をするだけの仕事はホームズの興味をひかず、依頼は受けなかった。
それが今朝だね、とホームズがいう。
「調査対象の友人が来たのだよ。はじめこそ大人しくしていたのだが、そのうち本性を現した。家に出入りしている醜悪な顔の男について、深入りするなと僕に脅しをかけるのさ」
私は思わず身を乗り出した。脅迫をしてくるタイプは、たいていホームズより体格がいい。
彼が見かけと裏腹に格闘に長けているのはわかっていても、ひとりでは危ういときもある。
「いや。心配にはおよばないよ、ワトスン」ホームズはいった。
「ひ弱そうな、顔の青白い学者らしい男だった。僕が高熱を出して寝込んでいたら、話は別だけどね。ただ、いくら関知してないといっても信じず、通りに聞こえる声でわめきだしたんだ」
まあ実際、彼を調べてはいたんだが、とつぶやいた。
あらかじめ今週が暇だと知っていれば、ホームズは最初から依頼を受けただろう。
おそらく考え直してアタースンが来ることを期待していたのではないか。
ところが当の本人が先に嗅ぎ付けた。ホームズの視線に気づくなど、よっぽど勘のいい男に違いない。
「やつは医学と法学の博士号を持っている知性的な紳士だが、周囲はどうもきな臭いんだ。それに楽しい噂話を見つけてね。今回の実験はそれがはじまりなのだよ、ワトスン」
ホームズは興奮し、獲物を捕らえるライオンのように唇をなめた。
頬が赤らんでいる。
たいていホームズは依頼が持ち込まれると、その内容をすぐさま語ってくれるのだが、なぜ話してくれなかったのだろう。
ホームズの伝記を記述して、ボズウェルのような役割を担ってから、私はなるべく最初から最後まで、事件の渦中に関わっていたかった。
「次からはコートを脱ぐより早く話してほしいものだね」
「怒らないでくれたまえ。僕の秘密主義はいつものことだろう! いやはや、思ったより効きが早いらしいな」
薬が効いてきたのだろうか?苦しむ様子はないが、やや呼吸が速まり、幾度も額をギュッと縮める。
私は無性に不安になり、脈を測らせてくれと申し出た。ホームズは手を掲げて拒む。
「大丈夫。変わった様子はない。以前似たような薬を飲んだことがあるんだ。毒性がないことも調べた」
「薬はどこで手にいれたんだい? きみが作ったんじゃないのか」
「彼の上着ポケットから拝借したんだよ。小壜に少しだったが、成分は驚くほど単純だ。調べるうちに半分になったから、腹におさめた」
サラリといわれた内容に、声をつまらせた。
「ぬ、盗んだのかね」
「スリに変装するうちに磨いた特技だ。ベイカー街の子供たちに教わったのだよ」
捜査に関連することで、犯罪まがいの真似をしたことは幾度もあったが、これはやりすぎだ。
液体の入った小壜のように、小さいものを人の懐から盗れるなら、財布もしかりだろう。正当な理由がないなら、いくらなんでも見過ごせない。
聞いておかないことには、夜も眠れそうになかった。
「いくら盗ったんだい」
「人聞きの悪い。若いころと違うのだ、金には困ってない。いや、今も昔も他人の貴重品を盗んだことはないさ」
本人にとって価値があるなら、どんなものも貴重品だろうと頭をかすめた。
私の非難の目を無視して、ホームズは長く息を吐く。
「熱くなってきた。窓を開けてくれないか」
「この寒いのにかい。ああ、どうしてこそ泥なんて……その薬にはどんな効果があるんだ。きみは知っていて盗んだのか?」
私は一生懸命弁護士の話を、その友人の名前を思い出そうと努めた。名探偵手製の人名事典にも載っていなかったはずだ。
あれから診療所の患者名簿を作ってるうちに、すっかり忘れてしまった。
立ち上がって窓際に寄り、望み通りに窓を開けると、冷たい風が一気に部屋を支配した。
「彼は、ええと。名前はなんだったかな」
ジキル博士だ、とホームズはいった。